写真は『全体主義の起源』みすず版一巻の表紙ですが、何かが押し寄せて来るような、抗い切れない力が映り込んでいるようで、僕は、すごく怖く感じます。
この大著を書いたハンナ・アーレントについての展覧会が少し前にベルリンで行われたときき、うらやましく思いました。このパンデミック時に彼女に注目する展示は非常に有意義と思いました。
「政治においては服従と支持は同じ(エルサレムのアイヒマン)
「人間が生まれてきたのは死ぬためではなく始めるため(人間の条件)
いづれも、この人の言葉。やはり重い、最近つとに思います。
彼女の文章は難解と言う人も多いし、実際その1ページを読むだけでもかなりのエネルギーを必要とするのも確かですが、僕はその底に強い心の存在を感じ、妙に気になり、つい次の頁を開いてしまいます。そして、なんとか読もうとかじりつきながら考え、考えながら、思考するという行為それ自体の重大さを思い知らされます。
僕のダンスにとって非常に重要な力を与えてくれたものの一つが《オイリュトミー》というメソッドで、その修行に”Ich denke die rede” (私は言葉を考える)という句に始まる必携のマントラがあり、僕には毎日の稽古やリハーサル前にこれを練習する習慣が今もあるのですが、アーレントの書物を読んでいると時々このマントラとそれに照応する身体運動が浮かんでくるのです。37~8年ほど稽古してきたのですが、このごろは、その奥深さに感動することがたびたびあり、言葉それ自体について問いを持つことや、身体に思考の力を注ぎ込もうとすることは、自由であるためにとても大切なことに思えてなりません。
アーレントの言う「ヴィータ・アクティバ」というのも社会経験とロゴスそのものに対する思考が重なる体験によって導かれる、抗いの基盤とも言えるのではないかと個人的に思うことがあります。
僕の馬鹿げた妄想かもしれないが、上記の著をはじめアーレントのさまざまな著作に書かれた全体主義への危機のいくつかを、今年のコロナ状態のなかで思い出してしまうことがたびたびあり、それも手伝って再読をしています。
スペイン風邪パンデミックから1930年代あたりまでの欧州の出来事がもたらした世界の変化と、僕ら自身の現在を重ねずにはいられない気持ちもあります。
今年の状況のなかで垣間見られた僕らの底はかとない「きまじめさ」が、戦後70数年をかけて訣別したはずの「かつて」を再び招き寄せやしないかと愚想することが、あるいは、底はかとない怯えを感じることが、今年このコロナ禍中での「人間かんけい」とか「空気」のなかで何度となくありました。
現在この世界のなかに漂い充満している空気感が、彼女のいくつかの本のなかに書かれている現象に、やがて重なっていきそうな予感が、ふと、してしまうのは妄想、あるいは考え過ぎでしょうか。コロナパンデミックが通り過ぎてゆくのと入れ替わりに、僕らの脳内が変化し、何か恐ろしい足音が聴こえてきたりしないだろうかと、心配になります。その心配が馬鹿げていることを祈ります。
ただいま経験しているこの長い停滞と困惑の時間が、さまざまなことを考えたり振り返ることを可能にする時間でもあることは、とてもリアルです。
いまこの停滞の一日一日一瞬一瞬に何をいかに「思い考え」してゆくか、、、。その堆積によって、身の回りのことや少し先の未来が、いくぶん変わってくるような気がしてなりません。
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