櫻井郁也ダンスブログ Dance and Art by Sakurai Ikuya/CROSS SECTION

◉新作ダンス公演2024年7/13〜14 ◉コンテンポラリーダンス、舞踏、オイリュトミー

場、身体、存在、時:舞場のこと

2013-10-25 | 公演写真&記録(国内) dance works in JP(photo etc)
気配も地層みたく堆積するのかしら。
場所に蓄積された気配が、オーラのように肌に触れる。稽古場では聴けない様々な空間の声が語りかけてくる。時には生々しい人の声のように、時には黒よりも黒く透き通った真空のように。
視線と場のオーラに囲まれて心が裸にされる。
舞場に立つたび、そんな感覚を覚える。

虚実皮膜とは近松門左衛門の言葉だったと思うが、踊りの舞台はさながら現実と夢の境目が破壊されたような広い場所だと痛感する。

今更ながら、ダンス公演は、視線と場の気配に結ぼれて初めて息をし始めると確かに感じるようになって、本番が近くなると背筋が熱を出す。

何よりもまず、舞場に立った瞬間のその一瞬が試されるのだけど、その一瞬はその時が来ないとわからない。

場所は黙々と、ただそこに時を生成して、地霊が息をしている。客席のひとりひとりが生身の心であるように、空間も空気も光も闇も時間も、すべてが全て生きている、ということ。

越後妻有のトリエンナーレでは、広大な織物工場の廃墟で踊ったけど、人が働く場所としての生々しい匂いは凄まじいものだった。三鷹の住居ビルで踊ったときは、今いまを織り続けている台所や寝室のデリケートな時計の音が身体を圧した。
ポルトガルの劇場には、ため息と海の風が蹲るようだったし、ドイツの現代美術館には鷹の眼のような鋭利な空気がじっと見つめていたし、昨年のルクセンブルクでは何が始まるのかわからない交差点のど真ん中のような速度が蠢いていた。

今回のステージは、
東京、plan-B。
僕には欠かすことが出来ない生産点であり、常に試される定点、舞場、場所。

このギュッとした空間に、一度は座ってみていただきたいと、公演のたびに思う。

日本のパフォーミングアートの意志の歴史が刻まれた場所だ。壁、床、天井、ぜんぶ何かしらの声を堆積して、在る。

この場所でダンス公演をさせていただいて10年以上たつ。

海外招聘や大きな場でのダンスは全て、ここで創作したものが原形。その逆はまだ無い。どこかで造った何かを持ち込むようなスキが、この場所には無いから。

機会あって踊るのでなく、純粋に衝動だけで生み出すこと。やります、とお願いするたび、腹を据える。慣れない。いつも白紙に還る。それが、今回も含むplan-Bでの「ダンスソロ」と称する一連の現場だ。

公共ホールや中劇場、それからギャラリーなどで活動をはじめ、ニュートラルな場に慣れていたが、この場所に出会い変わった。

独りに、いや、一体に還って、そこから今現在へ捧げる何かを。マジでそう思わせてくれたのは、この場所のもつ温度や気配に出会ったことも大きかった。

個を突き詰めることからしか、僕には世界も社会も見えない。そう思う愚直かもしれないような作業を、全く制約なしに実行させて下さる場が、ここ。ここに集まって下さる人ひとりひとり。
しかしドライな空間だが。

極めてダンサーに近い、ひとりひとりと呼吸を交わすような観客席。
囲む壁面は正確にまさしくカベであり、その存在感をごまかすものは、無い。ご存知の演者ひとりひとりの踏んだ痕跡が残る「床」は、ほろ苦い。
ウソも本当も全部見える。
事前に用意したものなんか無惨に崩れるから、視線の前でギリギリ成立したものしか質量を持たない。

身を投げる日が近い。背筋が震える。
裸になる日でもある。

一期一会、とは、本当によく言ったものだ。戦々恐々、されど待ち遠しい。

稽古はいよいよ渦中。いかなる着地となるか。
さてさて!

_________________________________

櫻井郁也・公演サイト
この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« ホドロフスキーの映画 | トップ | ルー・リードが・・・ »
最新の画像もっと見る

公演写真&記録(国内) dance works in JP(photo etc)」カテゴリの最新記事