伊集院さん、ここまでいかがですか?🦩
そうですね、日蓮かなり新しいと。
ずっと古いもんなんですけど、めちゃめちゃ新しいですね。
キーンΣ(-᷅_-᷄๑)
老いること、病、死ということに苦しむ人たちに対する手紙がたくさんあるんですね。
このテーマは永遠のテーマですよね。
めちゃんこ古いですね(*´ω`*)
病気がない人であっても、無常の道理を逃れることはありません。
ただし尼御前は老齢の域にあるのではなく、法華経の行者です。
寿命を全うしないで死ぬようなことは、あるはずがありません。
法華経の行者でないと寿命を全うしないで死ぬようなことがあるとですか?🐇
尼御前は法華経の行者です。
そのご信心は月の満ちるがごとく、潮の満ちるがごとくであります。
どうして病が消え失せず、寿命も延びないことがあろうかと強盛に思って、身体に養生を心がけ、心には物事をくよくよと嘆いたりしないようにしてください。
量子力学でつか🐢
心が弱れば体も弱ります。
心においては、くよくよと心配しないようにすることが大事だと伝えたのです。
押し付け、強要🦩
思考誘導🦢
もしも嘆き悲しみが出てきた時は、壱岐・津島の事、大宰府の事を思ってください。
おう🦨
あるいは、天上界の楽しみを受けているようであった鎌倉の人々が今、九州へ向かうことになり、留まる妻子と出征する夫とが離れ離れになる時は、身の皮を剥ぐような思いであり、顔と顔を取り合って、目と目を合わせて嘆き悲しみ、次第に離れて、川も山も隔てて、雲も隔てることになるので、身に添うものは涙であり、伴うものは嘆き悲しみであります。
どれほど悲しいことでありましょうか。
ネガティブ3次元劇場🦔
手紙を書いた1年半前、蒙古襲来によって多くの兵士が九州地方に派遣されていました。
残された妻や子供の苦しみを思うことで、自分の現状の苦しみを乗り越えようと言うのです。
ああそれな🐈
とにかくマイナス思考になってますから、プラス思考に転じなきゃいけないというんでですね、
もうプラスの材料をいっぱい並べたててるんですよ。
蒙古襲来がプラスの材料か🐕
まず年齢が若いと。
しかも法華経の行者ですよと。
しかも信心もね、月が満ちるような勢いがありますよということでですね、
あなたは死ぬはずがありませんということをですね、
一生懸命いろんな角度から激励してる手紙だと言っていいかと思いますね。
年齢関係なくない?🐛
拝めばなんとかなるという発想ではない。
えーっ!🙀
南無妙法蓮華経と唱えれば何とかなるんじゃないの?🦭
一見あなたよりひどい人がいるんだよみたいなね、
比較の対象として書かれているようだが、違うんじゃないかと。
違わないと🦙
日蓮自身もその家族の人達のことに同情しているように、
富木尼にもですね、自分だけの悩みから他の人の悩みにも心が広がった時に受け止め方が変わりますよね。
はい🦘
多くの人が、自分が苦しい目に遭った時には、世界で一番不幸なのは私だ!と思うのが通常。
それでオッケー🦒
ところがそこから視野を広げて、自分と同じような嘆きを持っている人たちに思いをいたした時に、自分の悩みを乗り越えることができると。
それが比較ちゅー🐁
他者の苦しみを利用して自分の苦しみを乗り越えようという作戦ちゅー🐀
利他的な立場に立った時に乗り越えることができる。
めちゃんこ利己的ですけどー🦥
マロ子は逆でつね🐰
自分の痛みを利用して他者の痛みを知る作戦。
イエスの苦しみ、強制収容所のユダヤ人、シベリアの日本兵、
などなど。
単純に不幸な人もいるじゃないですか。
あなたの方がマシですよという話とはもっと違う。
単純にそういう話でしょ🦩
このニュアンスすごく難しくて、
受け取り方を間違えると、恐らく嫌な受け取り方もできるんだと思うんですけど、
それでオッケー👌
美しい言葉で飾り立てりゃいいってもんじゃない。
よくよく読んでると端々にそういうことが出てるし、
何よりたぶん、夫に励まされてもなかなか元気が出なくても、
その夫が信頼する、その日蓮がこう書いてくれるということの力は、でかいかなと思いますね。
依存、盲信、奴隷根性🐿
夫を信じ、夫が信じる日蓮を信じ、日蓮が信じる法華経を信じ、、、
次は上野尼への手紙です。
他にやることないのかよ🐼
上野尼は両親や兄弟を早くに亡くし、夫の兵衛七郎も若くして亡くし、
更に家督を継いだ長男の太郎にも18歳で先立たれます。
どんだけ~🐋
家督は次男の時光が継ぎました。
家督が大事なんですねー🐳
悲しみを抱える上野尼と時光は法華経に帰依し、地元の日蓮信徒の中心的存在になっていきます。
創価学会かよ🐡
幕府の信徒たちへの弾圧は激しさを増していました。
時光は過剰な税負担や重い労役を強いられ苦しみを背負います。
そんな中、時光の弟の五郎が16歳で亡くなります。
ぴぇーっ🦑
死神憑いてません?🦀
人は生まれたら死ぬという定めについては、智者も愚者も、上下を問わず一同に知っていることなので、
初めて嘆くべきことだとも、初めて驚くべきことだとも、思うことではないと、自分でも存じていたし、他人にも教えてきましたが、
五郎殿のご逝去の時に直面して、夢なのか、幻なのか、いまだ分別できずにおります。
それでも法華経の信者かいや🐜
無分別この上ない。
ましてや母のあなたはどれほど嘆いておられるでしょうか。
あなたは父母にも兄弟にも死ぬのが後になって生き残ってしまい、最愛の夫にも死に別れてしまったけれども、子供がたくさんいらっしゃったので、心も慰んでおられたでありましょう。
ほよよ(〃ω〃)
けれども、最愛の子供で、しかも男の子で、見るからに容貌も人一倍勝れ、心もけなげであったので、他の人たちもすがすがしく見ていたのに、
道理に反して蕾となった花が風に萎んでしまい、
満月となった月が消え失せたようにこそ思っておられることでしょう。
ネガティブ3次元劇場パート2〜 ψ(`∇´)ψ
仏教はですね、諸行無常といって、
あらゆるものはですね、いつかはなくなるという教えなんですよ。
違います🐧
でもそれをね、身内を亡くした人に面と向かって言うことは酷ですよね。
酷じゃないよ🐦
でね、それはやってないんです。
はあ?🐕🦺
言ってるけれどもくるんでる。
なんじゃそりゃ🦮
仏教の考えからすれば、人が死ぬなんてことは僕も知ってます。
それを逆にもう全く裏返しにして、
そんなわかってるはずの私でさえちょっと動揺してるんです、って言われた時の心の響き方みたいな。
ぼ~~ん🔔
死という事実をいかにその人に受け止めさせるか、手を尽くしている。
魔入りましたー🙇🏻♀️
まことでありましょうか、去年の九月五日に子息の故五郎殿が亡くなられた時には、どうなったのであろうと、心が乱れました。
指折り数えてみれば、既に数えで二年、月にして十六か月、日にして四百日余りが過ぎ去ってしまいました。
宮城のジジイかよ🐌
一日一日それぞれにいろんな嘆きがあった。
自作自演のネガティブ劇場〜🐞
その死を抱えて寄り添っていくしかない。
絶対に寄り添ってはいけないシリーズ~🐝
あなたはどうしたら五郎殿に会えるか心惑っておられるようですが、
やすやすとお会いできることがございます。
釈迦仏を使いとして霊山浄土へ行ってお会いして下さい。
法華経に、「もし法を聞くこと有らん者は、ひとりとして成仏せずということ無けん」といって、
大地を指せば外れるとしても、太陽や月が地に堕ちるとしても、
潮の干満がなくなる時代が来るとしても、
夏になっても花が実にならないとしても、
しつけーよ🦎
南無妙法蓮華経と唱える女人の思い続けている子供に会えないということはないと説かれております。
ほんとかよ🦏
当時我々の生きている現実世界は穢れた国土であり、死後に極楽浄土に行くことで救われる、そんな考えが広まっていました。
「死後に別世界で救われる」
この考え方に日蓮は異を唱えます。
念仏無間地獄ってやつな🦂
その上で私達が今生きている現実世界の中で常に立ち返ることができる場所を霊山浄土という言葉で表現しました。
結局極楽浄土と同じではないか🕷
人間は、ある時は生きているというあり方をとり、ある時は死というあり方をとりますが、その人の「生命本体」は一貫しているというのです。
死というあり方など存在しない🐍
例えば波は風が吹けば生じます。
しかし風がやめば波は消えます。
波は消えません🌊
波はいわば生と死を繰り返していますが、そこにある水は変わりません。
つまりそこにあるのは水だけ。
波が生じたり消えたりしているのではなく、
そこにはただ水が 動いているだけ〜♪
そんな生命本体がある場所が霊山浄土だといいます。
頭ガチガチ(^ー^)
私達は法華経を通して自己と向き合うことで、日々霊山浄土に立ち返ることができます。
石頭と認定します🍄
そこで死者たちと会うことができるのだから、不安になることはないと励ましたのです。
妄想、幻想、非現実🍃
1282年9月、60歳を超え、日蓮は自分の死と向き合います。
どんだけー🦑
道の程は特別なこともなく池上に着きました。
道の途中は、山といい、河といい、病の身にはいささか大変な事であったのを、波木井氏の公達(子弟)に護られて、難儀なこともなくここまでたどり着いたことは、恐れ入りながら喜んでおります。
ジジイ入りましたー🦞
日本国でいささか取り扱いに困っている身を九年まで帰依された志は、言葉で言い尽くせないので、いずこで死んだとしても墓は身延の沢にしてくださるべきです。
意味不明🐙
この手紙からひと月ほど、日蓮は病を悪化させ死の床につきました。
今は身延山で静かに眠っています。
そこに私はいません
眠ってなんかいません♪
そもそも霊山浄土ってなんですか?🐝
地上世界というのはですね、対立の世界、人間関係のギクシャクした社会ですよね。
ほよよーW(`0`)W
そこでまあ命が汚れたりね、穢されたり悩んだり、
キーンΣ(-᷅_-᷄๑)
原点に戻ることにより、自分の永遠の命だとか清らかな命だとかに立ち返っていく、
浄化される、でまた現実に戻ってくる、
これを行ったり来たりしながらやっていくんだと。
ほよよー(*´Д`*)
空間的な区別が消えてなくなる世界です。
あらゆる人の命に備わる働きを象徴しているんです。
抽象論ですね🦋
永遠であり、宇宙大であり、ひとりひとりの生命の全体像を意味してるんですね。
うんこスピリチュアルですね😹
すなわち、まあ我々の命の本源と言ってもいいかと思います。
ほしたら霊山浄土っていうのは、死者と対話する、死者と会う想像の世界という🤖
必ずしもね死者と対話するだけのことじゃないんですけどね。
自分の命の原点に立ち返ると。
でそこには死者もいらっしゃるでしょうから、その人と対話ができるということを含んでるんだと思います。
まさに想像の世界ですね🎃
唯物主義の伊集院さん、いかがですか?🤡
天国とか死後の世界とか一切信じないんですけど、
ある時からお墓参りに行けるようになったんです。
まあうちのじいちゃんの性格だとこう言うだろうなっていう。
セルフカウンセリングなんだけど、
おじいちゃんだったらどう言うかな?っていうことを尋ねて、
まあうちのおじいちゃんの性格だとこう言うだろうなっていう。
その感じがちょっと今のやつしたんですよね、何か。
まさに今のやつそんな感じっす🦥
生と死が割と一体のものだったりとか、
一体やめません?🦦
僕は今んとこその儀式をお墓でやりますけども、
どこでも気持ちの作り、霊山浄土にできるっていう解釈は、
当たらずとも近いですか?
うーん🤔
大当たりに近いでつね🐹
自分はあの人のことどう思っていたんだろうっていうのは、その人と向き合うことでもあるけど、自分と向き合うことでもある。
お墓と向き合うことは自分と向き合うことである。
お墓=自分😸
それを究極的なとこまで深めていくと、その人も自分もバーチャルも現実もあんまなくなっちゃって、何か死者や今会えない人と会ってる。
うんこ入りましたー💩
僕が今あるのはですね、中村元という東大名誉教授のおかげなんですけれども、
日蓮のおかげちゃうんかい💀
この僕、毎日ですね、対話してるんです。
今こんなことで困ってます、わかりませんとかね。
あの僕と同じじゃんか🦁
そうするとですねえ、守られてるかなという思いがするんですよ。
妄想でつね🐯
生きている時に霊山浄土に往復している。
命の本源に立ち返る。
ということをやり続けると、亡くなった時にもすっとそこへ入れますよということを言ってるんです。
日蓮が異を唱えたやつと同じではないかー🐲
バカーっ!🐉
日蓮も原始仏教も、命が惜しいということが生きとし生けるものの根源的な欲求であると。
それでオッケー🤙
すなわち生きているという充実感を得たいということなんだと。
ところがね、その生きてる充実感を何で満たすかが問題だと。
多くはですね、この、地位とか名誉とか美貌で満たそうとする。
それはいつかは衰えるものでしょう。
いつまでも永続するもんじゃないですね。
生きてる時にいかに人間として立派な生き方をしたのかと、
いうことが一番大事ですよと。
真の自己に目覚めなさいと。
東大名誉教授という肩書も永続するもんじゃないですよと🦉
自らを一人の人間としてね、磨いていきなさいと、
いう生き方が大事ですよってことをですね、日蓮は言いたかったんだと思うね。
日蓮の教えも永続するもんじゃないですよと、
あやつの性格からすると、こう言いたいんだろうなと、
できるもんなら手紙書きたいんだろうなと、
マロ子尼に書かせる作戦だなと、
シリウス思うー🦠
うほほーい)^o^(