櫻井郁也ダンスブログ Dance and Art by Sakurai Ikuya/CROSS SECTION

◉新作ダンス公演2024年7/13〜14 ◉コンテンポラリーダンス、舞踏、オイリュトミー

ダンスという現象

2015-02-04 | ダンスノート(からだ、くらし)
クラスで踊りの稽古をつけながら、とりとめのない感動が湧くことがある。熱の変容というか、ある種の予感を孕んだ、人が自らに向き合う姿への感動だと思う。

音楽を踊るほかに、僕のクラスでは言葉を踊ってみたり、静寂のなかで踊ってみたり、つまり、いろんな踊りの発露を体験してもらう。心が動くから身体も動く、ダンスの衝動はいたるところにあるから。

水曜日のオイリュトミークラスではノヴァーリスの断章を、土曜日のレギュラークラスではリグヴェーダの冒頭部を、踊っている。ノヴァーリスは人間の心が震えてリズムが生まれる瞬間をポエムにした。インドの聖典であるリグヴェーダでは、世界の始まりの「無」さえ無い、壮大なゼロ次元を言葉の響きに歌い託す。いずれも、僕らの日常を遥かに超えたイマジネーションの世界である。そこに思いを馳せながらカラダを揺らし一喜一憂してゆくクラスメンバーの練習風景は、とても美しい。練習だから、ダメを出し、何度も何度も繰り返して探る。その都度、表情が変わり動きの熱量が変わり、佇まいそのものが充実してゆく。そのプロセスを見つめながら、いつも思う。踊りには不思議な力が働いているのではないかな、と。

踊っているとき、稽古しているとき、ダンスについて考えているとき、ダンスを観ているとき、このダンスは観たいなと想像しているとき、なぜだろう、ダンスに関わっている時には、さまざまな心配や怒りや悲しみやイライラや、つまりは囚われているもろもろが薄らいでゆく感覚がある。

練習していても、足踏みや呼吸とともに、全く別の何かが体に入ってくるような感覚。それは、体の中に明るみがあらわれるようでもある。

たとえ怒りを踊っているときも、カッカするアタマは冷えて、自分の怒りというより、怒り、という不思議な力の働きについての思いに変化してゆく。感情がイマジネーションに変化してゆく。

江戸の終わりに「ええじゃないか」という踊りがあったときくが、ダンスには矢張り、とどこおりを溶かし、気を晴らし、事々すべて、ええじゃないか、としてゆく力があるのだろうか。
ギリシャの昔人がテレプシコラと呼んだ舞の精霊が矢張りあるのだろうか。

言葉を理解して表現する、ということとは何か違う、エネルギーとエネルギーの対流というか、ある種のダイナミックな循環を生み出す力が、ダンスにはあるのではないかと思ってしまう。

先祖から、人を泣かせるような、からだの入れ換えが伝わっている。

とは、土方巽の有名な言葉であるが、、、。
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