クラスで言葉について話す時間を得た。たびたびあることだが、、、。
以下は今年秋の日記から。
言葉、からダンスを起こしてゆく面白さは日本の諸芸にはとても明らかだが、
夏の独舞公演『血の言葉』のあと、言葉とダンスの関係に、あらためて、より、ハマっている。
音楽から、空間から、日常の出来事から、特に意味のない抽象的な想像から、エトセトラ、実に様々な物事からダンスは生み出されるが、言葉も例外ではない。
言葉では全く形容や説明が難しいような、純粋に運動感覚からばかり出てきた振付だけでダンス作品を作ることも多々ある。
しかし、過去に言葉からインスピレーションを受けてダンス作品をつくり踊った回数は数えきれず、いまもそれはとても面白い作業になっている。
そもそも言葉というものについて考えを巡らせたり、言葉をいかに体験するかという試行錯誤をしてゆくというのは、かなりニンゲンというものについて考えることにも重なってくる。
言葉に縛られたり惑わされることはあるし、言葉ばかりで物事を考えるのも好かない反面、言葉からもらうエネルギーや、言葉によって呼び覚まされる内的な力が、自分というものを変化させる力に転じて、人生を実際に切り開くことさえあることも、確かに感じる。
また、言葉というものがこの世に存在している事自体が、とても神秘的なことに思えることがある。
以前、ある言語を話す最後の一人になった男の人を撮影したドキュメンタリーを見たことがあるが、自分以外に誰も離さず、誰も理解さえ出来ない言語で、その人は毎日毎日しゃべり続けていて、具体的に何もわからないにだけでなく、感情の抑揚さえあまり予測することもできなかった。なのに、その言葉の連続は、その喋り話し語る人の記録からは、強いエネルギーを感じてしまった。
言葉から踊りを起こす、、、
これは、言葉を生きる力に転換するのと、もしかすると近しいのでは。そこには、音楽に触発されるのとはまた異なった意識の層があるのでは。そんなことを、あらためて思うことが、この頃ある。
言葉は僕らの知性に働きかけるだけではなく、言葉には熱や湿度や毒や薬や色んな力が封印されていて、それらが自分の感情や生理に働きかけてくるのかもしれない。
身体を動かしながら、あるいは、身体を動かそうとしながら、言葉を聞き、言葉を問う。
いま、この瞬間、自分がその言葉から何を聞き取り、何を受け容れているのか、そして、何によってどのように動かされているのか、ということが直感される。無知も、未知も、直視される。自分のアタマや心の、固さも柔らかさも、身体によって露わになる。
言葉から踊る、ということは、他人を受け入れることから始める、ということでもある。それは同時に、自分を拡張しようと試みる、ということでもあると思う。
ロゴスなるものに潜在するのは、火の力、なのではないかと思うことが最近、多々ある。
言葉の封印を解く力が、肉体的な行為や行動には、あるのだろうか。
(2021日記から)
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Stage info. 櫻井郁也/十字舎房:公式Webサイト
ただいま前回ダンス公演の記録をご紹介しております。次回公演の日程は年明け発表します。いましばらくお待ちください。