3月24日のケーキの会での、ベック兄メッセージから。先の(下の)メッセージを読んでいて、まだまだ「自分の罪」を自覚していないわたしを知り、がっくりきたり心配?したりしていたのですが、このメッセージで「まだ今はわからなくていい」とおっしゃってくださっているので、良かった~と、ほっと安心しましたー。ほ~んとに私、聖書のこともメッセージのことも神様のこともイエス様のことも罪のことも、ちゃんとはわかっていないんですよー。駄目駄目クリスチャンですぅ~。
**************** <メッセージ 部分>*******************
(引用聖句 出エジプト15章22~27)
・・・・・・・・・・・・・・・だれでも自分の悩みや苦しみを持っており、色々な問題で弱り果ててる・・・・・・・・という経験を持ってるはずですと聖書は言ってます。悪魔はもちろん私たちにささやくかもしれない。あなたが何をしても結局無意味だよ。諦めたほうがいいんじゃないか。望みの光を全然見ることができないようになります。人間的に見るならそれはなーんの望みもない。・・・・・・・・・・・・・
だれひとりマラを避けて通ることはできない。・・・・・・・・・・主は私たちをもマラ、すなわち逃れ道のない状態に導き入れるでしょうけど、偶然は存在しない。ということを絶えず覚えるべきです。主ご自身は御手のうちに手綱を持っておられ、それをほかのだれにも渡しません。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・困難がやって来ます。けどもその背後に主は立っておられます。主は支配者です。・・・・・・・・・次のように言える人もいます。救われる人はもはや、何の悩みも何の苦しみも何の問題も持っていないと。けども聖書を見ると違うこと書いてます。主がわれわれを試練にあわせ、清めることができるために悩みはたくさん存在してる。
すなわちこの世の問題、悩みはそもそも信仰者になるときに初めて始まるのです。信ずる者の人生はいつも嬉しくて嬉しくてしょうがないという人生ではない。イエスさまははっきりいわゆる別れのことばとして何と言ったかと言いますと、「あなたがたは世にあっては患難がある。」患難がある。ペテロ第一の手紙を見ると次のように書かれてます。これはペテロの当時の信ずる者を励ますための呼びかけです。420ページです。ペテロ第一の手紙の4章の
12節。
愛する者たち。あなたがたを試みるためにあなたがたの
間に燃えさかる火の試練を、何か思いがけないことが
起こったかのように驚き怪しむことなく、・・・・・・・・・・・
今分からなくても、けど、分かるようになる。主はその愛する者を懲らしめると聖書にも書かれてます。・・・・・・・・・・・・・・・・・主のものはだれでも困難な試練を通って主のあとに従うようになるんです。私たちにこうした苦しみや悩みがないとするならば、私たちは本当の意味で主を愛し、主をよりよく知りたいと思ってるかどうかが疑わしいなのではないでしょうか。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・申命記の8章の2節です。
・・・・・・・・・・・・・・・・
それは、あなたを苦しめて、あなたを試み、
あなたがその命令を守るかどうか、
あなたの心のうちにあるものを知るためであった。
・・・・・・・・・・・・・ 私たちもまた試練を受けなければならないでしょうけど試練はわれわれに対する主の愛の証明です。・・・・・・・・・・もしも私たちが試練を通らないで、簡単な楽な道を選ぼうとするならば、それはわれわれにとって決して好ましいものではなく、むしろ気の毒なものです。私たちの経験がどのようなものであろうとも、私たちは次の態度を取るべきです。
すなわち 主よ。どうか引き続き私に望んで働いてください。あなたのみこころだけが行なわれますように。私たちにとって耐えがたい苦しいこと、すなわちマラの経験をするときに私たちの反応が問題でしょ。・・・・・・・・・・
私たちが避けるべき危険とはいったい何なのでしょうか。・・・・・・・・・・・イスラエルの民は動揺してしまった。主のしもべであるモーセに対してつぶやき、そのことによって実際には主ご自身に対してつぶやくことによって心の憂さ晴らしを示した。つぶやくことはもはや信頼しない。大部分の事情によって動かされるものは簡単に動揺します。イスラエルの人々は彼らを解放してくださった力強い主に対してはほめ歌いましたけど、そにすぐあとで彼らは
完全に打ちのめされ、主に対して不平不満をつぶやきました。・・・・・・・・・・
私たちの心の中が夜、暗たんとなるのはいかにたやすく起こることでしょうか。私たちは絶望の淵にたやすく立たされるのですけど、主を見上げる者はマラからエリムへ進んで行くこと。すなわち大変な苦しみを通してまったく新しく変えられることを経験できるのです。すなわち私たちは新たなる使命、新たなる奉仕を与えられます。
信仰は私たちをつぶやきや反発へ導きます。目に見えるものに支配される者はとんでもない方向に行ってしまいます。苦しみや悩み、理解できない導きを見る者は、自己憐憫に陥ります。私たちはつぶやき、次のように言い始めます。・・・・・・・・・・主はなぜ守ってくださらなかったなのでしょうか。もち
ろん主はおできになったでしょう。主にとって不可能なことは一つもありません。問題は、信仰者がホントに主に信頼しなかったことだったのです。主はいつも信仰者の近くにおられ、助けたい!と心から思っておられ、ご自身を啓示したいと望んでおられます。祝福したいと思っておられます。
・・・・・・・・・・・・私たちが避けるべき危険はつぶやくことであるということを見てきました。・・・・・・・・・・・・
民はモーセに逆らって、つぶやきました。しかし、モーセは主に叫びました。イスラエルの民が話しても、色んなこと説明しても、議論してもなーんにもならない。だからモーセは主に叫びました。これこそが勝利の秘訣です。モーセは自分で考えたり、色々な人々と相談したりしなかったのです。ただ主に叫んだー。モーセは怒って、人々を叱りつけることをしなかったのです。彼は次のように言うことができたはずです。どうか愚かなことしないように主に信頼しましょうよ。
・・・・・・・・・・・・・モーセは人間を叱る代わりに主のみもとに行き、すべてを主にゆだねました。ゆだねないと、もう耐えられない重荷であるからです。またモーセは次のように言うことができたでしょう。もう十分だよ。もう。諦めます。自分
勝手にしたいことをしなさい。と。またモーセは主に向かって次のようにも言うことができたはずです。主よ。私には荷が重過ぎます。二百万人もの人たちの世話をするのはもう大変です。疲れました。と。
それによって問題は根本的に解決しました。主は祈りを必ず聞き届けてくださる方です。自分の重荷を持って主のみもとに行き、その重荷を主にゆだねることができる人はホントに祝福されます。
ヤコブ書の中で、「あなたがたのうちに苦しんでいる人がいますか。その人は祈りなさい。」と書いてあります。5章13節です。・・・・・・・・・・・・・・・・苦しんでいる人がいるならばその人は試練にあっているので、荒野であるから、これこそが前に話したマラの状態にいることです。つぶやくすべての理由をもってるでしょうが、その人は主に呼び求めてください。そのために色々な悩みや苦しみがおかれてるからです。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・そのときエリシャは色々な慰めの言葉をかけようとしなかったのです。
聖書は何と言ってるかと言いますと、エリシャは中に入ると戸を閉めて、ふたりだけになって主に祈った。・・・・・・・・・・悩みとは結局、祈りの材料とならなければダメ。祈ると主は必ず働いてくださいます。
イスラエルの中でヒゼキヤという王さまは非常に有名な王でありました。彼はあるとき、一通の面白くない、ひどい手紙をもらいました。けど彼はそのことを怒ったり、不満を言ったりしなかったのです。また、その手紙を公に見せたり、愚痴を言ったりしなかったのです。なにをしたなのでしょうか。聖書は次のように言ってます。
ヒゼキヤは、使者の手からその手紙を受け取り、それを読み、主の宮に上って行って、それを主の前に広げた。主よ。見て。ひどいでしょ。けど私はどうしたらいいかまったく分からないけどお任せいたします。
結局すべては祝福になりました。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・私たちは、私たちよりもはるかに苦しめられ、底知れぬ深みを通って行かれたイエスさまを仰ぎ見なければならない。・・・・・・・・・全人類の罪の問題は解決されました。悪魔は力を失、死の力を奪われたのです。
イエスさまは勝利者です。私たちはみないかなるマラの経験に対しても、それがどれほど私たちを苦しめ、落胆させようとも、そのことに対していつか必ず主に感謝できると確信しています。イエスさまは十字架につけられ、捨てられ、のろいとなられたことによって、最大の勝利を勝ち取られました。外側を見ると、決してそのようには見えず、悪魔の勝利したように見えます。・・・・・・・・・・・・・・
・・・・・・・・・・・コリント第二の手紙4章の16節から。
4:16 ですから、私たちは勇気を失いません。
たとい私たちの外なる人は衰えても、
内なる人は日々新たにされています。
4:17 今の時の軽い患難は、私たちのうちに働いて、
測り知れない、重い永遠の栄光をもたらすからです。
4:18 私たちは、見えるものにではなく、
見えないものにこそ目を留めます。
見えるものは一時的であり、
見えないものはいつまでも続くからです。
避けどころであるイエスさまのところに行く人は祝福されます。主はなんでも変えられます。周りの人々だけではなく、自分自身でさえも変えられるのであります。すべての重荷と悩みを持って、イエスさまのみもとに行く者は経験します。すなわち私の苦しんだ苦しみは平安のためでした。
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<メッセージを読み終えて…。>
本当の「平安」は、確かに、この世的な幸福の上には生まれないかもしれない。私たちは、恵まれた人生を送っても、きっとそこに不満を抱くに違いない。もっともっと満足したいと、欲求はエスカレートしていくに違いない。神様の御心を、本当の意味で理解することは、今の私にはできない。でもきっといつか、主がすべてを教えてくださると思う。
せっかく虚しい人生の歩みから主にある平安にうつされても、簡単に以前の歩みに戻ってしまう自分がいる。
イエス様。この自分勝手なわがままな私を、どうぞお赦しください。あなたが、わがままな罪だらけの私をも、神様の前にあって、真っ白な雪のようなものにしてくださると聖書に書いてありますから、感謝いたします。
**************** <メッセージ 部分>*******************
(引用聖句 出エジプト15章22~27)
・・・・・・・・・・・・・・・だれでも自分の悩みや苦しみを持っており、色々な問題で弱り果ててる・・・・・・・・という経験を持ってるはずですと聖書は言ってます。悪魔はもちろん私たちにささやくかもしれない。あなたが何をしても結局無意味だよ。諦めたほうがいいんじゃないか。望みの光を全然見ることができないようになります。人間的に見るならそれはなーんの望みもない。・・・・・・・・・・・・・
だれひとりマラを避けて通ることはできない。・・・・・・・・・・主は私たちをもマラ、すなわち逃れ道のない状態に導き入れるでしょうけど、偶然は存在しない。ということを絶えず覚えるべきです。主ご自身は御手のうちに手綱を持っておられ、それをほかのだれにも渡しません。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・困難がやって来ます。けどもその背後に主は立っておられます。主は支配者です。・・・・・・・・・次のように言える人もいます。救われる人はもはや、何の悩みも何の苦しみも何の問題も持っていないと。けども聖書を見ると違うこと書いてます。主がわれわれを試練にあわせ、清めることができるために悩みはたくさん存在してる。
すなわちこの世の問題、悩みはそもそも信仰者になるときに初めて始まるのです。信ずる者の人生はいつも嬉しくて嬉しくてしょうがないという人生ではない。イエスさまははっきりいわゆる別れのことばとして何と言ったかと言いますと、「あなたがたは世にあっては患難がある。」患難がある。ペテロ第一の手紙を見ると次のように書かれてます。これはペテロの当時の信ずる者を励ますための呼びかけです。420ページです。ペテロ第一の手紙の4章の
12節。
愛する者たち。あなたがたを試みるためにあなたがたの
間に燃えさかる火の試練を、何か思いがけないことが
起こったかのように驚き怪しむことなく、・・・・・・・・・・・
今分からなくても、けど、分かるようになる。主はその愛する者を懲らしめると聖書にも書かれてます。・・・・・・・・・・・・・・・・・主のものはだれでも困難な試練を通って主のあとに従うようになるんです。私たちにこうした苦しみや悩みがないとするならば、私たちは本当の意味で主を愛し、主をよりよく知りたいと思ってるかどうかが疑わしいなのではないでしょうか。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・申命記の8章の2節です。
・・・・・・・・・・・・・・・・
それは、あなたを苦しめて、あなたを試み、
あなたがその命令を守るかどうか、
あなたの心のうちにあるものを知るためであった。
・・・・・・・・・・・・・ 私たちもまた試練を受けなければならないでしょうけど試練はわれわれに対する主の愛の証明です。・・・・・・・・・・もしも私たちが試練を通らないで、簡単な楽な道を選ぼうとするならば、それはわれわれにとって決して好ましいものではなく、むしろ気の毒なものです。私たちの経験がどのようなものであろうとも、私たちは次の態度を取るべきです。
すなわち 主よ。どうか引き続き私に望んで働いてください。あなたのみこころだけが行なわれますように。私たちにとって耐えがたい苦しいこと、すなわちマラの経験をするときに私たちの反応が問題でしょ。・・・・・・・・・・
私たちが避けるべき危険とはいったい何なのでしょうか。・・・・・・・・・・・イスラエルの民は動揺してしまった。主のしもべであるモーセに対してつぶやき、そのことによって実際には主ご自身に対してつぶやくことによって心の憂さ晴らしを示した。つぶやくことはもはや信頼しない。大部分の事情によって動かされるものは簡単に動揺します。イスラエルの人々は彼らを解放してくださった力強い主に対してはほめ歌いましたけど、そにすぐあとで彼らは
完全に打ちのめされ、主に対して不平不満をつぶやきました。・・・・・・・・・・
私たちの心の中が夜、暗たんとなるのはいかにたやすく起こることでしょうか。私たちは絶望の淵にたやすく立たされるのですけど、主を見上げる者はマラからエリムへ進んで行くこと。すなわち大変な苦しみを通してまったく新しく変えられることを経験できるのです。すなわち私たちは新たなる使命、新たなる奉仕を与えられます。
信仰は私たちをつぶやきや反発へ導きます。目に見えるものに支配される者はとんでもない方向に行ってしまいます。苦しみや悩み、理解できない導きを見る者は、自己憐憫に陥ります。私たちはつぶやき、次のように言い始めます。・・・・・・・・・・主はなぜ守ってくださらなかったなのでしょうか。もち
ろん主はおできになったでしょう。主にとって不可能なことは一つもありません。問題は、信仰者がホントに主に信頼しなかったことだったのです。主はいつも信仰者の近くにおられ、助けたい!と心から思っておられ、ご自身を啓示したいと望んでおられます。祝福したいと思っておられます。
・・・・・・・・・・・・私たちが避けるべき危険はつぶやくことであるということを見てきました。・・・・・・・・・・・・
民はモーセに逆らって、つぶやきました。しかし、モーセは主に叫びました。イスラエルの民が話しても、色んなこと説明しても、議論してもなーんにもならない。だからモーセは主に叫びました。これこそが勝利の秘訣です。モーセは自分で考えたり、色々な人々と相談したりしなかったのです。ただ主に叫んだー。モーセは怒って、人々を叱りつけることをしなかったのです。彼は次のように言うことができたはずです。どうか愚かなことしないように主に信頼しましょうよ。
・・・・・・・・・・・・・モーセは人間を叱る代わりに主のみもとに行き、すべてを主にゆだねました。ゆだねないと、もう耐えられない重荷であるからです。またモーセは次のように言うことができたでしょう。もう十分だよ。もう。諦めます。自分
勝手にしたいことをしなさい。と。またモーセは主に向かって次のようにも言うことができたはずです。主よ。私には荷が重過ぎます。二百万人もの人たちの世話をするのはもう大変です。疲れました。と。
それによって問題は根本的に解決しました。主は祈りを必ず聞き届けてくださる方です。自分の重荷を持って主のみもとに行き、その重荷を主にゆだねることができる人はホントに祝福されます。
ヤコブ書の中で、「あなたがたのうちに苦しんでいる人がいますか。その人は祈りなさい。」と書いてあります。5章13節です。・・・・・・・・・・・・・・・・苦しんでいる人がいるならばその人は試練にあっているので、荒野であるから、これこそが前に話したマラの状態にいることです。つぶやくすべての理由をもってるでしょうが、その人は主に呼び求めてください。そのために色々な悩みや苦しみがおかれてるからです。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・そのときエリシャは色々な慰めの言葉をかけようとしなかったのです。
聖書は何と言ってるかと言いますと、エリシャは中に入ると戸を閉めて、ふたりだけになって主に祈った。・・・・・・・・・・悩みとは結局、祈りの材料とならなければダメ。祈ると主は必ず働いてくださいます。
イスラエルの中でヒゼキヤという王さまは非常に有名な王でありました。彼はあるとき、一通の面白くない、ひどい手紙をもらいました。けど彼はそのことを怒ったり、不満を言ったりしなかったのです。また、その手紙を公に見せたり、愚痴を言ったりしなかったのです。なにをしたなのでしょうか。聖書は次のように言ってます。
ヒゼキヤは、使者の手からその手紙を受け取り、それを読み、主の宮に上って行って、それを主の前に広げた。主よ。見て。ひどいでしょ。けど私はどうしたらいいかまったく分からないけどお任せいたします。
結局すべては祝福になりました。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・私たちは、私たちよりもはるかに苦しめられ、底知れぬ深みを通って行かれたイエスさまを仰ぎ見なければならない。・・・・・・・・・全人類の罪の問題は解決されました。悪魔は力を失、死の力を奪われたのです。
イエスさまは勝利者です。私たちはみないかなるマラの経験に対しても、それがどれほど私たちを苦しめ、落胆させようとも、そのことに対していつか必ず主に感謝できると確信しています。イエスさまは十字架につけられ、捨てられ、のろいとなられたことによって、最大の勝利を勝ち取られました。外側を見ると、決してそのようには見えず、悪魔の勝利したように見えます。・・・・・・・・・・・・・・
・・・・・・・・・・・コリント第二の手紙4章の16節から。
4:16 ですから、私たちは勇気を失いません。
たとい私たちの外なる人は衰えても、
内なる人は日々新たにされています。
4:17 今の時の軽い患難は、私たちのうちに働いて、
測り知れない、重い永遠の栄光をもたらすからです。
4:18 私たちは、見えるものにではなく、
見えないものにこそ目を留めます。
見えるものは一時的であり、
見えないものはいつまでも続くからです。
避けどころであるイエスさまのところに行く人は祝福されます。主はなんでも変えられます。周りの人々だけではなく、自分自身でさえも変えられるのであります。すべての重荷と悩みを持って、イエスさまのみもとに行く者は経験します。すなわち私の苦しんだ苦しみは平安のためでした。
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<メッセージを読み終えて…。>
本当の「平安」は、確かに、この世的な幸福の上には生まれないかもしれない。私たちは、恵まれた人生を送っても、きっとそこに不満を抱くに違いない。もっともっと満足したいと、欲求はエスカレートしていくに違いない。神様の御心を、本当の意味で理解することは、今の私にはできない。でもきっといつか、主がすべてを教えてくださると思う。
せっかく虚しい人生の歩みから主にある平安にうつされても、簡単に以前の歩みに戻ってしまう自分がいる。
イエス様。この自分勝手なわがままな私を、どうぞお赦しください。あなたが、わがままな罪だらけの私をも、神様の前にあって、真っ白な雪のようなものにしてくださると聖書に書いてありますから、感謝いたします。
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