今日は礼拝だったが 駐車場に珍しく早目に着いたのに
これまた初めて 駐車場のだいぶ手前から車の行列・・・。
混んでるんだなあと思っていたら
何と 満車で入れず 近くの高校の(またはその近くの)駐車場を案内された。
しかし 〇〇高校と言われても 地理的に見当がつかず
たぶん そこからここまで 結構歩くなあと思った時点で U-turnしました。。。
最近は なかなか車を出すところまで行かなかったり
せっかく出られても 途中で引き返すこともあったりして
礼拝に集うのが えらくしんどくなって来ていたので・・・・・
それでも 今日 いい時間帯に着けるように 「家を出られた事」が とても嬉しかった。
もうすぐ大がかりなリフォームを始めるのだが
それまでに決めることが一杯あったり
元々がゴミ屋敷ゆえ 最低限の片付けにいそしんでおり
また 次女とのやりとりで 気を使ってヘトヘトしたりがっかりしたりで
どちらかと言うと 気持ちが疲れがちです。。。。
今日は お風呂を出てから 一人礼拝をしました。
ああ 聖書を開くことさえ なかなかない私。。。
祈って 示された箇所が エゼキエル20章33節以降だったが
「わたしは生きている」とか
「おのおの自分の偶像に行って仕えるがよい」など
話の脈絡がつかず 20章の1節から 読み始めた。
神様の強い怒りを感じた。
父の代も 神様に逆らい 偶像崇拝の別の神を拝むのだが
子に注意したにも関わらず 子もまた 父と同じ態度だった。
何度も 「わたしは生きている」と告げられた。
イスラエルの民の姿は まるで今の自分の姿と重なり
胸に 御言葉が 突き刺さった。
「その目の慕う忌まわしいものを投げ捨てよ」
私の心は今 とても乱れている。
不安、、、それも 目の前の不安+20年先 30年先 40年先の
子供たち…特に次女の人生のことで 不安に包まれている。
また 現在の次女のやることなすことが気にかかり・・・
毎日が 憂鬱でならない。
私の心はとても弱く 小さな出来事で波打ち ずっと揺らいでしまう。
娘のこと+仕事の今後(後任とか)+リフォームが思ったより嵩むこと・・・
と 考えたり決めたりしなければならない事が重なり
憂鬱で 逃げ出したくて 溜まらない。。。。(単なるナマケモノ?)
そういう 余計なことに振り回されることが 私が神様以外のものに
目で慕っている ということかな?と あれこれ思った。。。。。。
深くしみて 涙がこぼれた。
20章の前に目をやると 自分が赤線を引いた箇所があった。
「なぜ、あなたがたは死のうとするのか」(18-31)
2006年に入院している時
「(入院してすぐ 下血・貧血で何度も気絶した時)
あのまま死んでたら 良かったのに」 と思ったり
「ああ ここは三階なんだ。。。あの窓 開くんだ。
あそこから飛び降りたら 死ねるかな?」
なんて 考えていた。
翌日 娘に持ってきてもらった聖書を開いたら
「自分の時が来ないのに、なぜ死のうとするのか。
とあって ああ 私は死ぬことも許されていないんだ と涙した。。。
(検索すると 伝道者の書 7章だった。)
今日も 聖書を通し 大きな豊かなメッセージを戴けた。
検索している時 「蜜のように甘い御言葉」という表現があったが
今日 私は 同じ思いを抱いた。
厳しかったけれど 乾いていた心に しみこんできた。
神様 ありがとうございました。
これまた初めて 駐車場のだいぶ手前から車の行列・・・。
混んでるんだなあと思っていたら
何と 満車で入れず 近くの高校の(またはその近くの)駐車場を案内された。
しかし 〇〇高校と言われても 地理的に見当がつかず
たぶん そこからここまで 結構歩くなあと思った時点で U-turnしました。。。
最近は なかなか車を出すところまで行かなかったり
せっかく出られても 途中で引き返すこともあったりして
礼拝に集うのが えらくしんどくなって来ていたので・・・・・
それでも 今日 いい時間帯に着けるように 「家を出られた事」が とても嬉しかった。
もうすぐ大がかりなリフォームを始めるのだが
それまでに決めることが一杯あったり
元々がゴミ屋敷ゆえ 最低限の片付けにいそしんでおり
また 次女とのやりとりで 気を使ってヘトヘトしたりがっかりしたりで
どちらかと言うと 気持ちが疲れがちです。。。。
今日は お風呂を出てから 一人礼拝をしました。
ああ 聖書を開くことさえ なかなかない私。。。
祈って 示された箇所が エゼキエル20章33節以降だったが
「わたしは生きている」とか
「おのおの自分の偶像に行って仕えるがよい」など
話の脈絡がつかず 20章の1節から 読み始めた。
神様の強い怒りを感じた。
父の代も 神様に逆らい 偶像崇拝の別の神を拝むのだが
子に注意したにも関わらず 子もまた 父と同じ態度だった。
何度も 「わたしは生きている」と告げられた。
イスラエルの民の姿は まるで今の自分の姿と重なり
胸に 御言葉が 突き刺さった。
「その目の慕う忌まわしいものを投げ捨てよ」
私の心は今 とても乱れている。
不安、、、それも 目の前の不安+20年先 30年先 40年先の
子供たち…特に次女の人生のことで 不安に包まれている。
また 現在の次女のやることなすことが気にかかり・・・
毎日が 憂鬱でならない。
私の心はとても弱く 小さな出来事で波打ち ずっと揺らいでしまう。
娘のこと+仕事の今後(後任とか)+リフォームが思ったより嵩むこと・・・
と 考えたり決めたりしなければならない事が重なり
憂鬱で 逃げ出したくて 溜まらない。。。。(単なるナマケモノ?)
そういう 余計なことに振り回されることが 私が神様以外のものに
目で慕っている ということかな?と あれこれ思った。。。。。。
深くしみて 涙がこぼれた。
20章の前に目をやると 自分が赤線を引いた箇所があった。
「なぜ、あなたがたは死のうとするのか」(18-31)
2006年に入院している時
「(入院してすぐ 下血・貧血で何度も気絶した時)
あのまま死んでたら 良かったのに」 と思ったり
「ああ ここは三階なんだ。。。あの窓 開くんだ。
あそこから飛び降りたら 死ねるかな?」
なんて 考えていた。
翌日 娘に持ってきてもらった聖書を開いたら
「自分の時が来ないのに、なぜ死のうとするのか。
とあって ああ 私は死ぬことも許されていないんだ と涙した。。。
(検索すると 伝道者の書 7章だった。)
今日も 聖書を通し 大きな豊かなメッセージを戴けた。
検索している時 「蜜のように甘い御言葉」という表現があったが
今日 私は 同じ思いを抱いた。
厳しかったけれど 乾いていた心に しみこんできた。
神様 ありがとうございました。
この事は新約聖書の時代から受け継がれています。
コリント人への手紙を読むと痛いほどわかります。
偶像崇拝は、何も偶像を拝むことだけではありません。自分の中にある年収、学歴、容姿の価値観も心の中にあるのも偶像です。ご利益信仰も偶像であり、肉の思いです。自尊心が高いのもまた偶像です。
信仰生活は、自分との戦いです。
苦しいこともありますが、御言葉を味わい、
祈り続けるましょう。
集会から教会に転会してから1年が経ちます。
牧師制度は有り難いです。信徒より牧師の方が
聖書理解面、信仰面において長けているからです。
困ったときなど相談に乗ってくれたりしています。
ベックさんのようにカリスマ性はありませんが、
聖書の教え、信徒1人1人に対して配慮があります。
先生の名前は、錦織寛とおっしゃいます。
何年か前から 糖尿病になり 薬剤治療をしています。
初めて糖尿病科を受診し(自分の働く病院の非常勤の先生)
栄養指導を受け、今まで好きな物を好きなだけ好きなタイミングに食べていたのが
時間も量も(カロリーも)内容も 厳しい制限があって・・・
初めの2~3か月は 泣きたいほど 辛くて辛くていました。
いっぺんには無理でしたが 少しずつ少しずつ習慣を変え
それが辛いとは やっと最近あまり感じなくなってきました。
(かと言って ドクターや栄養士の指導を100%守っている訳ではないのですが^^;)
いつもいつも思います。。。。
糖尿病(など 食事制限のある病気)は 自分の欲望との戦いだと。。。
自分の欲望を管理できる人は 薬からも解放されるようになるのですが
私と来たら ちょっと増えたりしています。
(私は インスリンは出ているが 働きが悪いのだそうです)
信仰もまた(糖尿病と並べるのもなんですが)
自分の自我との戦いですよね。
今週は無事に礼拝・福音集会集えました。
やっぱり… 皆さんと共に賛美したり兄弟方のお祈りを聞いたり
メッセージを聞いたり 皆さんに自分の祈りの課題を出させて戴いたり
小さなお交わりをしたり・・・・心が洗われるような清らかで豊かな
時間を持つことができ その大切さを改めて実感しました。
主も私達に対して祈られています。
でも苦しい物は苦しくてもいいと思います。
そこで頑張ろうと思うから苦しいのです。
そこに肉の思いがあるからです。
風のいろはさんは、旧約聖書を読むのは偉いです。
私は、旧約聖書は苦手なんですね。
勿論、詩篇、箴言と言った知恵文学には良さがあるのはわかっていますが、苦手意識は拭えません。
だから、ヘブル人への手紙を理解が出来ないのでしょう。
>今週は無事に礼拝・福音集会集えました。
良かったですね。
教会に行っていますが、牧師の事を先生と呼ぶ事は
ありますが、牧師夫人に対しては「さん」づけです。
牧師夫人も牧師を兼ねているにも関らずです。
楽しい日々を過ごしています。