ココロ散歩道

心理士の何気ない日記です 
sakurajuku-takanohara.jimdosite.com

こころの仕事

2013-07-18 23:11:44 | インポート

カウンセラーと仕事に憧れ、それなりに努力して、仕事についた。

 

結婚して子どもを授かり、いろいろな苦労があって結局、家庭を選んだ。

 

その子どもたちも、小学生、幼稚園と片付き、

 

母親としての生活が生活の100%を占めるような生活からは、少し脱しつつあり、

 

そして近い将来やってくるであろう、母親という職業がまがりなりにも一段落ついてしまう時期のことなどにも、少し考えが及んだりして、

 

また自分自身と向き合わされる時間が生まれてきた。

 

 

子どもを生んだころは、子どもをみることで100%、

 

実家のない私は預けることも知らず、24時間365日営業でやってきた。

 

その頃は、子どもが大きくなったら、

 

私は仕事に戻りたい、と漠然と考えていた。

 

 

しかし、子どもを流産したり、実母を亡くしたり、友人を亡くしたりと、

 

おそらくは誰もが経験するであろう人生の悲しみに出会うにつれ、

 

私の感受性はやわらかく感じやすく、もろく弱くなっていったように思う。

 

 

カウンセラーというのは人の話を聞くのが仕事なのに、

 

そういう苦しい話が聞けなくなってきた自分に薄々気づいていた。

 

自分が巻き込まれすぎる。

 

だから、もうあんな仕事はできないな、とぼんやり思っていたのが、

 

近頃の自分と向き合ってしまう時間には、はっきりと

 

「もうあんな仕事はできない」と思えてきて、

 

そしたら急に、あの仕事がしたいとたくさんの努力と時間を割いてきたものが

 

壊れていくような気がして、鬱々としてしまった。

 

そしてそこからは悪循環で、鬱々とすればするほど、仕事に対する自信がなくなり、

 

もう無理だ

 

と思えてしまい、情けなく、やるせなくなってしまった。

 

 

そんな苦しい時間が、波がありながらも2ヶ月続いたが、

 

それでもその仕事を捨て切れなかったようだ。

 

気がつけば専門書を手にとり、援助者としての効果的なあり方を考えている。

 

自分が救われたかったのもあったけど、

 

それでもしがみついている自分。

 

 

苦しい中で見つけたのは、ひとつの答え。

 

カウンセラーというのは、自分のなかに他人の苦悩を引き受けてしまうところが多々あるが、

 

(そしてそれはとてもクライエントさんには有効な癒しとなることも多いのだが)

 

大人として母として、十数年経験してきたことからも、

 

自己犠牲的なやり方の割合が多いほど、カウンセラーとしては先細りになってしまうということ。

 

傾聴技法というのは、カウンセラー自身に苦悩を取り込んでしまう危険性が大変高い。

 

傾聴には大変な忍耐が必要で、それは修練すればつくと思っていたけれど、

 

お金もなく(心理畑で働く人は本当に薄給。コンビニで働くほうがマシなこともある)

 

研修もいけず、スーパーバイズしてくれる師匠もいない、地方のいちカウンセラーには、

 

自己修練も難しく、そのなかでの傾聴技法というのは悪魔の技法のように恐ろしいものに思えてくるのだ。

 

 

そこで私が出した答えがひとつ。

 

心が関与しない技法はないのか?

 

ということ。関与の割合が少ない技法である。

 

傾聴は関与しまくりな技法で、ちゃんと聴けてしまうとこちらの具合が悪くなるような技法であり、私としては基本、導入のスタンスとして持つ以上のものではもはやないと思っている。

 

導入して信頼を獲得した後であれば、クライエントにも評判の悪い(これが結構悪いんです)「傾聴」はやめにして、こちらの心のあまり関与しない技法でかかわっていくのはどうか。

 

私は特に、自身の弱さについてよくわかっているし、心がけなくても相手の感情をよく感じることが生まれながらの性であるように思っているので、

 

それだけにできるだけ心が関与しないタイプの技法に頼りたいと思うのだ。

 

今、よく読んでいる専門書、

 

それが「認知行動療法」と、「ゲシュタルト療法」「交流分析」

 

である。「エンカウンターグループ」も、スクールカウンセラー時代は大変役にたった。

 

それと、これはまだ不勉強ではあるけれど、身体に働きかける技法にも大変興味を持っている。

 

 

と、こんな風に考えていくと、少し不安が軽くなったように思った。

 

心が関与する技法は、それだけで一方を破壊してしまう危うさを持ったものだ。

 

だから人並みに大切な家族を持ち社会生活を送る私にとっての、究極の技法は、担当が替わってもそれなりのセラピーができてしまうような技法である。

 

それがたとえほとんど不可能に近いことであっても、それを目指すことは悪いことだとは思わないし、人を援助したいと考えるこころある援助専門職が息長く支援を続けていくために、ぜひ必要なことだと思うのだ。

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せみ

2013-07-16 09:33:56 | インポート

蝉が鳴いている。

 

くまぜみ。子どもの頃を思い出す。

 

近くの天神さんに、蝉取りに行った。

 

兄についてった。上の兄もいた。

 

みんなでくすのきを見上げて、あそこだここだといいながら、

 

虫かごを真っ黒にするほど取った。

 

虫をあつめた、むせ返るような虫のにおい。

 

 

蝉の声は変わらない。

 

もう30年近くたつのか。

 

母はもういない。

 

兄たちも大人になって、一家の主だ。

 

私もまた、子どもの母になり、

 

あのときの母のように、口うるさく、

 

毎日ご飯をつくって、子どもを愛している。

 

 

そうめんのお昼。

 

風鈴の音。

 

開け放した台所。薄暗いけど、涼しくて。

 

大きなたらいに泳ぐそうめん。

 

生姜やねぎの薬味。

 

鶉の卵。

 

卵だけが大好きで、割りにくい殻を一生懸命割って、入れて食べていた。

 

お金もそんなにないのに、どうしてうずらのたまごだったのか。

 

京の母のこだわりかな。

 

今、たまたま母と同じ公務員の妻をやってる。

 

うずらのたまごは小さいクセに高くて、なかなか買わない。

 

だからわかること。

 

母の工夫やこだわりや、いろいろ知恵や誇りをもって家事子育てをしていたこと。

 

 

虫の声は変わらない。

 

でも、虫はあのときの虫ではなくて、違う土地に今生きる違う虫。

 

でも、同じような声で鳴く。

 

 

人のなかの心の動き。

 

興味を引かれること。感動の仕方。人の愛し方。

 

変わらないムーブメントがある。

 

人の中心は、子ども時代を抱きしめている。

 

 

私の子どもたちは、30年後、どんなふうに思い出すのだろうか。

 

そのときは、私が親として子どもたちに十分に愛情を伝えることができたかどうか、

 

親として子どもたちに栄養になる環境を整えていたのか、

 

についての試験のときとなるのかな。

 

 

子どもたちに幸あれ。

 

愛、伝わっていますように。

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娘(思春期)と父(夫)

2013-07-04 10:46:14 | インポート

12歳になる娘の悩み。⇒父親が子どもっぽいこと(笑)

 

彼女自身はもう体もだいぶ変わってきて、知識・思考・人間関係ともに順調な(?)発育をしており、心身とも大人の入り口にいるような感じである。

 

この娘、よく夫と口論するのだが、いつものことと気づかないふりをしていた母であるが、

 

いよいよ「あかんな」と思うことがあった。

 

 

夫とのテレビチャンネルの取り合いがら発展して、

 

なんでいつもお父さんは威張っているのか、自己中心的なのか、

 

わがままなのか、聞き分け悪いのか、おぼっちゃますぎ。

 

どうしてお母さんはそんなお父さんに甘いのか、

 

自分のことは自分でしなさいというくせに、どうしてお父さんだけやってもらえるのか、

 

大人のクセに、子どもに譲ることも知らないで。

 

と、えらい剣幕。

 

 

多少子どもらしく手前勝手でもあるけれど、主張そのものはまったくそのとおりだと、よくぞそこまでしっかり育ったと、

 

一方では満足しながら、こりゃーめんどくさいことになったなぁと、思いもする。

 

一番いいのは、娘にピシャっと言われて、夫が大人になってくれることだが、

 

私が結婚以来13年もそうなってほしいと願い続けている(働きかけ続けたが、進歩がない)ことが、いまさらできるようになるのかは、深い深い謎であり、そこへ期待してもあかんで~と、助言したくなる。

 

実際、娘のほうが成長が早く、早々に夫を追い越して大人になってくれるのだろうし、

 

まごまごと子どものようなお父さんにつきあって喧嘩してても時間の無駄じゃ

 

と思うが、まぁ納得しないよね。

 

 

もうこのごろは、夫はこういう人でもう成長しないし、期待しても無駄だ。

 

と頭の隅に追いやろうとしてきたが、娘のほうでそれをまた引きずり出してきた感じなのだ。

 

 

母としては、もし娘が起爆剤となって夫が少しでも大人らしく成長してくれれば

 

願ったり叶ったり。ですが、その労を娘にとっていただくのは…ありがたいけれど、

 

おい、パパ、自分で成長せぇよ!!ともどかしくもある。

 

そして娘が余計な苦労をしているような気もしてちょっとかわいそうというか、つらい。

 

 

世の中の男はみんなこんな感じ?!

 

その昔田舎の跡取り息子と何もかも回りに世話を焼いてもらい買ってもらい甘やかされた結果の横柄で自分一番な態度が、

 

今の時代を生きる娘たちからダメ出しを食らっている。

 

それも当然。

 

娘たちには経済的にも人間的にも自立することを願って子育てしてきたのだから、

 

学校の宿題を忘れたり、忘れ物をしたりすると「母親が用意してやらないからだ。お前が悪い」と私を責めるような姑に育てられた夫が、

 

娘とうまくいかなくなることは、ほんとうに当たり前のことなのだ。

 

 

娘と夫との戦いは始まったばかり。

 

夫のことは一方でもうしょうがない

 

とあきらめていても、

 

やっぱり娘を応援したいし、娘がもし、少しでも夫を大人にしてくれたなら、

 

本当に感謝しないといけない。

 

 

長女、次女、三女。

 

夫も3度くらい繰り返しダメ出しされりゃ、少しは成長してくれるかなぁ。

 

 

すまんね、娘たち。

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