本日から行われている「即位の礼」。
あいにくの雨模様になってしまったけど、なにやらそれを祝うかのように皇居に虹がかかったとか。
つぶやき情報だからそれは定かではないんですが笑。
時代を昭和~平成~令和とわたってきたわたしですが、こうして「時代の儀式」というものを感じたのははじめてかもしれません。
パレードは災害の被害に合った人を・・・ということで延期という形になったものの、「お金」という観点でみてしまうと、予算をかけてまでする必要のあるものなのかどうかと、きっと思う人もいらしゃるのではないのかなと思うのです。
しかし「儀式」というものは、日本だけでなく、たぶん、人間だけでもなく、何かトクベツなことがあるとき、何かしらの「儀式」というものを行っていると思います。
それは「カタチ」ではなく、きちんと「意味」があり、そこに「敬意」や生きとし生けるものとしての「感謝」に似たようなものがあるからではないのかなと思います。
赤ちゃんが産まれてから1年間に行われる、いろいろな「儀式」。
たった1度だけなのに、まだその子は理解できるものでもないのに、最初の1年は人が成長するうえで、いちばん成長がある、その証を乗り越えることができたことに「おめでと!」だけど、きっと大昔はその1年を乗り越えるのが本当に大変だったことから「儀式」として、いまもまだ残りつづけているような気がします。
それから七五三のお祝い、成人式と、子孫を残せる身体と経済力、知性や感性などを備えられるようにと、いろんな「願掛け」もそこには含まれています。
お着物や髪型、お飾りや小物、お食事なども、そこには何かの「意味」があって、お遊びパーティーをするためではなくて、その「儀式」をたくさんの人で囲み合い、お祝いをしたり、「平和」というものを感じるためのかもしれないと思います。
本日が、令和元年(2019年)だけの祝日というのは、それだけ何か特別なことが行われているからこそ、ふつーに暮らして、ただのお休みになっているような感じでも、何かひとつ、その時代に合わせて「じぶんオンリーの儀式」をしてみるのはいかがですかね。
ポイントは、ご褒美的なモノと購入したとしても、ふつーに購入しているものとはちがう取扱い方をしてみましょう。
ご馳走をつくったとしても、ちょっと高めのシャンパンに、TVをつけずに音楽をかけて、その一つ一つを今日選んでみるんです。
これを「ひとり」でやってしまうと、ちょっとさむっ!と感じてしまうこともあるかもしれませんが、それなら、隅から隅までそうじでもするのはいかがですか?
「儀式」というものを行うときは、そこの「空気」というものを整えて、清めて、気持ち良い空間にして、それを行うじぶん自身の「心」というものに「儀式」を埋め込むようなものかと思うんです。
本日行われているのは、国代表になる、日本の顔にもなる人の、この日をふつーのお休みとして過ごしてしまうわたしなんかにはわからない、大きな大きなものを継承する「儀式」なわけで、本当に同じ時間にそれが行われていると思うと・・・ちょっと考えてしまいます。
なんとなく過ごしてしまう毎日でも、小さな「儀式」をしてたりしませんか?その「儀式」を決めた日のこと、それを続けていることなどを思い出したりしてみてください。毎日していると「意味」を忘れて、なんとなくになってたりしますからね。
いろいろ、いろいろあってるんですが、落ち込んでは行動して、むしゃくしゃしてはぼ~として、いろいろしてもゴールが見えなくて、何もしてなくてもおなかは減って、それでもしないといけないのが日々の生活のこと。
身支度して、そうじして、洗濯して、片付けして、ごはんをつくって、補充して、そこになぜか、季節のことを考えたり、「美」やきれいやかわいいやら、じぶんの理想の生活ってなんだろう?なんてことも考えたり、だけど、そこが充実していると、じぶんの人生も、なんかよくわからないけど、充実してるような気になるから、おもしろい。
インテリアに凝ることが好きだけど、片付けが苦手。
俗にいう「ナチュラルライフ」的な感じが好きだけど、到底、届かいないような気もする。
だけど、やっとなのかな。
買い物するとき、必ず「これ好き!」というものだけを買うようになってから、「これ本当に必要?」という問いかけをするようになってから、だんだん<好き>だけが部屋に集まってきて、なんかゴチャゴチャしちゃうときもあるんだけど、心地よくなってきてね笑。
いまのこの部屋に引っ越してきたとき、持っている本棚に並べきれない本があって、これまた購入してしまうから、古いモノや今は読まないものは、そのまま段ボールに入れっぱなしにしてました。・・・そう、もう更新を数回してるんだけど、部屋の角に段ボール。
だから、ぜんぶ、平置きにして出してみたんです。
本や雑誌は、何度も何度も、捨てては購入してをくりかえしているけど、やっぱり後悔するものがある。とくに雑誌なんかは、片付けをするたびに「アレはなんで捨ててしまったんだろう」と嘆いてしまう。。。だからといって、本棚を増やすわけにはいかないし。
昨日、どうしても部屋のある場所が気になって、片づけようと、いろいろとモノを取り揃えて、ひとまず、落ちつくようにしてみたんです。
そしたら今度は、その平置きの本たちが気になって、こちらもひとまず、ホコリだけでもとそうじをはじめたら、あら、ふしぎ!
ひらめいたんです。
本棚のセレクトをすこし替えようと。
それは取っておきたい本たちだけど、いまは目につくところになくてもいいかなって、閉まっていた本が目に入る方がしっくりするなって、思ったんです。
Mastなモノはもちろん、そのままなんだけど、並び方や置く場所、平置きだったモノがタテにきちんとしただけで、なんでこんなに気持ちよくなるのかな。
選手交代した本や平置きホコリまみれを空いてた場所に閉まったんだけど、これもまた、段ボール生活していた本とはちがって、Mastのモノともちがう、別なトクベツ感がうまれて、じぶんの新しい本棚の使い方をみつけた感じがしました。
よくわからないけど、専門誌と教本だけは、絶対に捨てないに分類されていて、楽譜は残していくものになっています。
体調を整えるのと、時間がたっぷりあるということで、長年あこがれてた「香りのある生活」というのに挑戦中です。
友人セラピストのおかげもあって、知識だけでなく、実感として体感したときがあって、もうそれからは、自然の香りにはトリコになってします。
しかしながら「精油」というものは、実に多方面の作用や使い方、モノもちゃんとしたものを選ばないといけない。
なぜならば「精油」というものは、「香りの成分」の<鼻から脳の反応>だけでなく、<口から呼吸器>、<皮膚から血液・体液>、そして空間に香りが消えてからもその「香りの成分」が残っているといいます。
ずっと前にちょっと書いたこと(→ここ)があるんですが、「香り」というモノは「天然(自然)なモノ」と「合成のモノ」があります。
しかし、その合成のモノの元々は、天然のモノの中にある「香りの成分」とおなじカタチのものを作ったもので、どうしても希少価値のモノや大人気の香り、いろんなものにプラスαする香りは、どうしても「合成のモノ」を使いがちだそうです。
先日、自宅で使う「精油」を購入しようと専門店へ行ってきたんです。
教本や専門誌を読んで見よう見マネなんだけど、やっぱりわからないことが多くて、売場に行くと「小さな茶色の小瓶に入っているモノ」は、イコール「精油」と思ってしまい、香りがよかったりして、初心者でも使いやすいといういくつかの精油がブレンドされている「アロマオイル」を購入したんです。
しかし、よくよく調べてみると、店員さんの言葉を思い出してみると・・・
【精油】
100%植物由来、植物がじぶんを守るため・生きるためにつくっている排出物・フェロモン、虫の忌避剤などになる<香りの物質>を「葉」「花弁」「根」などから取り出し、集めたもの。
成分表がしっかりついて、産地や栽培方法、オーガニック認証マークがあったり、同じ名称でもカッコにいろんな成分名が書いてあてあるものなど。
【アロマオイル】
植物に由来する天然香料・精油や合成香料を植物油、アルコール、鉱物油などで希釈したもの。
どちらにしても「油」であって、使い方や希釈方法だったり、「香り」はひとつの成分で成り立っているわけではなくて、100種類前後の成分が集まって、その特有な香りや作用が生まれるらしいんです。
だから「アロマオイル」というものは、<香りに特化>したものだから、希少価値のある香りが欲しいなというと、その香りを出している成分をほかの大量生産できるモノからその成分だけを抽出して作ってしまって、「精油の効果効能」を期待することができない。
だから、イコール「皮膚には使わないでね」「保証できません」というのかもしれません。
しかし・・・「精油」は<鼻から脳>への刺激はすごく大きくて、最近は化学物質過敏症といわれる「香害」というものもあるわけで、どうなのかとちょっと考えてしまいます。
もともと、わたしは、柔軟剤も洗剤も「無香料派」なので、好む人たちの気持ちはよくわからないんだけど、「アロマオイルなら大丈夫かな」って、売場でやっぱり思ってしまいました。
すこしカジっている程度では、よくわかないことだらけです。
ただ、「精油」にも「子ども・妊婦に使わないこと」「原液使用×」「精油の合わせ方」などなど注意事項も多くて、濃度も濃いような気もちゃうし、揮発性もあるし、油には溶けるけど水には溶けないから、使い方はいちいち確認しないといけません。
友人セラピストから教えてもらっているモノは、「部屋の空気を浄化するもの」として販売してる化粧品製品だけど、アルコールも精油も100%自然由来のモノで、とても安心して使わせてもらっています。
化粧品だから、ほんとの使用方法ではないけど、ちゃんとして100%の精油だから、きちんとアロマテラピー(*1)効果は期待できる、うれしい賜物であります。
(*1=香りの作用を治療やヘルス&メンタルケアに応用した療法)
いま、ナチュラル洗剤とかも人気があって、手軽にいろんなところで購入できるけど、こっちもまたちゃんと知らないと、わからないことだかけです。
花や木・土の香りはもちろんだけど、カレーやラーメン・パンの香りも癒され、元気のモトになります!
一時は梅雨明けしちゃうのかと焦ってしまったものだけど、いまとなっては、今年は梅雨明けしないんでないかというくらいになってしまってますね。
日照不足というのは、どうしても憂鬱な気分になってしまいます。
なんかイライラしたり、よくわからないけど、すごく小さなことにイラッとしたり・・・、ま、わたしの場合は、最近「イラッと沸点」がギリギリ生活をしているので、じぶんでも驚くようなことを発していることがあり、少々困ってもおります笑。
イライラして、暴食して、カラダに悪いと思いながらもカップ麺やポテチを大量買いをして、そのまま胃袋の中へ。
もともと胃は大きくないんだけど、動けなくともわかりながらも、食べることでなんとかそのイライラをどうにかしようと、しかしこれこそが、イライラのスパイラルに陥ることなんだと、やっとわかってきたのに、やめられない、この人間の未熟さがイヤになります。
気を取り直して、背伸びをしない程度に、作り過ぎ注意を胸に刻みながら、料理をする材料を調達してきました。
「野菜不足になる」というニュースを目にするけど、スーパーへ行けば、ちゃんと置いてある「夏野菜」。
赤や黄色、緑やオレンジ、ビタミンやカロチンがたっぷり入っているモノがたくさん出揃うから、目だけでも楽しめるし、ちょっとした気分転換になります。
家にあるものを想像しながら、しかし、作り過ぎは食べ続けないといけないという、これまた食材も台無しにしかねないことにもなるから、どうしようかなと、ウロウロと、作りおきのこともまた考えながら、「焼き野菜」を作ることにしたんです。
そうめんや冷たいうどん、薬味やしょうがはもちろんだけど、どうしても野菜不足になりがち。
火を通すと、栄養価もぎゅっとするっていうでしょ?笑
しかも、ちょっとお酢に浸せば、ピクルスもどきにもなる。
夏に酢の物が食べたくなる、冷やし中華が恋しくなるのは、やっぱりカラダが欲しているものだから。
それに、なぜか「暑い」と言いながらも食べてしまうのがスパイスたっぷりのカレー。
コトコト煮るのがいいのは知ってるけど、食べる前から汗だくだくになってしまうから、なんならカンタンにルーだけ溶いちゃうとか、レトルトを温めてとか、そこに「焼き野菜」を添えれば、ちょっと豪華なものに大変身。
フライパンでもいいし、グリルでも、オーブン使って一気に焼いてしまうのもいいと思います。
ダルダルな季節、低気圧で体調不良になったり、このジト~とした空気とおなじようにならないように、食事でスイッチを入れてみてください。
食事は取り過ぎも、取らな過ぎも、イイことは何もありません。お肌も曲がり角。数日前に暴食して後悔のわたしからの反省でした。
東京にいるとなかなか感じることがないんだけど、ニュースを見ているとあり得ない大きな震災が多くなってきて、交通事故もこどもの被害が多いし、渋谷ではあり得ないモノが出現したり、警察官の人、自衛官の人、そして現場でさまざまな処理をする人、その後調査をする人がほんとうに大変な世の中になっているなって感じます。
落ち着いてきたけど、まだまだ本調子ではないのでプチ監禁中だし、ドジばっかりしているから少しだけ警察の人にお世話になったりしたんだけど・・・むずかしいんだなっていろいろと、イライラもするんだろうなって思います。
あるイベントで知り合った元教師の大学生さんと「100やりたいことリスト」というものをふたりで書き上げたことがありました。
ケーキ食べながらお茶飲みながら、店員さんに「・・・すみません」と言われるまで。
あり得ないようなことを「いいよ!書いちゃえば♪」というようなことまで、大きすぎる夢ややりたいこと、会いたい人などを書きあげたんです。
そのイベントで会った人たちと「なにか仕事をする」はふたりで一緒に書きました。
その後、元教師学生さんは、半年後くらいにはその一つを達成していて、お祝いができなかったことがちょっと残念でした。
「100やりたいことリスト」を書いたことはすごくよかったけど、当時のわたしにとっては、まだまだ筋肉不足で途中で萎えてしまったんですが、一緒にそうゆうことを書いたことの中で、いまでも覚えていることは「達成めざし中!」なんです。
ま、あとはね、「最後までハサミを持ちづつける」という必ず「未達成」という項目も入れていたので、ある意味ずっとそのイメージになるまで取り組み続けることができるんです。
この半年ばかりのわたし自身も、ほんとにあり得ないことがたくさんありすぎたのですが、不足していた筋肉は鍛えてきたので、そこまでボロボロにはならずにすんでいます。
ただ、40歳手前、ムリはできなくなっているのは確かです笑。
人生おわりまで「命のたいせつさ」について、A4用紙100枚のレポートを書く。途中経過をいろんな後輩に伝えること。もしかしたら、にんげん様の最大の宿題なのかな。
昨日、先延ばしにしていた検査をしに、産婦人科へ行ってきました。
どんなに知識があっても、なんとなくじぶんでも大丈夫だと思っていても、やはり信頼できて何でも話せる先生と看護師さんに診てもらって、おちつくことができた気がします。
これは、ちょっとふだんから思っていたことなんですが、なぜ最近の子は「抱っこ紐」で赤ちゃんを抱くようになったんでしょう?
たしかにお母さんはカラダに負担がないような、ラクなようなモノには見えるけど、赤ちゃんが寝ている姿を見ていると、あれでリラックスできているのか?と疑問を思ってしまうんです。
むかし、友人が言っていました。
「わたし、赤ちゃんはおんぶ紐で育てるんだ。赤ちゃんはお母さんの背中から愛情をもらって感じて育つってお母さんが言ってた!」
そんなことを聞いたことがあるので、どうしても「抱っこ紐」が流行っている意味を探したくなっちゃうんです。
そして、じぶんで子育てするとき、果たしてそれを使うか?と街で見かけるお母さん先輩がたを見て観察してしまいます。
わたしは思うんです。
最近の赤ちゃんグッズはお母さん都合で、お母さんがスマホを見るためにできているんじゃないのかなって。
赤ちゃんは、言葉を話すことができないから。
目を見て、顔見て、肌の色を見て、目の先を見て、ちゃんと観察しないと何もわからないと思うんです。
イタイ思いして産んだんだから、いちばんキラキラしている天使の時間をずっと見ていた方が幸せなんじゃないのかなって、いちばんたくさん変化のある、いろんなはじめてがある瞬間がたくさんあるんだから、見逃していいのかな?
あとね、背中で育てるのは、ずっと水の中でプカプカ浮いてたからこそ、地面の硬さとお母さんが感じているの外の世界の音をしっかり届けるためなような気もします。
そして、お母さんと一緒にいるたいせつな人たちの顔をちょっとずつ見せるためなんじゃないのかな?
ま、たしかにむかしじぶんたちがおんぶされてたであろうモノは、恥ずかしい感じもするけど、妹や弟をおんぶしていた母をみてたとき、「赤ちゃんをおんぶするのは大変だな」と「すごい技をつかってる!」と感じていたような気もするし、もっと安らんだ寝顔をしてたような気もするんです。
母もベビーカーを使っていたけど、ほぼ荷物置きで、疲れたときと本当にぐっすりと寝ちゃったときとかに使って、いつも母は妹と弟の顔を見て「ママだよ」「こっちがパパ、ネネだよ」と家族のことを紹介しながら、笑い顔にさせてました。
ちょっとまだ先になっちゃう気もしますが、お母さん先輩の子育てには興味津々です。
週明けはいよいよ、新しい年号が発表される。
「平成」になったときは、年明けすぐで「コレになります!」って発表されて、「あ、そうなんだ」ぐらいにしかなかったけど、なんか今回はソワソワ、ワクワク、いろいろ考察されるんだなって気になってます。
じぶんというと、2018年から何もすすんでいない・・・かなしくなります。
それはさておき、そんな時期になる新入生や新卒生、新しい職場になる人、役職になる人。
きっとさまざまな気持ちを抱いて、4月1日を迎えようとしているかと思います。
(エイプリルフールのネタを考えている人も笑!?)
新しい年号になることだし、新しい年度だし、新しい人の周りでも、いつもとおなじメンバーでも、ちょっと違う目線で見てみませんか?
わたしは【おカネ=仕事】という考え方を一切持っていません。
おカネが発生しないような事柄でも、人にとってじぶんができることをしたいって思ってしまいます。
そこに、こだわりを持っています。
だからこそ、美容師になったとき「おカネを稼ぐ意味」「おカネを落とす意味」に向き合いました。
アシスタント時代は、どうしてもスタイリストに合わせての仕事になるので、ほぼバイトと同じような、それこそ「雇われ仕事」の感覚です。
しかし、スタイリストになると「じぶんの腕(技術)」におカネが支払われるようになります。
どうすれば、選んでもらえるようになるのか?
なので、まずは反対のことをするようにしました。
なぜならば、「だれでもいい」と思っている人ではなく「わたしに切ってほしい」と選んでもらいたいから。
ちゃんと【価値】みたいなのを感じてほしいなって思ったからです。
まずは、洋服屋さん。
どこにでもあるようなお店でも「この人に選んでほしいな」と、「あの子に会いたいから行こかな」と
そんな風にお店選びをします。
もちろん、好みの洋服屋さんを選ぶけどね。
そして、ちゃんと「あの子の売上になるように」と思いながら、洋服を買うんです。
そうすると、少ない金額でもちょっと、気分良く、買い物もうれしくなります。
「また来るね」と言って、最近はあまりにもビンボーなんで、会いに行くだけになり、みじめになって行けなくなってます。
ちっちゃなコンビニでもスーパーでも、毎日通うファストフードでも「ヒト」を見るようになって
若いアルバイトが一所懸命はたらしていると、密かに応援しちゃっています。
格好いい男の子がいると、すこし緊張してワザとレジに並んで、イヤなおばさんがいると避けちゃったり笑。
すると、どんなにビンボー人でも、富裕層気分でおカネが使えるようになります。
本当におカネが使えるときになると、エラそうにならずにスマートに使えて
いざ、高級店に行っても、あんまビクビクしないようになるような気がします。
もちろん、そのモノの価値がわかっておカネが出せてるともっと気分がいいです!
いま、スーパーでは季節関係なくさまざまな食材が手に入るようになりました。
けど、小さなお店やすこし高級なお店に行くと「今が旬☆」という、いろんな種類の食材を目にするようにもなりました。
「寒い⇒暖かい」は、カラダにとても負担がかかります。
反対に「暖かい⇒寒い」に変わるときもそうなんですけどね。
春から夏は、あたたかくと暑いが交互に、途中で蒸し暑いもあったりして、カラダが慣れていきやすいんです。
秋から冬も、すずしいと寒い、途中に北風がやってきたりして、徐々におしゃれなアイテムをプラスしていって、自然と気を付けてカラダをあたためることしていくんです。
けどね、冬から春や夏から秋は、なんとなく「あれ?この時期何着てたかな?」とか「寒いけど春服着ちゃう?」とか、「すっごく暑い時に秋色のノースリとか売っててかわいい!」とかね。
そうしても、バーゲンやセールは前倒し、雑誌も1つ前の季節のモノが出てるから、どうしても季節を前に感じたくなったり、その方が流行に乗ってる感じがしてしまいます。
ただね、カラダはちゃんといまの季節とおなじでいたいんですよ。
季節の変わり目に、よく体調を崩したりしませんか?
肌の調子が悪くなっりもしませんか?
インフルエンザやノロが流行するのも、季節の変わり目にカラダがついて行きにくいんです。
だからね、少しだけ、カラダに大切な「あたためること」に注意してみてください。
ちょっと調子が悪くなったなって思ったら、湯船にしっかり入る。
暑くなったら、すずしい格好にする。
あとね、季節のモノを食事に取り入れるといいらしいです。
わたしはこの季節は必ず、菜の花を食べるようにしています。
ちょっと苦いけど、カラダに「春が来るよ~」って教えてあげると、スイッチが入るらしいです。
あとは、フキノトウやタラの芽、フキなどなど。
子供のころは少しイヤだなって思うような野菜だったりするけど、大人になるとどうしても免疫力が下がって、季節に順応しにくくなるけど、その苦いのがなぜかほしくなる。
クセがあるのが、好きになるんですよね。
お浸しにしたり、パスタにしたり、ポテトサラダに入れるとお子さんも少し食べれるかな?
初物、新物の食べ物は、何かひとつ食べとくと、縁起担ぎにもなります。
私はものごころつく前から、親の影響でとある宗教の信仰をしていて、それが当たり前にあって、すこし反発心もありました。
けど、ものの考え方やそこで教えてもらったこと、出会った人たちのこと、思い出はたくさんあります。
名前もそこでいただいたもの。
小学1年生のとき、じぶんの名前の由来を調べてきなさいという課題で、じぶんはほかの人と少し違うんだと思ったことを覚えています。
みんなは親が色んな思いを込めてつけてもらっているけど、わたしはそこでつけてもらったものだから、漢字の意味だけ調べて提出しました。
なぜいま、こんなことを思うかというと、こうゆうピンチのとき、寄り添って支えてくれるのがそこの人たちの存在。
そして、20数年ぶりに訪れてみると、音楽や合気道が好きなのも、ここで感じてた「人と息を合わせる」「音を合わせる」「自分を律する」みたいなことがたくさん詰まっていたからなんだなって思いました。
あとは「感謝をすること」。
おばあちゃんやおじいちゃんがいて、親がいて、そしてじぶんがいることの感謝。
苦しいことがあっても、ちゃんと学ぶことがあって、また人にやさしくなれることへの感謝。
わたしは、けっして信仰心の熱い人間ではありません。
学生時代、親戚のおねえちゃんたちにあこがれて、はじめた音楽活動を通して、そこの教えを学んでいました。
練習がメインだけど、そこの信仰の中にいたから自然とそう思える自分がいたし、そこの人たちが大好きだったから活動にも参加していました。
けど、すこしイヤだったんです。
じぶんの弱いところを告白して、注意をされてるのが。
大人の人たちが言ってることとは、ただの慰め合いにしか思えなかったから。
それで、離れたんです。
けどね、そこで教えてもらったことは、正しいことだなって思ってたから、じぶんなりに解釈をずっと考えて生活してきました。
歌を習って、ダンスも少し、仕事を通して、美容師の修業もして、独立も目指して、1回すべてをなくして、イチからはじめて、わたしはブレないじぶんにならないといけないって思って合気道をはじめて、やっと自信を持つことができました。
そして、ある人に会って、強くなったんです。
ちゃんと人に合わすこと、人を責めるのではなく、じぶんを大切にしながら人をたいせつに想うこと。
そして、人のためにチカラになるってこと。
わたしはじぶんが人のために何かをしたいって気持ちがすごく大きくて、それを押し付けてしまってました。
仕事については、じぶんの方が見える範囲が広くて、問題点もすぐ見つけることができてしまうから、できていない人に対してイライラしちゃうけど、それを表現することはそこにいる人たちに失礼になってしまう。
モチベーションを下げること、プレッシャーになってその人が自分のチカラを発揮できなくなってしまうって。
だから、組織の中ではたらくときは、よく観察してそこの空気をこわさないように、じぶんをなじませて動くようにしています。
たくさんの信仰のある世の中。
「祈ること」は、みな一緒だと思います。
すこしあやしいと言われるような世界でもありますが、人なら皆持っているんです。
だってね、初詣やこの時期だと合格祈願とかするでしょ?
神頼みだっておなじこと。
大切な人のことを祈るのは当たり前のこと。
ただね、まずはじぶんが生きていることに感謝して、世界中の人たちがしあわせになりますようにって。
戦争のない世の中になりますようにって。
大昔の人は「生きること=食べること」だったから、お天道様や水や土に神様が宿っているって、嵐がくれば地震があれば「祟りだ!」って言って、それをなぐさめるように「祈る」ってことをきっとしてたんだと思います。
お祭りごとは「わたしたちに恵みをありがとう」って、ありがとうとたのしいことをすることにつながっていると思います。
私は、そこの活動を広めていこうってことは、たぶんこの先もないと思うけど、ただね、先祖を敬ったり感謝することは、ずっとずっとしていくことかなって思いました。
トラブル抱えて、このことを恨みたい気持ちでいっぱいだけど、関わっている人が不幸にならないように、きっと何かに気づけるチャンスにつながっている、くじけそうな気持でいっぱいだけど、そう祈っています。
相田みつをの日めくりカレンダー。
毎日めくって、たまにめくり忘れては、けど必ず読んで、覚えることはしない。
内容は覚えているけど、見るたびに自分に問いかける。
「きみ、ちゃんとこのことを本当に思っているかい?」
「もう一度思い出しなさい!」
「このように生きていますか?」
こうやって日めくりカレンダーを見ることにしています。
もう彼此、20年くらい使ってるから買い換えようかなって思ったんだけど、もうふつーのお店には売ってなくて、そのままずっと使っています。
本日11日は・・・・
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あの人
あの人がゆくんじゃ わたしはゆかない
あの人がゆくなら わたしもゆく
あの人 あの人
わたしはどっちのあの人か?
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わたしが「あの人」を思うとき、最初のあの人は<絶対嫌いな人><世の中見ていて嫌いな人><反面教師の人>を
2つめのあの人は<尊敬している人><キライになったけど尊敬した人><あこがれの人>を思い浮かべる。
そして自分は、どっちの「あの人」になっているか。
最初のあの人でなっていないかを振り返ります。
なるべく人から2つ目のあの人でいれるように、あれるように、日々ちゃんと振り返ります。
人は弱いから、気をゆるめるとどっちにでもなる。だから毎日振り返る。どっちのジブン?