風のいろは 何いろ?

緑を渡る時、空を吹き巡る時、風は何色なのだろう?
風には色はないけれど、私には………。

久々に「荒野の食卓」を・・・・・

2005-03-18 | 日記(旧サイト~移行分:未分類)
<font color=blue><b>荒野の食卓</font></b>
ウォッチマン・ニー

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3月13日

      <font color=red>あなたがたの教師はただひとりしかなく、
               マタイ 23.8</font>


あらゆるキリストの「弟子」は、字義とおり見習いですから、この状態にとどまっていなければなりません。・・・・・・・・・ あなたは心して次のように言わなければなりません。「私にはわかりません。神がまだ私にそのことをお示しになっておられないのです」。
・・・・・・・・・ 「私の兄弟たち。多くの者が教師になってはいけません」とヤコブは言っています。ですからずっと見習いの状態でいるように、私はあなたに忠告し
ておきます。


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3月14日

     <font color=red>キリストこそ私たちの平和であり、
     二つのものを一つにし、隔ての壁を打ちこわし
          エペソ 2.14</font>

七重の撚り糸のように、聖霊の一致は世界中至るところの信者を結びつけます。どんなに信者の性質や置かれた環境が多種多様であったとしても、内住の主なるお方が与えてくださる至上の一致を自分のものにするならば、信者を引き離すことがでるものは何もありません。・・・・・・・・・・・


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3月16日

     <font color=red>あなたのおことばどおりこの身になりますように。
            ルカ 1.38</font>

処女マリヤの内で、生ける言葉を送られた神のご計画が成就するには、生ける言葉が自由に働けるようになることがどれだけ必要なことだったでしょうか。神は語られました。そして彼女の信仰がそれに応じたからこそ主の奇跡は行われたのです。しかし何と私たちの多くは正統的な教義を信奉していればそれで十分と思い込み、真理のみことばに対していいかげんな思いで同意しているだけなのでしょうか。しかし真理が内面で働かなければ、真理に対して同意していても反対していても実際は大差がないのではありませんか。

違いは真理が生活の一面を変化させながらが生きたものとして働き始めたときにようやく現われます。真理が心の内側で働くことをまだほとんど体験していないのに、聖書についての該博な知識をため込むことは悲劇です。神の偉大なご計画の中で、私たちが用いられるためには、神のみことばが個人的に与えられたときに、単なる頭の知識としてではなく、私たちの心でそれを受け留めることがどうしても必要です。私たちもマリヤのように祈れますか。


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3月17日

     <font color=red>私の仕えている神
               使徒 27.23</font>

 私はもはや私のものではなく、主のものであることを最初に発見したとき、それはもう大事件でした。ポケットに入れたお金が私のものなら、それをどうしようと私の勝手です。しかしそれがもし別の人から預かっているものだとしたら、自分の気に入ったものをそのお金で買うわけにはいきませんし、わざわざ使おうと言う気持ちにもならないでしょう。自分たちの時間、お金、才能は実は主のものであって自分たちのものではないという認識のもとに、それらを使いたくてもあえて使わないでいるような者は私たちの中で何人くらいいるでしょうか。私たち自身が別の人に属している者だという強い認識のもとで、一円たりとも無駄にしない、あるいは一時間たりとも時間を浪費しない、知力あるいは労力を一切無駄にしないという意識を持つ者が私たちのうちで何人いるでしょうか。私たちは神に対して生きている者です。自分に対して生きてはいません。本当のキリスト者の生活はここから始まるのです。


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3月18日

      <font color=red>こういうわけですから、キリストが
      神の栄光のために、私たちを受け入れてださったように、
      あなたがたも互いに受け入れ なさい。  
          ローマ 15.7</font>


(教会生活に関する)・・・・・・・・・ここには私たちがほかの人々と交わるうえでのすべての基礎が記されています。つまりほかの人々は主に属し、私たちも主に属しているということです。それがすべてです。

ところがあなたが私に会うと、たいていは意見が一致しない問題について議論してしまう。私たちがともに仕えている主について語り合うかわりに、私たちの違いという否定的な次元に話題を転じ、その違いのうちどれが正しくどれが間違っているかを力説するのです。引用した聖句にも「違い」は満ちていますが、パウロは誰が正しいかは教えていません。というのも彼はキリストの交わりに入れられて、人間の見方が正しいか間違っているかどうかはキリストの交わりにはどうでもいいことだからです。

問題は別の人が自分と同じように信じているかどうかではなく、私がした経験と同じ経験をしているかどうかでもありません。

たった一つの問題は、神がその人を受け入れてくださったかどうかなのです。もし受け入れてくださったなら、私もその人を受け入れます。




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