それで、何事でも、自分にしてもらいたいことは、ほかの人にもそのようにしなさい。これが律法であり、預言者なのです。
狭い門からはいりなさい。滅びに至る門は大きく、その道は広いからです。そして、そこからはいって行く者が多いのです。
いのちに至る門は小さく、その道は狭く、それを見いだす者はまれです。
マタイの福音書 7章 12節~14節
※今日は集中力が衰えているので、文を書きたくても書けません。なので、聖書を転記しました。
狭い門からはいりなさい。滅びに至る門は大きく、その道は広いからです。そして、そこからはいって行く者が多いのです。
いのちに至る門は小さく、その道は狭く、それを見いだす者はまれです。
マタイの福音書 7章 12節~14節
※今日は集中力が衰えているので、文を書きたくても書けません。なので、聖書を転記しました。
黄金律ですね。
>狭い門からはいりなさい。
狭い門とは、主イエスキリストの事です。
入るとは
主を救い主と受け入れ共に歩むという事です。
>滅びに至る門は広い
自分勝手で傍若無人に振舞ってと言う
意味です。主に聴き従わない
自分の都合の良い神を選びます。
サタンの誘惑にさらされやすいことです。
この2つは、実に対比しております。
狭い門に入るというのは、
救われることであり、赦される事です。
そして、主から離れれない生き方です。
何だか狭き門とは、弁護士等の
資格試験に合格するなど、倍率の高い
会社に入社する事を思い浮かべますが、
それとはまったく別です。
聖書で言う狭き門は、人間的な努力は
いらないが、砕かれた傲慢な思いを
主に明け渡す事によって、入学できるのです。東大に受かったからといって、
聖書で狭き門に入れるわけではありません。
東大に入らないからと言って
聖書で狭き門に入れないわけではありません。
風のいろさんが2002年に書いたと言うことは
まだ私が吉祥寺に形だけいた頃です。
殆ど礼拝に参加せず、主から離れているにも
気づかず、水の洗礼しか授かっていませんでした。なんとなくクリスチャンでしたね。
私が初めて「狭き門」という言葉を知ったのは 高校受験の時でした。
クラスメートの文学少女が アンドレジイドの(少年少女版)小説を読んでいて
引用したようです。彼女は小学校1年の時 都会から近所に越してきました。
彼女の家には 文学全集がおかれていました。
当時の我が家は貧しく、本は年に1冊くらいしか買ってもらえませんでした。
学校の図書室が大好きで(小中高と) それが楽しみ・・・。
彼女の環境が羨ましかったなあ。
18歳で社会人になり 本をたくさん買いました。
「狭き門」もその時 文庫を購入。聖書に関連した言葉だと知りました。
同じ頃 リビングバイブルも購入し 「狭き門」が意味するものが
彼女や世間で使われているものと 全く別だと知りました。
今でも 一般的に ただただ受験などで使われるのに
違和感を覚えます。誰かが声を大にして言ってくれないかなあ。
こういう場面で使ってほしくないなあ。
いつもコメントありがとうございます。
こんなに長い間 私の(つまらぬ 信仰薄い)ブログ記事をお読みくださり
コメントをたくさん残してくださるとは 当初思っていなかったので
「匿名希望」というお名前代用でも良いと思っていましたが
もしよろしければなのですが
「匿名希望」ではなく 何か任意のハンドルネームを書いてくださると嬉しいです。
「希望」だけでもいいですし アルファベット 1文字だけでもいいですし。
イニシャルとかでなくて良いので よろしくお願いいたします。
そして これからもよろしくお願いいたします。