先週、N兄のメッセージ時、私は日曜学校を担当していたので、聞けなかった。それを祈り会で話したら、姉妹が、ワードの原稿でよければ送りますが、と。喜んで送っていただいた。ところどころ引用すると・・・。
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You‘re only one=order made(ready made既成品ではない)
=>愛されている
・・・・・・・・・・・・・・・・<略>・・・・・・・・・・・・・・・
クリスチャンは、決して、この世の厭世者であってはならないと思う。この世の権威にも忠実に生活していかなくてはならない。私達が、今、この世に生を受け、存在しているのは、主のご計画の中にあることを信じなければならない。主は、確かな目的で、私達をお作りになった。決して、その他大勢の中の一人ではなく、by Nameで主から呼ばれ、けして既成品ではく、order madeである。主は、いつも私達をYou‘re only oneと扱って下さる。
<font size=2 color=green>※お~、私はしっかり厭世者だ!目からうろこ。</font>
この世の生活は、準備期間。この世で私達クリスチャンは何をすればよいか。について考えたい。
例えを話すならば、赤ちゃんが、母のお腹のなかで、10ヶ月の間、成長していく、母の胎内に外界から守られて成長していく、その期間は、やがて、この世に誕生するための力を備え、人間の姿をとるための準備期間である。10ヶ月たって、この世に誕生し、両親と始めて、お見えする。赤ちゃんにとって、新しい世界との遭遇、両親にとって、新しい家族の誕生が、人生の中での一大イベントである。ちょうど、同じように、天国で永遠の命を得るために、この地上で様々な訓練を受ける。この地上での歩みもやがて、天国で主と住まうための準備期間だ。主の身姿に近づけるための訓練の期間である。
準備期間にいることは、偶然ではない。主が計画された必然である。主は、自分の御姿に私達を作り変えようとされる。
私達には賜物がないということは、謙遜ではなく、傲慢(不遜)。 <font size=2 color=green>※ここも目からうろこ・・・。</font> 与えられた賜物を如何に主に用いてもらうかをいつも積極的に考えて、主に祈ることは大切。
本当の謙遜は、賜物を主に用いてもらった結果が、成功した場合でも、主に全て栄光を帰し、全て主の力ですといって、私は取るに足らない者です。主のご栄光があるように、主に100%栄光を返す態度のこと。
実際にどうすればよいか?自分を承認する。あなたの隣人をあなた自身のように愛しなさい。先ず、自分自身を愛さなければならない。 <font color=red><b>私の目には、あなたは高価で尊い(イザヤ43:4)</font></b>。高価で尊い自分を主から、先ず受け取る必要がある。すなわち自己承認する。つまり、まず自分を受け入れていくことが必要。これは、自己実現ではなく、主にあって、自己承認することである。
自分は駄目だという、傷ついたセルフイメージを払拭することは、自分を承認すること。
多くのクリスチャンは、傲慢になることを恐れて、自分自身を受け入れていない。傷ついたものとして、考えている。
・・・・・・・・・・・・・<略>・・・・・・・・・・・・
クリスチャンであることは、この世における全てのこと(否定的思われることも)も、全てを益にしてくださる神様からの肯定的意思として受けとって、活きる特権がある。自分の弱さや破れや醜さ等を気づいて、罪の悔い改めを持って、主を見上げたとき、イエス様の血潮で洗い流された優しさと哀れに包まれている自分に気づく。そこからの一歩は、主を知らないときよりも、力強く歩める特権を持つ。
<font color=red><b>イザヤ40:31 しかし、主を待ち望む者は新しく力を得、鷲のように翼をかって上ることができる。走ってもたゆまず、歩いても疲れない。</font></b>
・・・・・・・・・・・・・<略>・・・・・・・・・・・・
この地上の歩みは、<font color=red><b>「地上では旅人であり寄留者である」(ヘブル 11:13)</font></b>とあるように、永遠の時間軸から判断すると、管理する対象はあっても、自分で所有するものはない。仮に所有権があったとしても、それは、この地上に生きている間だけである。死んだら、一身に所有しているものは、所有権を放棄するか、または、相続人が相続することになるだけ。従って、永遠なる所有者は、主なる神様であり、私達には、この世で、主なる神の所有物を一時預かって管理する管理人に過ぎない。そして、それを如何に管理したかが、やがて、主と交える日に吟味されるのではないか。自分の栄光のために、管理を任された物を使用したか、または、主の栄光のために、用いたか。是非後者でありたい。 神は、私達をどのようにしたいのか?<font color=red><b>「 陶器師は、粘土で制作中の器を自分の手でこわし、再びそれを陶器師自身の気に入ったほかの器に作り替えた。」(エレミ 18:4)</font></b>ように、<font color=red><b>「 私たちはみな、顔のおおいを取りのけられて、鏡のように主の栄光を反映させながら、栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられて行きます。これはまさに、御霊なる主の働きによるのです。」(2コリ 3:18)
3:14 キリスト・イエスにおいて上に召してくださる神の栄冠を得るために、目標を目ざして一心に走っているのです。(ピリピ 3:14))
死に至るまで忠実でありなさい。そうすれば、わたしはあなたにいのちの冠を与えよう。(黙示録 2:10))</font></b>
・・・・・・・・・・・・・<略>・・・・・・・・・・・・・・・・・
私達には、道標が必要である。模範となる人が必要です。目標とする人。集会の兄弟姉妹も具体的な目で見えるも目標であり、霊に燃える兄弟姉妹との交わりは、霊の糧を得るために必要である。そして、最大の目標は、主イエス様ご自身である。主イエス様は、主なる神が、only oneとして、具体的な姿として、この地上に降りてこられた。この地上での多くの福音が述べ伝えられた。主イエス様は、賜物そのものであった。そして、父なる神様に、最後まで忠実に十字架による死によって、主なる神のご栄光を表された。そのイエス様に習うものとなることが、この地上の歩みの目標ではないかと思う。
<font color=red><b>12:2 信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいなさい。イエスは、ご自分の前に置かれた喜びのゆえに、はずかしめをものともせずに十字架を忍び、神の御座の右に着座されました。(ヘブル 12:2)
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You‘re only one=order made(ready made既成品ではない)
=>愛されている
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クリスチャンは、決して、この世の厭世者であってはならないと思う。この世の権威にも忠実に生活していかなくてはならない。私達が、今、この世に生を受け、存在しているのは、主のご計画の中にあることを信じなければならない。主は、確かな目的で、私達をお作りになった。決して、その他大勢の中の一人ではなく、by Nameで主から呼ばれ、けして既成品ではく、order madeである。主は、いつも私達をYou‘re only oneと扱って下さる。
<font size=2 color=green>※お~、私はしっかり厭世者だ!目からうろこ。</font>
この世の生活は、準備期間。この世で私達クリスチャンは何をすればよいか。について考えたい。
例えを話すならば、赤ちゃんが、母のお腹のなかで、10ヶ月の間、成長していく、母の胎内に外界から守られて成長していく、その期間は、やがて、この世に誕生するための力を備え、人間の姿をとるための準備期間である。10ヶ月たって、この世に誕生し、両親と始めて、お見えする。赤ちゃんにとって、新しい世界との遭遇、両親にとって、新しい家族の誕生が、人生の中での一大イベントである。ちょうど、同じように、天国で永遠の命を得るために、この地上で様々な訓練を受ける。この地上での歩みもやがて、天国で主と住まうための準備期間だ。主の身姿に近づけるための訓練の期間である。
準備期間にいることは、偶然ではない。主が計画された必然である。主は、自分の御姿に私達を作り変えようとされる。
私達には賜物がないということは、謙遜ではなく、傲慢(不遜)。 <font size=2 color=green>※ここも目からうろこ・・・。</font> 与えられた賜物を如何に主に用いてもらうかをいつも積極的に考えて、主に祈ることは大切。
本当の謙遜は、賜物を主に用いてもらった結果が、成功した場合でも、主に全て栄光を帰し、全て主の力ですといって、私は取るに足らない者です。主のご栄光があるように、主に100%栄光を返す態度のこと。
実際にどうすればよいか?自分を承認する。あなたの隣人をあなた自身のように愛しなさい。先ず、自分自身を愛さなければならない。 <font color=red><b>私の目には、あなたは高価で尊い(イザヤ43:4)</font></b>。高価で尊い自分を主から、先ず受け取る必要がある。すなわち自己承認する。つまり、まず自分を受け入れていくことが必要。これは、自己実現ではなく、主にあって、自己承認することである。
自分は駄目だという、傷ついたセルフイメージを払拭することは、自分を承認すること。
多くのクリスチャンは、傲慢になることを恐れて、自分自身を受け入れていない。傷ついたものとして、考えている。
・・・・・・・・・・・・・<略>・・・・・・・・・・・・
クリスチャンであることは、この世における全てのこと(否定的思われることも)も、全てを益にしてくださる神様からの肯定的意思として受けとって、活きる特権がある。自分の弱さや破れや醜さ等を気づいて、罪の悔い改めを持って、主を見上げたとき、イエス様の血潮で洗い流された優しさと哀れに包まれている自分に気づく。そこからの一歩は、主を知らないときよりも、力強く歩める特権を持つ。
<font color=red><b>イザヤ40:31 しかし、主を待ち望む者は新しく力を得、鷲のように翼をかって上ることができる。走ってもたゆまず、歩いても疲れない。</font></b>
・・・・・・・・・・・・・<略>・・・・・・・・・・・・
この地上の歩みは、<font color=red><b>「地上では旅人であり寄留者である」(ヘブル 11:13)</font></b>とあるように、永遠の時間軸から判断すると、管理する対象はあっても、自分で所有するものはない。仮に所有権があったとしても、それは、この地上に生きている間だけである。死んだら、一身に所有しているものは、所有権を放棄するか、または、相続人が相続することになるだけ。従って、永遠なる所有者は、主なる神様であり、私達には、この世で、主なる神の所有物を一時預かって管理する管理人に過ぎない。そして、それを如何に管理したかが、やがて、主と交える日に吟味されるのではないか。自分の栄光のために、管理を任された物を使用したか、または、主の栄光のために、用いたか。是非後者でありたい。 神は、私達をどのようにしたいのか?<font color=red><b>「 陶器師は、粘土で制作中の器を自分の手でこわし、再びそれを陶器師自身の気に入ったほかの器に作り替えた。」(エレミ 18:4)</font></b>ように、<font color=red><b>「 私たちはみな、顔のおおいを取りのけられて、鏡のように主の栄光を反映させながら、栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられて行きます。これはまさに、御霊なる主の働きによるのです。」(2コリ 3:18)
3:14 キリスト・イエスにおいて上に召してくださる神の栄冠を得るために、目標を目ざして一心に走っているのです。(ピリピ 3:14))
死に至るまで忠実でありなさい。そうすれば、わたしはあなたにいのちの冠を与えよう。(黙示録 2:10))</font></b>
・・・・・・・・・・・・・<略>・・・・・・・・・・・・・・・・・
私達には、道標が必要である。模範となる人が必要です。目標とする人。集会の兄弟姉妹も具体的な目で見えるも目標であり、霊に燃える兄弟姉妹との交わりは、霊の糧を得るために必要である。そして、最大の目標は、主イエス様ご自身である。主イエス様は、主なる神が、only oneとして、具体的な姿として、この地上に降りてこられた。この地上での多くの福音が述べ伝えられた。主イエス様は、賜物そのものであった。そして、父なる神様に、最後まで忠実に十字架による死によって、主なる神のご栄光を表された。そのイエス様に習うものとなることが、この地上の歩みの目標ではないかと思う。
<font color=red><b>12:2 信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいなさい。イエスは、ご自分の前に置かれた喜びのゆえに、はずかしめをものともせずに十字架を忍び、神の御座の右に着座されました。(ヘブル 12:2)
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