櫻井郁也ダンスブログ Dance and Art by Sakurai Ikuya/CROSS SECTION

◉新作ダンス公演2024年7/13〜14 ◉コンテンポラリーダンス、舞踏、オイリュトミー

ひかりの柱:イメージ・姿勢・ボディーライン

2007-06-03 | ダンスノート(からだ、くらし)
身体のかたち。とりわけ美しく感じられるプロポーションは、おだやかな波のように見える。静かな流線型を保ちつつ、その内部には力強く運動するエネルギーが感じられ、静と動あるいは強度と柔らかさが共存している。

これは、単に体型や年齢のせいではなく、その人がもっているカラダへのイメージと深く関わっているように思う。

さて踊ろうと気を入れる時、臍下丹田あたりから発し、頭頂部を突き抜けるように昇っていく炎を、僕はしばしば想像する。まっすぐに輝く芯の周辺を、おだやかに波打つオレンジの炎である。
理科の世界では、人体の大部分が水によって成されているというのだが、その水分たちを温め、磁極線のように対流させる火力が、カラダの中心にあるという想像が、ダンスと一緒に湧き上がってくるのだ。元気になる。

踊りの基本訓練として、全身のゆるみを感じ、足元から軸線を絞り上げるように立つものがある。シュタイナーは、これを「光の柱」と呼んでオイリュトミーに活かした。僕自身とても気に入り、毎日の練習や全てのクラスに取り入れている。処方を身につけ、すっきりと出来れば、自ら輝いて周囲を照らし出す印象を、見る者に与える。「光源」としての人体が地に立つ姿となるのである。

この練習でも常に、イメージの力が筋力や神経のすみずみに直接作用する実感がある。僕がイメージするのは、直線的な光ではなく、動的な光だ。純白に接近するような明るいブルーから柔らかなイエローへ、また、初夏の森のようなグリーンから火傷しそうなオレンジへと、極彩色の変化をとげながら波うち昇りつめる炎のような光を想像するのだ。この火が水分と対流し、外部の空気質や鉱物質に語りかける。そんなイメージが、人体にはあると感じる。細やかとなれば、幾何学に接近し、なおかつ留まることのないプロポーションが現れるのではないか。

ほかにも僕が好んで練習し、クラスでも取り上げるエクササイズには、イメージと身体操作を融合させたものが多い。イメージは、意識を変化させるし、意識は否応なく身体を変化させる。そして生活をも変える。イメージとは、変化・変容へのエンジンのようなものだと思う。

たとえば、呼吸は歌だ。単に吐く・吸うだけでなく、起伏とテンポ感がないと浅くなり肚も胸も充実しない。
たとえば、足指や踵で地面を味わうようにすれば、歩くにも情が伴って全身がうずく。
たとえば・・・。

美しい、と思える人は、内部が躍動して肉体にはたらきかけている。そして、自身の肉体を肯定的に受け止めようとしている。良し悪しの判断力ではなく、何かあこがれや愛情を反映したイメージをもって肉体と接しているのだと思う。
肉体の存在をぞんざいにしていたり、まなざしに刺があったりすると、寸法の上で整っていても力学がぎくしゃくする。こわばった身体・形相となるのだ。

死の間際、安らかでありたいと願うが、やはり最後に美しい亡骸をとの配慮ではないか。遺された人たちの中で、その姿が生き続けるのだから・・・。
臨死の際、長年つきあってきた自身の肉体に礼を言った人がいられた。亡骸のおだやかさに、皆が泣いた。手本である。

僕らは物質の世界に生きて、物質の世界とは、差異の世界だ。
ここでは、存在は分たれ、隔てられることになったが、あこがれや愛というエネルギーを獲得して共存している。肌一枚で隔てられた他者は、すべてイメージの源として目の前に開かれて、ある。それらに対する共感と反感。そのエネルギーが具体となって己を変える。これが姿勢だ。ただ想像するのではない。己に反映し、作用するものとしてイメージをもちたい。
この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« カンヌ朗報! | トップ | 麦の穂とハレルヤ:ねむの木... »
最新の画像もっと見る

ダンスノート(からだ、くらし)」カテゴリの最新記事