・・・なんかの論文か?
なんだか仰々しいタイトルをつけてしまいましたが、昔から考えることの多いテーマなんです。
子供が生まれてから、その機会が頻繁になってきたので、一度書いておこうと思います。
というか、もうすでにブログで触れたことがあると思っていました。
個人的には、まだ話題にしたことがなかったことが不思議なくらい、よく考えてますです。
小さいころは別として、大人になってからの私は、わりと自分の「呼び名」に執着がないタイプで、その理由の1つは、名前の漢字が一見男っぽい字で、当て字というわけではないんだけど、素直に読めない、っていうのがあると思います。
たいてい初対面の人からは呼び間違えられます。
社会人になってからは、下の名前を名乗ることってそうそうないので、もしかしたら今の職場でも私の本当の名前(読み)を知っている人はごく一部かも?
そんなわけで、成長するにつれ、
「なんと呼ばれようと自分がわかればなんでもいっか。」
みたいな感じで日々暮らしております。
あとは、どちらかというと「呼び名」って人がつけるものであって、自分が「こう呼んで!」っていうものじゃない気がして、
「○○って呼んで!」
っていうのは、ちょっと、なんだか、こっぱずかしいっていうのもある・・・。(笑)
(って、私やっぱりこの件、前にもどこかに書いたことある気がするんだけど…。気のせいかな。)
そのかわり、名前の「漢字」にはものすごく思い入れがあります。
その漢字を使わなければ、同じ読みでも、もうまったくの別人、と思います。
たまに近しい親戚の叔母からでさえ、間違った漢字で手紙が届くと、なんかもう世の中どうにでもなれ~、みたいな、虚脱感を覚えます。
わかりづらい話なので例えていうならば、
「友子」と書いて「ともこ」なのだとしたら、「ゆうこ」と呼ばれることには抵抗ないけれど、「智子」とか「朋子」とか、漢字を間違われると一気にテンション下がる、って感じです。
(言うまでもないけど1つの例えであって、全国の智子さんと朋子さんにケンカ売ってるわけじゃないです、ハイ。)
そんなわけで、最初に『千と千尋の神隠し』を見たとき、私としては主人公の少女が「千尋」という名を奪われて「千」となったことが、なぜに彼女のアイデンティティーの崩壊に直結するのか理解できませんでした。
「千」なら「千」でいいじゃん?
よくあるあだ名の範囲じゃないの?
周りのみんなが「千」って呼んでくれるなら、「千」としてそこに存在できてるじゃん。
自分の「核」の部分が変わらなければ、呼び名ぐらいでアイデンティティーが崩壊するとは思えないんだけどなあ・・・。
と。
そんなこんなの、
自分の名前にこだわりがあるような~?
ないような~??
・・・の、わりといい加減なcottonでしたが、そんなテキトー母から生まれしお坊ちゃんが、これまたなかなかセンシティブなお子様で、彼と一緒にいるうちに、今までの自分が持っていた、名前(おもに呼び名)に対する価値観がガラッと変わってしまいました。
今日もまた長くなりそうなので、ここらで一度終わります。
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