風のいろは 何いろ?

手を休めずに種をまきなさい。
どの種が芽を出すか、わからないからです。
(リビングバイブル:伝道者の書 11-6)

【外なる人と内なる人】(3-1)  by ベック兄

2005-01-08 | 日記(旧サイト~移行分:未分類)
’93.4.24メッセージ。ML「チーム聞き取り」によるアップ。
とてもすばらしいと思いましたのでコピペさせて戴きます。。。


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    詩篇37篇の5節。

       あなたの道を主にゆだねよ。
       主に信頼せよ。
       主が成し遂げてくださる。
 

 
ゆだねられた結果として、主は働いてくださるということです。主にすべてをゆだねることができるのは、ホントにすばらしい特権です。

O兄弟は、奥さまに次のように言われたことがあります。医者は、「 非常に危ない。いつ、死んでも不思議じゃない。」と話したと。

彼はショック受けないで、私はイエスさまを信じましたから、任せたから安心だよ。と答えたそうです。ちょっと理解できませんし、ピンと来ません。

けどホントなんです。その日から彼は心配から、不安から、恐れから解放され、平安そのものになったそうです。ゆだねること。信頼することこそが要求されています。

宗教の要求されているのはだいたい違うことなんです。勉強すること。聖書の知識を得ることが要求されています。もちろん、そろそろ会員になったらどうですか。洗礼受けたら。とも言われます。それから洗礼の前にだいたい、実は聖書はこう言ってる。ああ言ってる。十分の一ぐらいやっぱり献金しないと祝福がないよと。

宗教の特徴とはだいたいそういうものなんです。聖書はそういうことをもちろん言ってません。義務的に教会行っても、結局意味のないことなんです。自発的に喜んで行くことができなければ意味のないことです。いやー、献金は要求されてるから、まぁ仕方がなくて・・・。すると喜びがないし、神ももちろん受け入れようとしない。

ですから、宗教とはホントにひどいもんだといつも思ってます。イエスさまだけで十分です。神のみことばだけに頼れば喜びが湧いてきます。初代教会の人々とは、われわれとちょっとかわいそうだったなのではないかと思います。

なぜならば、自分の聖書を持っていた人はおそらくひとりもいなかったでしょう。自分で読むことの出来た人もあんまり多くなかったんです。けどそれにしても彼らは生き生きとした希望を持っていたのです。コリント第二の手紙の4章の16節に彼らのあかしが書かれています。


    コリント第二の手紙4章の16節

       ですから、私たちは勇気を失いません。
       たとい私たちの外なる人は衰えても、
       内なる人は日々新たにされています。


どういうことがあっても私たちは勇気を失いません。私たちは生きる希望を持つようになったのです。私たちはひとりぼっちではなく、望みの神がともにおられるからです。これこそが初代教会の人々のあかしだったのです。


われわれの外なる人は衰えても、結局弱くなっても、病気になっても、死にそうになっても別に関係ない。私たちの内なる人は日々、毎日新たにされる。

イエスさまを信ずると、間違いなく生きる希望を持つようになります。聖書を通して提供されてる救いとは、もちろん罪の赦しであり、神との平和であり、生きる望みです。

<font color=red><b>生きる望みがなければ、人生は虚しくなるし、結局心は満たされていない</font></b>からです。けどもイエスさまを知るようになった人々は必ず、時間の問題だけなんですけど、また悩むようになります。心配するようになります。将来について考えると不安をもつようになるでしょう。

けどもそのあとでまた振り返ってみると、結局心配しなくてもよかったと分かるようになり、結局悪いなのは例えば病気になったことでもないし、置かれてる環境でもないし、自分自身であるということです。

<font color=red><b>結局人間は自分勝手に動こうと思えば、主は祝福することができない</font></b>。イエスさまを救い主として受け入れた人々はいっぱいいますけど、<font color=red><b>イエスさまを信じながら自分の生活の支配者とはイエスさまじゃなくて、自分自身なんです。その人にとって大切なのは自分の考えてること。自分の思ってることです。

イエスさま。私はどうしたらいいなのでしょうか。自分勝手に動きたくない。みこころを示してください。と心から願い続ける人は少ないなのではないでしょうか。</font></b>

結局信ずる者の内には二つのいのちがあるのです。イエスさまを信じ、受け入れることによって人間は永遠のいのちを持っています。永遠のいのちとはもちろん、物ではない。イエスさまです。わたしこそが永遠のいのちそのもであるとイエスさまはよく言われたのです。もちろんそれは感じられませんし、理性でもってつかめませんし、けどもイエスさまを受け入れた人は永遠のいのちの所有者です。考えられないすばらしい事実です。

けれども相変わらず生まれながらのいのちもあります。そしてこに<font color=red><b>生まれながらのいのちは、新しく与えられた主のいのちを、永遠のいのちを外に出さないように覆い隠そうとするのです。このいわゆる生まれながらのいのちとは、聖書の中で今読みましたように、外なる人と呼ばれています。</font></b>

そして主のいのちとは内なる人であります。外なる人をもってしては、どうしても主なる神に喜ばれる生活をすることができません。失敗しますし、あとで反省してまた努力するでしょうけど、また失敗する。そういう繰り返しなんです。だから多くの人々は諦めます。いやー、仕方がないなのではないでしょうか。

けどもこのような経験をもつこととは非常に大切なんです。このようないわゆる霊的破産を通されなければ、主をよりよく知ることができないし、ホントの意味で主に拠り頼む者となり得ないのです。

ローマ書の7章の中にも、同じ表現、すなわち内なる人ということばが使われています。

    ローマ人への手紙の7章の22節

       すなわち、私は、内なる人としては、
       神の律法を喜んでいます。

この内なる人とは結局イエスさまなんです。イエスさまは神の律法を喜んでる。生まれながらの人間は神の律法を喜ばれ得ない。とんでもない重荷となるからです。

イエスさまの救いにあずかったパウロは、何とかしてみこころにかなう生活をしようと努めたんですけど、ダメだったんです。出来なかったんです。ですから24節に、私はなんというみじめな人間なのだろう。と告白せざるを得なかったのです。

エペソ書の3章16節にも、内なる人という表現が出てきます。ここでパウロはエペソにいる主の救いにあずかった人のためにいかに悩んだのか、苦しんだのか、どういうふうに彼らのために祈ったのかと書かれています。

       どうか父が、その栄光の豊かさに従い、
       御霊により、力をもって、あなたがたの
       内なる人を強くしてくださいますように。
  
<font color=red><b>結局あなたがたは強くなってもらいたいのではない。あなたがたの内なる人を強くされるように。</font></b>結局主の、イエスさまの支配が明らかになるようにということなんです。

バプテスマのヨハネは同じことについて次のように言ったのです。彼は、すなわちイエスさまは盛んになり私は衰えなければならない。(ヨハネの福音書3:30)

パウロは結局エペソにいる愛する兄弟姉妹を、あなたがたはすでに救われてるけど、あなたがたの内なる人は、さらに強められなければならない。確かにイエスさまはあなたがたにとって救い主となったのですけど、今からはイエスさまはあなたがたの支配者となりたい。あなた方を通して自分のよみがえりの力を明らかにしたいと望んでると。

前に読みましたコリント第二の手紙の中で、

       私たちは勇気を失いません。
       たとい私たちの外なる人は衰えても、
       内なる人は日々新たにされている。

<font color=red><b>内なる人は日ごとに新しくされ、日ごとに上から新しい力を受けなければならない</font></b>とパウロは書き送ったのです。

このように今挙げたことばを見ても分かりますように、<font color=blue><b>聖書は救いにあずかった人々には、内なる人と外なる人のあることが書かれています。聖書で言う外なる人は、結局時間のいのちであり、内なる人は、主なる神によって与えられた神のいのちであり、すなわち内に住み給もうイエスさまです。</font></b>

<font color=red><b>信ずる者はどういう心構えを持つべきなのでありましょうか。イエスさまは盛んになり私は衰えなければならない。</font></b>バプテスマのヨハネはこの態度取ったから、私の喜びは満たされている。と言うようになったのです。


つづく
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