

何かと結びついては切り離され、切り離された途端に別の何かに結びついている。
そんな想念が膨らんでゆくキッカケになったのは数年前に上演した『器官なき身体:phase 1』(写真)という舞台だった。
タイトルからお察しの通りフランスの俳優・詩人・演出家アントナン・アルトーが遺した謎の言葉を巡ってダンスを試みた。
二度目だった。一度目は静岡での公演で「神経の秤」を踊った。オイリュトミーという、ダンスというよりは一種の呼吸的なムーブメンツ(詳細いずれ)をかなり用いたが、これは言葉に対するアプローチだったから、僕自身の感じていたアルトーへの感情関係は、イマイチだった。それで2作目を試みた。
もとよりマラー役の演技から息をのみラジオドラマの声に親近感をおぼえるほどの震えがきたわけで、彼のアタマや考えに魅了されたわけではなかった。
から、もっと彼の肉に近いものから何かを読み取りたいという気持ちが長年溜まっていった。
僕の場合は、人の言葉も好きだが、それよりも、その言葉を遺した人そのものへの接近・欲望・渇仰が身を揺するほうだ。
ヨゼフ・ボイスでも声のパフォーマンスからは触発されるものが多かった。
アルトーの場合は、しかしその声はすべてではなく、その向こうに、もっともっと無数の発されざる言葉があるように思った。
発されざる言葉に、興味は移動した。が、そこは未だ耳を傾け続けるのみだ。
言葉も好きだが、もっと好きなのは風貌とか佇まいだ。
オドリには、たとえばそういうものも含めた、意味合いとか考えとか思いとか以前の、即物的な力が宿ることがあるように思えてならない。
翻弄されるように踊りエネルギーを出し尽くしてゆくなかで、言葉あるゆえの切断や距離や壁を叩き壊したくなるような深い深い感覚に襲われ、やがてカラダが呼吸や鼓動の輪郭を露わにしてゆく。そんな感じが、この作品あたりから始まっていった気がする。
当時の経過は、もちろん今回の新作に通じている。
------------ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
10/29〜30上演!
櫻井郁也ダンスソロ新作公演『緑ノ声、ヲ』SAKURAI Ikuya Dance Solo ”Voice of Green” 2016.29〜30.Oct.・公式HOME PAGE
※席数に限りがありますので、お早めにお申し込み下さい。

参考:作品歴、ご感想リンクなど