私には、どうも「生」に対して執着心がなく、別の言葉で言えば、観念が希薄である。どう言ったらわかっていただけるか…。今、こうしている私の肉体。また、毎日200人以上の人の目に触れている私の肉体の存在。確かに私は存在しているに違いない。子供も生んだし母もいる。
しかし、なんとも心もとない。自分というものが、空(くう)を掴むような感じ。私は本当の意味で存在しているの?
私は世間一般の目で見れば、非常に面白く明るく楽しい人らしい。気遣って自らそういう言動をすることもあるし、自然にしていてそういう印象を人に与えていることもある。完璧、ポジティブ派人間に映っているだろうなあ。
でも実際の私の中身は、冒頭に書いたように、暗い。一見じめじめしているように思えるかもしれないが、むしろ、かさかさ乾いている感じである。
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旧約聖書・伝道者の書 より(ソロモン王が書いたと言われる)
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私は天の下で行なわれるいっさいの事について、知恵を用いて、一心に尋ね、探り出そうとした。これは、人の子らが労苦するようにと神が与えたつらい仕事だ。私は日の下で行なわれたすべてのわざを見たが、なんと、すべてがむなしいことよ。風を追うようなものだ。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
私は心の中で言った。「さあ、快楽を味わってみるがよい。楽しんでみるがよい。」しかし、これもまた、なんとむなしいことか。
笑いか。ばからしいことだ。快楽か。それがいったい何になろう。
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私が手がけたあらゆる事業と、そのために私が骨折った労苦を振り返ってみると、なんと、すべてがむなしいことよ。風を追うようなものだ。日の下には何一つ益になるものはない。
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私は見た。光がやみにまさっているように、知恵は愚かさにまさっていることを。
知恵ある者は、その頭に目があるが、愚かな者はやみの中を歩く。しかし、みな、同じ結末に行き着くことを私は知った。
私は心の中で言った。「私も愚かな者と同じ結末に行き着くのなら、それでは私の知恵は私に何の益になろうか。」私は心の中で語った。「これもまたむなしい。」と。
事実、知恵ある者も愚かな者も、いつまでも記憶されることはない。日がたつと、いっさいは忘れられてしまう。知恵ある者も愚かな者とともに死んでいなくなる。
私は生きていることを憎んだ。日の下で行なわれるわざは、私にとってはわざわいだ。すべてはむなしく、風を追うようなものだから。
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実に、日の下で骨折ったいっさいの労苦と思い煩いは、人に何になろう。
その一生は悲しみであり、その仕事には悩みがあり、その心は夜も休まらない。これもまた、むなしい。
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伝道者の書は、私の信仰の原点のようなものだ。
しかし、なんとも心もとない。自分というものが、空(くう)を掴むような感じ。私は本当の意味で存在しているの?
私は世間一般の目で見れば、非常に面白く明るく楽しい人らしい。気遣って自らそういう言動をすることもあるし、自然にしていてそういう印象を人に与えていることもある。完璧、ポジティブ派人間に映っているだろうなあ。
でも実際の私の中身は、冒頭に書いたように、暗い。一見じめじめしているように思えるかもしれないが、むしろ、かさかさ乾いている感じである。
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旧約聖書・伝道者の書 より(ソロモン王が書いたと言われる)
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私は天の下で行なわれるいっさいの事について、知恵を用いて、一心に尋ね、探り出そうとした。これは、人の子らが労苦するようにと神が与えたつらい仕事だ。私は日の下で行なわれたすべてのわざを見たが、なんと、すべてがむなしいことよ。風を追うようなものだ。
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私は心の中で言った。「さあ、快楽を味わってみるがよい。楽しんでみるがよい。」しかし、これもまた、なんとむなしいことか。
笑いか。ばからしいことだ。快楽か。それがいったい何になろう。
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私が手がけたあらゆる事業と、そのために私が骨折った労苦を振り返ってみると、なんと、すべてがむなしいことよ。風を追うようなものだ。日の下には何一つ益になるものはない。
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私は見た。光がやみにまさっているように、知恵は愚かさにまさっていることを。
知恵ある者は、その頭に目があるが、愚かな者はやみの中を歩く。しかし、みな、同じ結末に行き着くことを私は知った。
私は心の中で言った。「私も愚かな者と同じ結末に行き着くのなら、それでは私の知恵は私に何の益になろうか。」私は心の中で語った。「これもまたむなしい。」と。
事実、知恵ある者も愚かな者も、いつまでも記憶されることはない。日がたつと、いっさいは忘れられてしまう。知恵ある者も愚かな者とともに死んでいなくなる。
私は生きていることを憎んだ。日の下で行なわれるわざは、私にとってはわざわいだ。すべてはむなしく、風を追うようなものだから。
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実に、日の下で骨折ったいっさいの労苦と思い煩いは、人に何になろう。
その一生は悲しみであり、その仕事には悩みがあり、その心は夜も休まらない。これもまた、むなしい。
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伝道者の書は、私の信仰の原点のようなものだ。
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