1月が終わる前に、
忘れてはならない日があります。
それは1月27日。
アウシュヴィッツ強制収容所が解放された日です。
この日は僕らにとって非常に大事な日。繰り返し繰り返し、人間について考える日。沈黙の日だと思うのです。
ヨーロッパでは各地で追悼式があり、イスラエルでは朝10時になるとサイレンの音とともに車も人も黙祷のため動きを止める。
僕が収容所跡に初めて行ったのは20代はじめ、チェルノブイリ事故の翌年だったから1987年でした。
社会主義が崩落寸前だったポーランドはワルシャワもグダニスクもクラクフも変化が押し迫るような緊張感があったが、オシヴィエンツィム(独:アウシュビッツ)は静かでゆっくりした村だった。まつ毛が凍る寒さだったけれど、そのぶん空も突き抜けて澄んでいました。
市バスを降りると門があり、アルバイト・マハト・フライ(働けば自由になる)というドイツ語が書かれていた。その門をくぐったなかは、実際まるで会社や工場の敷地のようでした。
人影まばらで赤レンガの建物が端正に並ぶなか、ポプラや白樺が眩しいほど真っ直ぐに空に伸びていて、そして冬の光がその枝々を鮮やかな影絵にしていました。
美しく空に伸びる樹々たち、しかしそれは囚われた人たちが植えさせられた樹々でした。
内部に展開された光景は皆さまご存知の通り。おびただしく積み上げれた、ここに書くことが躊躇われるほどの、遺物と身体の痕跡。そして何よりも、あれをこそ「気配」と言うのだろうか、全身を麻痺させる何かが皮膚をつらぬいていきました。
あの身体の感覚は、思い出したくないまま今も執拗にフラッシュバックが起きます。
外に出るとやはり明るく澄んだ真冬でした。今と違って収容所跡の見学者は少なく、ぽつりぽつりとすれ違う人たちには花を持っている方が多かった。
かなり歩いていきましたが、いつの間にかあたりは広大な荒れ地に変わる。しかし、あちこちに点在する巨大な窪みは死体焼却場の跡であり、煙突のあるバラックは無言のうちにそこで何があったのか推察するまでもない、歩いている場所の全ては、どこまでも収容所なのだったから。
やがて辿りついたところには、吹きっ晒しの野に巨大な門があり、一本の線路がその門をくぐってプツリと途切れていました。第二収容所ビルケナウ跡です。
広大な荒れ野、鉄条網、幾つもの収容棟が同じ形で規則的に広がって朽ちていました。
ゆくえを断たれた線路の最後の場所には、バラの花束が置かれていました。
すれ違う人たちが手にしていた花はバラだったんだと気がつきました。
ポーランドはバラの国です。
堅固な建物が並ぶ第一収容所では内部に無数の遺物や記録物が展示されていたのに対して、まだビルケナウにはほとんど手が入れられていませんでした。
散在する遺構の一つ一つに入った人は、あちこちにバラを捧げていました。
木のベッドに、鉄条網に、まだ灰がのこる炉に、、、。
バラは愛する人に贈る花です。
経験したことがない虚空感覚というのか。泣く力も出ない。込み上げるものが空中に吸い取られてしまう。感情が混乱して、自分というものが、凍ってゆくことを感じている。
わずか一日この跡地を訪れただけで、、、。
あの場所を訪れたことで僕は人生感が変わってしまった気がします。
もしかすると僕らには見なければならない光景と見てはならない光景があるのかもしれません。
行かねばならない場所と行ってはならない場所があるのかもしれない。
アウシュビッツ・ビルケナウ収容所跡は、そのどちらなのだろうか。
未だに答えは出ないままです。
今は沢山の人が訪れるようになり、ガイドさんもいらして設備も交通も変わったと聞きますが、年若い人が行かれる場合は、しっかりと手を握ってくれる家族や友人と一緒に行くべき場所だと思います。
その痕跡を目の当たりにするだけで心のなかの何かが壊れてしまうほどのことを、たしかに人間は、してしまったのです。
昨日の記事を書いたあと、思い出しておりました。
忘れてはならない日があります。
それは1月27日。
アウシュヴィッツ強制収容所が解放された日です。
この日は僕らにとって非常に大事な日。繰り返し繰り返し、人間について考える日。沈黙の日だと思うのです。
ヨーロッパでは各地で追悼式があり、イスラエルでは朝10時になるとサイレンの音とともに車も人も黙祷のため動きを止める。
僕が収容所跡に初めて行ったのは20代はじめ、チェルノブイリ事故の翌年だったから1987年でした。
社会主義が崩落寸前だったポーランドはワルシャワもグダニスクもクラクフも変化が押し迫るような緊張感があったが、オシヴィエンツィム(独:アウシュビッツ)は静かでゆっくりした村だった。まつ毛が凍る寒さだったけれど、そのぶん空も突き抜けて澄んでいました。
市バスを降りると門があり、アルバイト・マハト・フライ(働けば自由になる)というドイツ語が書かれていた。その門をくぐったなかは、実際まるで会社や工場の敷地のようでした。
人影まばらで赤レンガの建物が端正に並ぶなか、ポプラや白樺が眩しいほど真っ直ぐに空に伸びていて、そして冬の光がその枝々を鮮やかな影絵にしていました。
美しく空に伸びる樹々たち、しかしそれは囚われた人たちが植えさせられた樹々でした。
内部に展開された光景は皆さまご存知の通り。おびただしく積み上げれた、ここに書くことが躊躇われるほどの、遺物と身体の痕跡。そして何よりも、あれをこそ「気配」と言うのだろうか、全身を麻痺させる何かが皮膚をつらぬいていきました。
あの身体の感覚は、思い出したくないまま今も執拗にフラッシュバックが起きます。
外に出るとやはり明るく澄んだ真冬でした。今と違って収容所跡の見学者は少なく、ぽつりぽつりとすれ違う人たちには花を持っている方が多かった。
かなり歩いていきましたが、いつの間にかあたりは広大な荒れ地に変わる。しかし、あちこちに点在する巨大な窪みは死体焼却場の跡であり、煙突のあるバラックは無言のうちにそこで何があったのか推察するまでもない、歩いている場所の全ては、どこまでも収容所なのだったから。
やがて辿りついたところには、吹きっ晒しの野に巨大な門があり、一本の線路がその門をくぐってプツリと途切れていました。第二収容所ビルケナウ跡です。
広大な荒れ野、鉄条網、幾つもの収容棟が同じ形で規則的に広がって朽ちていました。
ゆくえを断たれた線路の最後の場所には、バラの花束が置かれていました。
すれ違う人たちが手にしていた花はバラだったんだと気がつきました。
ポーランドはバラの国です。
堅固な建物が並ぶ第一収容所では内部に無数の遺物や記録物が展示されていたのに対して、まだビルケナウにはほとんど手が入れられていませんでした。
散在する遺構の一つ一つに入った人は、あちこちにバラを捧げていました。
木のベッドに、鉄条網に、まだ灰がのこる炉に、、、。
バラは愛する人に贈る花です。
経験したことがない虚空感覚というのか。泣く力も出ない。込み上げるものが空中に吸い取られてしまう。感情が混乱して、自分というものが、凍ってゆくことを感じている。
わずか一日この跡地を訪れただけで、、、。
あの場所を訪れたことで僕は人生感が変わってしまった気がします。
もしかすると僕らには見なければならない光景と見てはならない光景があるのかもしれません。
行かねばならない場所と行ってはならない場所があるのかもしれない。
アウシュビッツ・ビルケナウ収容所跡は、そのどちらなのだろうか。
未だに答えは出ないままです。
今は沢山の人が訪れるようになり、ガイドさんもいらして設備も交通も変わったと聞きますが、年若い人が行かれる場合は、しっかりと手を握ってくれる家族や友人と一緒に行くべき場所だと思います。
その痕跡を目の当たりにするだけで心のなかの何かが壊れてしまうほどのことを、たしかに人間は、してしまったのです。
昨日の記事を書いたあと、思い出しておりました。