Re: 言葉 投稿者:k 投稿日:2013年 4月16日(火)07時05分37秒 返信・引用
うさぎさんへ
> kさんへ 私なりの信念を表現したかったために、きつい言葉になってしまいました。すみません。気にされないしょうにしてください。
了解致しました。
これからもよろしくお願い致します。
投稿からどのような反射(reflection)を感じるかは、私自身の内省(reflection)に依存しているところも大きいと思います。度量の小さい人間の邪推ですのでうさぎさんのほうもお気になさらないでください。
>この掲示板でもkさんの意見を楽しみにしている人が多いと思います。
もしそうならば有り難いことです。
練拳仲間に「読んでください」と言ったところ「そのうちね」(練拳仲間のMさん談)ということでした(^_^;)。
Re: 生活の一部 投稿者:k 投稿日:2013年 4月16日(火)19時00分47秒 返信・引用 編集済
土佐の光龍さんへ
> 私にとっては、生活の一部に成っているので、止めることは出来ません。逆に練功しなければ、気持ち悪い
> ので。有る意味、一種の中毒かもしれません。 頑張ってみます。
戴家拳の動作はある意味「非日常的な動作」だと思います。
その為アクセントをつけると言う意味でも、日常の一部として組み込みやすいのではないでしょうか。
私も戴家拳は 生活に馴染むと言うか、生活との親和性は高い と思っています。その反面、組織に馴染まないと言うか、組織との親和性は低い ような気がしています。(組織が不要だと言う意味ではありません)
戴家が存続していた時代も現代と同様、あるいはそれ以上に不安定な世の中だったのではないかと想像できます。(私が感覚的に理解しているとは思えませんが)
戴氏の道教は一族にその目的である不老不死をもたらすことが出来ませんでした。戴家の人々はある種の諦観と共にこの事実を受け入れていったのではないでしょうか。
その上で、実の息子に 生きている限りこの拳を練り続けていってもらいたい と言う親としての熱い想いを込めて拳を伝えようとしたのではないでしょうか。
自分の死後、おそらく命の保証もない過酷な世の中を生きていかなくてはならない実の息子に、戴家拳の練拳を通して親として伝えたかったことに関する私見ははいずれ投稿したいと思っていますが、その時土佐の光龍さんもご自身の練拳体験に照らして「そんなこともあるかもしれない」と感じていただけなら有り難いです。
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