7月1日_________________
平和のきずなで結ばれて御霊の一致を熱心に保ちなさい。
からだは一つ、御霊は一つです。あなたが召されたとき、
召しのもたらした望みが一つであったのと同じです。
エペソ 4.3以下
・・・・・・・・・・キリスト者としての私たちの希望とは何でしょうか。栄光のうち、いつまでも主とともにいることです。・・・・・・・・・・もしだれかが自分は主の者であると主張しながら、天国の希望も、栄光の希望も持っていないならば、彼の告白は中身のない告白です。
さらに<font color=red>この希望を抱く全ての者は一つ</font>です。というのも、永遠にわたってともにいるという希望を私たちは持っているので、どうして私たちがついに分裂してしまうようなことが起こり得ましょうか。<font color=red><b>私たちが同じ将来を共有しようとしているならば、どうして今を喜んで共有しないのでしょうか。</font></b>
7月2日_________________
どうしようもない罪人が自分ではどうしてもできないでいることを、その人に代わってするために、<font color=red>救い主は罪人のすぐ近くにおられるのです</font>。罪人が主のもとに近づくことを助けるために、主イエスは罪人の友として来られました。<font color=red>私たちが主の御もとに行くことは、まず主が私たちの所へ来てくださることにより可能となったのです。それによって天国は私たちの届くところに来ました。</font>
ある兄弟・・・・・の妻と母親は2階にいました。しかし彼の小さな息子は私たちといっしょに居間にいました。やがてその小
さな子どもは何かを欲しがり、母親に大声で叫んで求めました。「上にあるわよ」と母親は答えました。「上がってきて自分で取りなさい」。しかし子どもは大声で言いました。「おかあさん、できないよう。遠すぎるよう。持って、降りてきてよう」。実際のところ、その子はとても幼く、階段は急でした。そこで母親はそれを持って降りてきました。そして、救いとはそのようなものなのです。主が私たちの所に来てくださることによってのみ、私たちの必要は満たされます。<font color=red>もし主が来なければ、私たち罪人は決して主に近づくことができなかったことでしょう。しかし主は「天から下ってきて」くださいました</font>。そして私たちは引き上げられているのです。
7月3日_________________
主はあなたがたを取って、鉄の炉エジプトから連れ出し、
今日のように、ご自分の所有の民とされた。
申命記 4.20
・・・・・・・・・神のご計画によれば、神が民を救うとき、神はまた民をご自分のものとしているのです。神は私を贖ってくださいます。そのかわり神は私が自分自身を聖別することを求められます。<font color=red>神の私への素晴らしい賜物のゆえに、私は自分自身を神に捧げるのです。</font>
7月4日_________________
神は喜んで与える人を愛してくださいます。
II コリント 9.7
神のしもべは受けるのと同様、与えることも学ぶべきです。しかし与えることはしばしばなんと難しいことでしょうか。そこで私は思い出すのですが、・・・・・・・・・・・手元には僅か18ドルしか持っていなかったのです。・・・・・・・・・・・出発する前に、神は私にどうしても必要としているお金の中から6ドルを友だちにあげるようにと命じられました。出発すると、先行きのわからない貧乏旅行でしたが、途中からはもっとも祝福された一週間を楽しみました。帰路の旅は十分に備えられました。 あまりにもしばしば、私たちは与えることで失敗しているのではないか心配です。もし私が受け取るばかりで同時に与えることをしないならば、私を遣わしてくださった神にふさわしくありません。神の原則は「蓄えなさい。そうすれば豊かになります」ではなく、「与えなさい。そうすればあなたにも与えられます」。
<font size=2>≪祈り≫私が与えることができる者に変えられますように。</font>
7月5日_________________
ほとんどの奇跡において神は物をお用いになります。イエスはここで5つのパンと2匹の魚を喜んでお受けになりました。・・・・・・・・主の御手にささげ
られた私たちの持てる全て、あらゆる奇跡はここから始まります。私がパンをただ自分のために確保してごらんなさい。そうすれば一人を養うだけです。主に全て捧げてみましょう。果たして主は私を飢えさせるでしょうか。
・・・・・・・・・・・・天国もまた同じです。しばしば私は奇跡を見ることができません。
それはただ私たちが神にことをなしていただくように捧げていないためなのです。<font color=blue>神は私たちにほんの小さなことしか</font><font color=red>要求</font><font color=blue>なさいません--<font color=red>つまり私たちの持っている物</font><font color=blue>。しかし</font><font color=red>神にはそれが必要なのです</font>。</font>
7月6日_________________
しかし、こんなに大ぜいの人々では、それが何になりましょう。
ヨハネ 6.9
あまりにも大勢の人々の期待が、主の祝福ではなく、自分たちの宝庫の状況、つまり彼らの手にあったどうでもいいパンに集中していました。私たちの手にある物は申し訳ないほどごく僅かです。しかも計算してみると、計算すればするほど見通しは暗くなってきます。みなさん、奇跡は主の祝福から起こされるのです。
祝福のとどまるところ、何千もの人々は満腹するのです。祝福がないところでは 200ペニー以上の価値のものがあったとしても 決して十分ではないでしょう。この事実をわきまえなさい。そうすれば私たちの働きに変化が起こるのがわかることでしょう。うまくやる必要はもうありません。ごまかす必要はもうありません。人間の工夫を求めることも、大々的で空疎な公演も必要ではないでしょう。
<font color=red>なぜなら私たちは単純に主に信頼し、主の奇跡を待てばよいのです</font>。そして<font color=blue>既に私たちが台無しにしてしまったところでも、そのようなところでさえなぜかうまくいっていることを発見することでしょう</font>。<font color=red><b>たった僅かの祝福で、私たちは多くの問題を乗り越えていくことができる</font></b>のです。
7月7日_________________
わたしが選ぶ人の杖は芽を出す。
民数記 17.5
・・・・・・・アロンはほんとうに神によって選ばれたのだろうかと、民は疑問を呈していました。・・・・・・・そこで神は誰が主のしもべで、誰がそうでないのかを証明しようとされました。・・・・・・・朝になると、神の選ばれた杖は、芽を出し、花を咲かせ、実を結んでいたので、すぐにわかりました。
新芽、花、熟したアーモンド。これらはみな復活の奇跡を示しています。神の召命であることの神の証印は死から生まれた命--ただそれだけなのです。その命がなければ、あなたはなにものも持ち得ません。神は、神との交わりを通し、尽きざる命の力を味わうようになった神の僕しかお用いになることができません。
7月8日_________________
・・・・・・・・・アダムは6日目に造られました。・・・・・・・・・こうして神の七日目はアダムにとっての第一日目となりました。神が六日間働いて安息日を喜ばれたのに対し、アダムの一生は安息日から始まりました。神は休息の前に働かれます。人は、神と調和するためには、まず神の安息に入らなければなりません。ただそうしてのみ、人は働くことができます。この原則はあらゆるキリスト者の奉仕の基礎となるものです。さらに、神の最初の創造物は実に完全だったので、アダムの生涯の
出発点も満足のいくものでした。ここに福音があります。私たち罪人のために、神は必要なステップを用意しておられます。そしてまた<font color=red>神は、救いのみわざを完全に成し遂げてくださいました。私たちはその特権に浴するためになにもする必要がありません。単純な信仰により、直ちに神の完成されたみわざの安息に入ることができる</font>のです。
平和のきずなで結ばれて御霊の一致を熱心に保ちなさい。
からだは一つ、御霊は一つです。あなたが召されたとき、
召しのもたらした望みが一つであったのと同じです。
エペソ 4.3以下
・・・・・・・・・・キリスト者としての私たちの希望とは何でしょうか。栄光のうち、いつまでも主とともにいることです。・・・・・・・・・・もしだれかが自分は主の者であると主張しながら、天国の希望も、栄光の希望も持っていないならば、彼の告白は中身のない告白です。
さらに<font color=red>この希望を抱く全ての者は一つ</font>です。というのも、永遠にわたってともにいるという希望を私たちは持っているので、どうして私たちがついに分裂してしまうようなことが起こり得ましょうか。<font color=red><b>私たちが同じ将来を共有しようとしているならば、どうして今を喜んで共有しないのでしょうか。</font></b>
7月2日_________________
どうしようもない罪人が自分ではどうしてもできないでいることを、その人に代わってするために、<font color=red>救い主は罪人のすぐ近くにおられるのです</font>。罪人が主のもとに近づくことを助けるために、主イエスは罪人の友として来られました。<font color=red>私たちが主の御もとに行くことは、まず主が私たちの所へ来てくださることにより可能となったのです。それによって天国は私たちの届くところに来ました。</font>
ある兄弟・・・・・の妻と母親は2階にいました。しかし彼の小さな息子は私たちといっしょに居間にいました。やがてその小
さな子どもは何かを欲しがり、母親に大声で叫んで求めました。「上にあるわよ」と母親は答えました。「上がってきて自分で取りなさい」。しかし子どもは大声で言いました。「おかあさん、できないよう。遠すぎるよう。持って、降りてきてよう」。実際のところ、その子はとても幼く、階段は急でした。そこで母親はそれを持って降りてきました。そして、救いとはそのようなものなのです。主が私たちの所に来てくださることによってのみ、私たちの必要は満たされます。<font color=red>もし主が来なければ、私たち罪人は決して主に近づくことができなかったことでしょう。しかし主は「天から下ってきて」くださいました</font>。そして私たちは引き上げられているのです。
7月3日_________________
主はあなたがたを取って、鉄の炉エジプトから連れ出し、
今日のように、ご自分の所有の民とされた。
申命記 4.20
・・・・・・・・・神のご計画によれば、神が民を救うとき、神はまた民をご自分のものとしているのです。神は私を贖ってくださいます。そのかわり神は私が自分自身を聖別することを求められます。<font color=red>神の私への素晴らしい賜物のゆえに、私は自分自身を神に捧げるのです。</font>
7月4日_________________
神は喜んで与える人を愛してくださいます。
II コリント 9.7
神のしもべは受けるのと同様、与えることも学ぶべきです。しかし与えることはしばしばなんと難しいことでしょうか。そこで私は思い出すのですが、・・・・・・・・・・・手元には僅か18ドルしか持っていなかったのです。・・・・・・・・・・・出発する前に、神は私にどうしても必要としているお金の中から6ドルを友だちにあげるようにと命じられました。出発すると、先行きのわからない貧乏旅行でしたが、途中からはもっとも祝福された一週間を楽しみました。帰路の旅は十分に備えられました。 あまりにもしばしば、私たちは与えることで失敗しているのではないか心配です。もし私が受け取るばかりで同時に与えることをしないならば、私を遣わしてくださった神にふさわしくありません。神の原則は「蓄えなさい。そうすれば豊かになります」ではなく、「与えなさい。そうすればあなたにも与えられます」。
<font size=2>≪祈り≫私が与えることができる者に変えられますように。</font>
7月5日_________________
ほとんどの奇跡において神は物をお用いになります。イエスはここで5つのパンと2匹の魚を喜んでお受けになりました。・・・・・・・・主の御手にささげ
られた私たちの持てる全て、あらゆる奇跡はここから始まります。私がパンをただ自分のために確保してごらんなさい。そうすれば一人を養うだけです。主に全て捧げてみましょう。果たして主は私を飢えさせるでしょうか。
・・・・・・・・・・・・天国もまた同じです。しばしば私は奇跡を見ることができません。
それはただ私たちが神にことをなしていただくように捧げていないためなのです。<font color=blue>神は私たちにほんの小さなことしか</font><font color=red>要求</font><font color=blue>なさいません--<font color=red>つまり私たちの持っている物</font><font color=blue>。しかし</font><font color=red>神にはそれが必要なのです</font>。</font>
7月6日_________________
しかし、こんなに大ぜいの人々では、それが何になりましょう。
ヨハネ 6.9
あまりにも大勢の人々の期待が、主の祝福ではなく、自分たちの宝庫の状況、つまり彼らの手にあったどうでもいいパンに集中していました。私たちの手にある物は申し訳ないほどごく僅かです。しかも計算してみると、計算すればするほど見通しは暗くなってきます。みなさん、奇跡は主の祝福から起こされるのです。
祝福のとどまるところ、何千もの人々は満腹するのです。祝福がないところでは 200ペニー以上の価値のものがあったとしても 決して十分ではないでしょう。この事実をわきまえなさい。そうすれば私たちの働きに変化が起こるのがわかることでしょう。うまくやる必要はもうありません。ごまかす必要はもうありません。人間の工夫を求めることも、大々的で空疎な公演も必要ではないでしょう。
<font color=red>なぜなら私たちは単純に主に信頼し、主の奇跡を待てばよいのです</font>。そして<font color=blue>既に私たちが台無しにしてしまったところでも、そのようなところでさえなぜかうまくいっていることを発見することでしょう</font>。<font color=red><b>たった僅かの祝福で、私たちは多くの問題を乗り越えていくことができる</font></b>のです。
7月7日_________________
わたしが選ぶ人の杖は芽を出す。
民数記 17.5
・・・・・・・アロンはほんとうに神によって選ばれたのだろうかと、民は疑問を呈していました。・・・・・・・そこで神は誰が主のしもべで、誰がそうでないのかを証明しようとされました。・・・・・・・朝になると、神の選ばれた杖は、芽を出し、花を咲かせ、実を結んでいたので、すぐにわかりました。
新芽、花、熟したアーモンド。これらはみな復活の奇跡を示しています。神の召命であることの神の証印は死から生まれた命--ただそれだけなのです。その命がなければ、あなたはなにものも持ち得ません。神は、神との交わりを通し、尽きざる命の力を味わうようになった神の僕しかお用いになることができません。
7月8日_________________
・・・・・・・・・アダムは6日目に造られました。・・・・・・・・・こうして神の七日目はアダムにとっての第一日目となりました。神が六日間働いて安息日を喜ばれたのに対し、アダムの一生は安息日から始まりました。神は休息の前に働かれます。人は、神と調和するためには、まず神の安息に入らなければなりません。ただそうしてのみ、人は働くことができます。この原則はあらゆるキリスト者の奉仕の基礎となるものです。さらに、神の最初の創造物は実に完全だったので、アダムの生涯の
出発点も満足のいくものでした。ここに福音があります。私たち罪人のために、神は必要なステップを用意しておられます。そしてまた<font color=red>神は、救いのみわざを完全に成し遂げてくださいました。私たちはその特権に浴するためになにもする必要がありません。単純な信仰により、直ちに神の完成されたみわざの安息に入ることができる</font>のです。
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