熱になること。ダンスの醍醐味はそこだな、やはり。
そう思いました。火曜、水曜、とレッスンをしながら。
火曜の舞踏クラスでは、柔らかいステップを踏みながら、足から腰へ、腰から背中へ、肩へ、腕へ、首へ、関節の力みを抜き全身に動きの波を伝えてゆくことを。さらに、そのステップや波の生み出すノリを感じあいながら調和したり刺激しあったり。踊りによってバイブレーションを交感し、場をつくってゆく体験を何度も行い、次第に動きの変化を促しながら、即興のダンスを生み出してゆくプロセスを楽しみました。
水曜のオイリュトミークラスは、詩を踊る練習の日でした。いま取り組んでいる詩の朗読を聴きながら、その一節一節に響く言葉が織りなすサウンドの広がりや、一言一言が連なり結びつきながら生成する呼吸感や意味合いの膨らんでゆく様子や、それらによって和らげられたり引き締まったりしてゆく自らの心の変化を、全身の波やステップにして、踊りを生み出してゆくプロセスを味わいました。その上で、いま稽古している振付を、あらためて踊りました。
どちらのクラスでも、時間の経過のなかで、動きは柔らかくなり、柔らかくなるほどに大きくなり、踊るほどに、一人一人の表情に温かみと強さが現れてくるのが印象的でした。
魂に熱を取り戻すプロセス、をしているんだ、これは。という実感がありました。
踊りたい、という気持ちには、簡単に言い表せない無量の思いが交差しているんだと思います。
音や言葉の響きや互いの発散するエネルギーに触れながら、時に緩やかに、時に強く、時にデリケートにそしてダイナミックに身を揺するなかで、その身はいつしかほぐれ、疲れを和らげ、血を通い直してゆく。そんななかで、余計な心配を捨てて踊りに専念してゆきながら、本当に大事にしている何かに触れ直すのでしょうか。
汗とともほころぶ表情が、こうした稽古の場に立ち合いレッスンを行える喜びを、じわりと感じさせてくれました。
ありがとう、また次回!
そう思いました。火曜、水曜、とレッスンをしながら。
火曜の舞踏クラスでは、柔らかいステップを踏みながら、足から腰へ、腰から背中へ、肩へ、腕へ、首へ、関節の力みを抜き全身に動きの波を伝えてゆくことを。さらに、そのステップや波の生み出すノリを感じあいながら調和したり刺激しあったり。踊りによってバイブレーションを交感し、場をつくってゆく体験を何度も行い、次第に動きの変化を促しながら、即興のダンスを生み出してゆくプロセスを楽しみました。
水曜のオイリュトミークラスは、詩を踊る練習の日でした。いま取り組んでいる詩の朗読を聴きながら、その一節一節に響く言葉が織りなすサウンドの広がりや、一言一言が連なり結びつきながら生成する呼吸感や意味合いの膨らんでゆく様子や、それらによって和らげられたり引き締まったりしてゆく自らの心の変化を、全身の波やステップにして、踊りを生み出してゆくプロセスを味わいました。その上で、いま稽古している振付を、あらためて踊りました。
どちらのクラスでも、時間の経過のなかで、動きは柔らかくなり、柔らかくなるほどに大きくなり、踊るほどに、一人一人の表情に温かみと強さが現れてくるのが印象的でした。
魂に熱を取り戻すプロセス、をしているんだ、これは。という実感がありました。
踊りたい、という気持ちには、簡単に言い表せない無量の思いが交差しているんだと思います。
音や言葉の響きや互いの発散するエネルギーに触れながら、時に緩やかに、時に強く、時にデリケートにそしてダイナミックに身を揺するなかで、その身はいつしかほぐれ、疲れを和らげ、血を通い直してゆく。そんななかで、余計な心配を捨てて踊りに専念してゆきながら、本当に大事にしている何かに触れ直すのでしょうか。
汗とともほころぶ表情が、こうした稽古の場に立ち合いレッスンを行える喜びを、じわりと感じさせてくれました。
ありがとう、また次回!