風のいろは 何いろ?

手を休めずに種をまきなさい。
どの種が芽を出すか、わからないからです。
(リビングバイブル:伝道者の書 11-6)

【外なる人と内なる人】(3-3)  by ベック兄

2005-01-08 | 日記(旧サイト~移行分:未分類)
(3-2より続く)

外なる人に死に、内なる人に生きることは、悩みを通してだけできるでしょう。時間のいのちを捨てるのは大切なのではないでしょうか。祝福をもたらす秘訣とはそれです。マタイによる福音書の10章の38節に、イエスさまは次のように言われたのです。

     自分の十字架を負ってわたしについて来ない者は、
      わたしにふさわしい者ではありません。
     自分のいのちを自分のものとした者はそれを失い、
     わたしのために自分のいのちを失った者は、
     それを自分のものとします。

多くの人は自分に対する主のみこころは何であるかを知っていないことは悲劇です。

<font color=blue><i>私たちの心の目が主の目的に開かれるなら、今までの色々な問題や悩みや苦しみは私たちの内に、また私たちを通して内に住んでおられるイエスさまが現われるためであったことが分かるようになります。結局、無駄はひとつもない。</font></i>

主は人間ひとりひとりの最善の道しか考えておられないお方です。どんなに苦しいときも、また先が見えなく、苦しかったときも主はそのようなときにも最善を成していてくださるのです。

これらのすべてのことはただひとつ。イエスさまが栄え、私が衰えるために成されて来たと分かれば、ホントに楽になります。主はこの目的を目指して導いておられます。当然ですけど、その導きはひとりひとりによって違います。ある人には早く、ある人には遅く主は働かれます。たいていの場合、自分がゼロとなり、自分の内に主を主とするにはながーい時間がかかります。

心の内に主のご支配を妨げるものをもっていますから、主は前へ導くことができない。また主にささげていないものを持っておられるなら、それを主にささげましょう。

<font color=red><b>主よ。あなたのために、兄弟姉妹のために、まだあなたを知らない人々のために私は自分自身をささげます。</font></b>あなたが私の内に私を通して外に現われることができるように、私自身をおささげいたします、。と<font color=red><b>すべてを主に明け渡すと、自由になり、重荷から、心配から解放され、そして知らないうちに用いられるようになります。</font></b>

<font color=blue><i>人間の最大の敵とは周りの人間ではない。自分自身でしょう。</font></i>自分自身に恐れを抱いたことがあるなのでしょうか。いくら救われたとしても、どんな悪いことでもできる可能性をもってるということに気が付いたことがあるなのでしょうか。パウロはそれを経験したから前に話したように次のように叫んだのです。私は本当にみじめな人間ですと。イエスさまに出会った者として、何十年間イエスさまに仕えた者としてパウロはこういうふうに叫んだのであります。

     自分のいのちを愛する者はそれを失い、
     この世でそのいのちを憎む者はそれを保って、
     永遠のいのちに至るのです。
          (ヨハネ12:26)

とイエスさまは言われたのです。結局、自己否定は自分の権利をささげることです。自分に拠り頼まないことです。

パウロはあるとき、面白くないことを経験したことがあるんです。彼は簡単に次のように言ったのです。私は耐えられないほどの圧迫を受けた。死を覚悟した。もうおしまいだと思った。ホントに言い表わせないほどの経験だったでしょう。どうしてこのような辛いことを経験しなければならなかったと言いますと、自分勝手な道へ行ったからじゃないんです。いのちがけでイエスさまを紹介したのであり、誤解されても、迫害されても構わない。

福音を宣べ伝えるという態度を取ったから、こういうことになってしまったのです。パウロは初めて、どうしてでしょうか。なぜ主はそれを赦すなのでしょうかと思ったことがあるでしょうけど、あとで彼は分かるようになったのです。わたしのしてることは、あなたは今は分からない。のちになって分かるようになる。パウロは何を分かったかと言いますと、私は今まで、主にゆだねてる。ゆだねてると言いながら、本当はまだゆだねていなかった。半分以上自分の知恵、力に頼っちゃった。ホントの意味で主に拠り頼む者となるために、主はこのような面白くないことを用意してくださったと知るようになったのです。

結局自分の心ではなく、みこころをなしてください。この態度を取ると、満ち溢れる祝福が与えられます。人間の生まれつきの考え、感情、意思は決して霊的ではない。これを御霊の支配にゆだねるとき初めて、用いられるようになります。自分の考え、感情、意思を自分から主にささげなければ、われわれの内から主のいのちは流れ出ないでしょう。


アブラハムはある日、非常に辛いことを経験したのです。主はあなたの息子イシュマエルを捨てなさいと言われたのです。彼は、よし、やりましょうよ。そういう気持ち、なかなか持っていなかったんです。けども従ったとき、もちろんイシュマエルも祝福される者となり、彼も前よりも主を体験的に知るようになったんです。イサクが与えられるようになったんです。


主に従うと祝福がある。聞く耳をもつことこそがもっとも大切なのではないでしょうか。主よ。語ってください。しもべは聞きます。従いたいから。結局、みこころを知りたい。ただ知りたいだけの気持ちがあれば主はもちろん光を与えてくださいません。従いたいから、知りたい。そういう心構えがあれば、主は豊かに祝福してくださいます。

初めに言いましたように、初代教会の人々とは、心配から、ただやはり完成者であるイエスさまから目を離さないとこういうふうに元気になり、生き生きとした希望をもって将来に向かうことができるのです。

                     了


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う~ん、いっぺんに読んだから疲れちゃった……
おやすみなさい。
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