新作公演が一ヶ月後に近づいた。この時期、いつも感じることが「変化」。今回、それが大きい。
リハーサルから、自分自身の変化を思い知らされる。
がらんとした場所でひとり踊ると走馬灯のように時間が過ぎてゆく。
踊りながら、いつまで踊れるのか、と自問せずにいられない。
いま一瞬というものへの、妙な切実さが、いままでより身に迫る。
何を表現したい、というよりも、この身体が表現している何かを正確に受け止めなければと、思う。
作品とはそういうものなのか。
(ヴァーチャルな世界の氾濫を目の当たりにしながらリアリティというような視点から身体を捉えようとしていた時期があった。世の中の浮遊感とか不確かさに対して、では果たして自分とは確かなものなのか個体とは何か、というようなことをダンスを通じて考えてみたいという衝動があったんだと思う。あるいは、世界というものが捉え難く不確かにみえてしまうなかで、せめてこの身体くらいは確かなものであってほしいという願望もあったんだと思う。そして震災。あのあと、ただただ祈る気持ちで、ただ踊ることしかできない時間が経過した。ただ、、、としか言いようがない。何故と思う時も惜しく、ただ踊らずにいられない、そんな経過の4年。そのなかで、踊りが次第に変わってゆくのを感じながら、いまある。)
ダンス。
ダンスはダンス以上でもダンス以下でもない。ダンス、としか言いようのない時間と空間。
そこに秘められた不思議な力に対する興味が、世界なるものへの眼差しとどこかで重なり始めている。
人はなぜ踊るのか、人はなぜ踊りを視つめるのか。
人間の視野の中に人間が立つ。
カラダと視線と想像力が、闇と光りに絡まりあって踊りの場が生まれる。
空っぽの空間に立ち、思っては動き、動いては思う。
運動のなかで、言葉は消える。
言葉にならないものが、ふつふつと現れ始める。
意識、身体、ともに、常に、揺らいでいる。未知を孕んだ捉え難さ。
ゆらぎ。不確かさ。動。
それらこそ生の証では、と思うようになっている。
(身体を掌握し自分のものとして操るほかに、自分には理解し尽くせない何かとして関わってゆくこと。
この身体も、時にわからなくなる。自分を超えた自然の産物でもあるから。
わからない、それもいいのではないか。
そう思うと、カラダからこぼれる全てを味わうことが踊りの面白さになってゆく。)
カラダなるものに寄り添いながら、虚実皮膜の一線をふっと超えてゆく。
想像力と現実の境目を自在に行き来しながら、
まだ生まれていないものや遠く喪失したものへと思いを広げてゆく。
・・・・・・・・・・・・・・
身体の奥のほうにある不思議な炎。
意識や感覚の揺れ。
そんな体験の積層から生まれてきたダンスの一つが、今回発表する「サイレントシグナルズ」である。
シグナルは信号であり、兆しという意も含む。導火線という意もあるらしい。
身体から発される、静かなる信号、静かなる兆し、静かな導火線、、、。
自我に管理される以前の、言葉以前の呼び声。野性の声かもしれない。
雪の結晶がその独特のカタチを通じて何かを語りかけてくるように、
風や雷がその独特の運動で何かを語りかけてくるように、身体そのものもまた、、、。
人体、ミクロコスモス。
そこに渦巻く未解読の暗号のような運動や形態の戯れを、そのまま空間や時間に放出すること。
そんなことが出来ないかしら。
現れる、ひとつひとつの身振りに、一人一人の方が全く自由に想像を馳せていただければ幸い。
身を振るカラダそのものをただ眺めていただくのも、また幸い。
踊り手と視線ひとつひとつの間に密約される、様々な秘密の世界が広がってゆくといいなと思っている。
世界は未だ謎に満ちていて、新しい未知の到来を待ち望んでいるのだから。
※本作の衝動には、ヤコブ・ベーメ「シグナトゥラ・レルム」、シモーヌ・ヴェイユ「超自然的認識」この二著が関わっている。
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櫻井郁也ダンス公演ご案内
関連フェイスブック
※過去作の動画あり。
公演記録
次回公演の予定
リハーサルから、自分自身の変化を思い知らされる。
がらんとした場所でひとり踊ると走馬灯のように時間が過ぎてゆく。
踊りながら、いつまで踊れるのか、と自問せずにいられない。
いま一瞬というものへの、妙な切実さが、いままでより身に迫る。
何を表現したい、というよりも、この身体が表現している何かを正確に受け止めなければと、思う。
作品とはそういうものなのか。
(ヴァーチャルな世界の氾濫を目の当たりにしながらリアリティというような視点から身体を捉えようとしていた時期があった。世の中の浮遊感とか不確かさに対して、では果たして自分とは確かなものなのか個体とは何か、というようなことをダンスを通じて考えてみたいという衝動があったんだと思う。あるいは、世界というものが捉え難く不確かにみえてしまうなかで、せめてこの身体くらいは確かなものであってほしいという願望もあったんだと思う。そして震災。あのあと、ただただ祈る気持ちで、ただ踊ることしかできない時間が経過した。ただ、、、としか言いようがない。何故と思う時も惜しく、ただ踊らずにいられない、そんな経過の4年。そのなかで、踊りが次第に変わってゆくのを感じながら、いまある。)
ダンス。
ダンスはダンス以上でもダンス以下でもない。ダンス、としか言いようのない時間と空間。
そこに秘められた不思議な力に対する興味が、世界なるものへの眼差しとどこかで重なり始めている。
人はなぜ踊るのか、人はなぜ踊りを視つめるのか。
人間の視野の中に人間が立つ。
カラダと視線と想像力が、闇と光りに絡まりあって踊りの場が生まれる。
空っぽの空間に立ち、思っては動き、動いては思う。
運動のなかで、言葉は消える。
言葉にならないものが、ふつふつと現れ始める。
意識、身体、ともに、常に、揺らいでいる。未知を孕んだ捉え難さ。
ゆらぎ。不確かさ。動。
それらこそ生の証では、と思うようになっている。
(身体を掌握し自分のものとして操るほかに、自分には理解し尽くせない何かとして関わってゆくこと。
この身体も、時にわからなくなる。自分を超えた自然の産物でもあるから。
わからない、それもいいのではないか。
そう思うと、カラダからこぼれる全てを味わうことが踊りの面白さになってゆく。)
カラダなるものに寄り添いながら、虚実皮膜の一線をふっと超えてゆく。
想像力と現実の境目を自在に行き来しながら、
まだ生まれていないものや遠く喪失したものへと思いを広げてゆく。
・・・・・・・・・・・・・・
身体の奥のほうにある不思議な炎。
意識や感覚の揺れ。
そんな体験の積層から生まれてきたダンスの一つが、今回発表する「サイレントシグナルズ」である。
シグナルは信号であり、兆しという意も含む。導火線という意もあるらしい。
身体から発される、静かなる信号、静かなる兆し、静かな導火線、、、。
自我に管理される以前の、言葉以前の呼び声。野性の声かもしれない。
雪の結晶がその独特のカタチを通じて何かを語りかけてくるように、
風や雷がその独特の運動で何かを語りかけてくるように、身体そのものもまた、、、。
人体、ミクロコスモス。
そこに渦巻く未解読の暗号のような運動や形態の戯れを、そのまま空間や時間に放出すること。
そんなことが出来ないかしら。
現れる、ひとつひとつの身振りに、一人一人の方が全く自由に想像を馳せていただければ幸い。
身を振るカラダそのものをただ眺めていただくのも、また幸い。
踊り手と視線ひとつひとつの間に密約される、様々な秘密の世界が広がってゆくといいなと思っている。
世界は未だ謎に満ちていて、新しい未知の到来を待ち望んでいるのだから。
※本作の衝動には、ヤコブ・ベーメ「シグナトゥラ・レルム」、シモーヌ・ヴェイユ「超自然的認識」この二著が関わっている。
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