朝は今週末上演の『記憶の海をわたることから』のリハーサルを、それから食事や少し読書で気分転換して、午後は5月のソロ公演『その血にきけ』の振付ノートや稽古映像を総チェックしながら作品構想を推敲した。いまは明日の舞踏クラスのレッスン内容をふくらませつつ、ちょっと休憩という感じで、これを書いている。夜中は上演に必要なデスクワークを少しくらいはして、眠る、のだと思う。
一日中、ひとりの作業に集中してたが、胸中ずいぶん色々な人のことが去来する。舞台もレッスンも、ダンスの現場は人との関わりそのものだ。それが楽しいから嬉しいから、舞台とレッスンのどちらもやまないのだろう。
踊ること自体が、自分の肉体と向き合っているように一見できるかもしれないが、実のところ、肉体を通じて「ひとのこころ」なるものを探している感じがする。
日々時々に、なんとあの人の気持を分かっていなかった、この人のことも、などという手前勝手への癪というか申し訳なさが、うんと稽古すると少しだけ楽になる気がするのは不思議なものだ。
音楽とか美術とか言葉とか、そういったものだって人の心なのだから、踊りこんで何か気付いた時には、ああ前はとんだ誤解だったなという失念とともに、もっと近くへもっと、という気持がして、結局のところ作品という場所にどんどん入り込んでしまうのだろう。
まあ、作品というのは行場みたいな性質もあるのだろうか。
本番ともなれば、もう空っぽそのものにならなきゃいけないわけだが、それは、身を空っぽにすることで、どんな心でも入ったり出たりできるような器を見所に供するためなのだと思う。その日が近づいてくると、口にする食べ物やら触れる言葉に、なんとなく敏感になってしまうのも、身を空っぽにする準備のひとつなのかもしれない。見手が心に抱くものを、きらっと反射して踊れるといいのだが、さて。
そろそろ作業に戻ろうと思います。
みなさま、おやすみなさい。
一日中、ひとりの作業に集中してたが、胸中ずいぶん色々な人のことが去来する。舞台もレッスンも、ダンスの現場は人との関わりそのものだ。それが楽しいから嬉しいから、舞台とレッスンのどちらもやまないのだろう。
踊ること自体が、自分の肉体と向き合っているように一見できるかもしれないが、実のところ、肉体を通じて「ひとのこころ」なるものを探している感じがする。
日々時々に、なんとあの人の気持を分かっていなかった、この人のことも、などという手前勝手への癪というか申し訳なさが、うんと稽古すると少しだけ楽になる気がするのは不思議なものだ。
音楽とか美術とか言葉とか、そういったものだって人の心なのだから、踊りこんで何か気付いた時には、ああ前はとんだ誤解だったなという失念とともに、もっと近くへもっと、という気持がして、結局のところ作品という場所にどんどん入り込んでしまうのだろう。
まあ、作品というのは行場みたいな性質もあるのだろうか。
本番ともなれば、もう空っぽそのものにならなきゃいけないわけだが、それは、身を空っぽにすることで、どんな心でも入ったり出たりできるような器を見所に供するためなのだと思う。その日が近づいてくると、口にする食べ物やら触れる言葉に、なんとなく敏感になってしまうのも、身を空っぽにする準備のひとつなのかもしれない。見手が心に抱くものを、きらっと反射して踊れるといいのだが、さて。
そろそろ作業に戻ろうと思います。
みなさま、おやすみなさい。