櫻井郁也ダンスブログ Dance and Art by Sakurai Ikuya/CROSS SECTION

◉新作ダンス公演2024年7/13〜14 ◉コンテンポラリーダンス、舞踏、オイリュトミー

レッスンもろもろ

2009-07-20 | レッスン・WSノート
動くこと自体が、なぜか楽しい。
からだは動いているほうが自然なんだと気付かされた。
踊りを続けているうちに、イライラすることが減ってきたように思う。
・・・、クラスの帰路で、そんな感想を、うれしく聴いた。

舞踏やオイリュトミーがベースの稽古だからなのか、うちのレッスンには少人数ながら年齢幅も広くライフスタイルも様々異なる方が集まってくださる。僕と同年代や年上の方も、どんどん加わってくださるようになってきた。年齢性別それぞれの味わいが活きているさまが美貌と思う。生活の経験が積み重ねられた身体が、踊りを呼吸している姿は、本当に美しい。

芸術行為に、イニシエーションという観念を再生したのは、シュタイナーやグルジェフの仕事の大成果だと思うが、踊りの稽古会を開き続けていると、稽古あるいはワークというのが、単に表現者のための研鑽という枠をはるかに越えた、独自の楽しみとして成果するのだと感じてならない。
イニシエーションというのは、何かひとつの鍛練を通じて自己を認識し直し、気付かなかった可能性を予感したり、過去の思い込みから決別して、生活を変えてゆくことだ。ちょっと大げさかもしれないけど、僕なりの言葉で言うと、世界を自らの内側から革命することでもあると思う。「私」が変化することで世界そのものが変わり始める。踊りをはじめ、芸術と呼ばれる営みには、表現性の他に、そんな方向が確かだ。私というものを変化させてゆく力が芸術には確かにあると思うし、そのような、芸術の力を信頼してきた。開かれゆく表現を外爆発とすれば、内爆発というのもアートの力だ。もっとも、そんな大げさ言わずとも、日本には稽古事という素晴らしい伝統があって、どこか禅宗にも通じているのだが。

さて、全クラス、夏場は、動き尽くす、ということを試みている、体験している。動的な状態のままに一時を過ごしあうことは、踊りの楽しみの醍醐味にも通じてゆくことだから。と言っても、必要以上に「頑張る」ことは単に自己満足的な達成感をまねくだけだ。不要な力みをカットしたり、弛みととテンションのバランスを遊びながら、呼吸を通し空気を他者と共有する、そんな方向へ。単純な動きの反復から様々遊びや振り付けやイメージを広げつつ、身体中細部まで感じ尽くす、「ここにからだあり」という空気を共有するというのが、この夏場の稽古プロセスだ。

芸術には、その人が積み重ねてきた人生をいきなおす、再生のプロセスがあると思う。ダンスで言うと、わずか一瞬のひと振りに、積み重ねてきた人生を受け止め直してゆく。なんていうことがあって、初めて他者にも響きゆくにちがいなく、僕もそこに必死。

何かひとつの振る舞い、に、夢中になる、没頭する。動きに的を絞ることは精神に的を絞ることでもある。生きた姿になる、まずはこれが基盤だと捉えている。人は人のカタチをもっている。天から与えられて、母から与えられて。そのようなカタチを携えていることを実感したい。踊りの稽古は、からだを受け止める稽古でもあるから。
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