宿業という言葉っていうのは世間一般では、例えばあの人は業が深いからこうなったとかですね、
それからあるいはなんて言いますか前世の報い的な🐀
ひどい言葉では業病なんて言葉もありまちゅが🐁
宿業論で大事なことは、他者のことをあげつらうために宿業論を使うのは仏教ではあまりいいとは言いませんね。
別に他者を論(あげつら)っているわけではない。
それこそ色眼鏡というものだ🐼
業が深い=悪、業病=悪という色眼鏡な。
あげつらはてめえだよ🦂
てめえ自身が他者のことをあーだこーだ論っているからこそ、仏教ではあまりいいとは言わないなどとぬかしてふんぞり返っているのだ🕷️
つまり宿業論は何のためにあるかと。
己を知るためなんですよ。
Exactly☃️
自分がどういう人間であるかということを理解する時に、自分の過去を振り返ってみると。
そこで宿業を感じるということはとても大事なことで。
てめえは宿業を感じたのかよ🐻
宿業を感じて、自分の宿業の感じ方がいかに自分中心的であるかということがわかった時に、その自己中心的な存在を新しい展開ができるためには何が必要かということを知るための、いわば基盤の役割を果たしていると。
つまり宿業論は自分の利益のためにあると🐧
だから他者を糾弾するための言葉ではないわけですね。
口でいうのは簡単だけどね。
心の中にそれがなければ生まれない発想なんだよボケ🐦
ですから業病なんて言葉は自分に対して使うのならいざ知らずですよ。
しかしそれでもおかしなことだと思います。
おかしかないよ🐤
ですから宿業という言葉が非常に誤解されやすいのは、己の存在が何であるかということを知るための道具だということを棚に上げているということだと思うんですね。
己を知ることは他者を知ることでもある。
逆もまた真。
うぬらを知ることは私を知ることでもある🐱
つまりそうしますと、他者に対して宿業という概念、こちら側の色眼鏡から見て当てはまるということは基本的に違うということですか?🐢
違う。間違いですね。
間違いだと思います。
間違いはお前だよクズ🐊
業は善でも悪でもない。
ただそこにあるだけ。
例えば訳ありんご🍏
病気のりんご、いびつなりんご、
小さいのや大きいのや、赤いの黄色いの、
そこに善悪優劣をつけているのはお前自身。
それがお前の業なのさ🍐
ですから煩悩具足と言うけれども、その煩悩を滅ぼすことができないっていうのは、
色眼鏡を大事にしているお前の宿業🫐
因・縁・果のすべてを知る智慧が、見いだすことができないという意味でもあるわけですね。
そしてもう一つは、その膨大な因・縁・果の流れの中で、自分のわかるところだけを切り取って理解する。
近代以降のことになりますけど、私を私たらしめてる因・縁・果の流れのですね、全部を知ることは、一部しか知ることはできないという我々のあり方について、
一部は知ったつもりかよ🍊
特に深い関心を持った作家の一人に夏目漱石というのがいますよ。
それがどうした、色眼鏡🍭
登場人物の先生が主人公の青年に語った言葉🌻
それから君は今、君の親戚なぞの中にこれといって悪い人間はいないようだと言いましたね。
しかし悪い人間という一種の人間が世の中にあると君は思っているんですか。
そんな鋳型に入れたような悪人は世の中にあるはずがありませんよ。
と思いきや、
鋳型に入れたような悪人がうじゃうじゃいたんですよね〜( ◠‿◠ )
平生はみんな善人なんです。
少なくともみんな普通の人間なんです。
それがいざという間際に急に悪人に変るんだから恐ろしいのです。
坊ちゃんはいざという間際のちょっと前に死んだから、そんなのんきなこと言ってんのさ🍡
そういう矛盾した心の在り方が我々に心の意識の底には、ずっと誰にでもあるというわけですね。
誰にでもあるとは言ってない🥸
現代風の言葉で無意識の、我々には無意識、自分でもその正体はわからない無意識を背負っていると。
背負っているというよりも、うぬらは人生そのものが無意識。
無意識が洋服着て歩いてるようなもんだ🦏
ですから近代になってから精神分析とかいうふうな学問が発達したりして、人間の通常の意識の底にですね、我々が自分でも知らない自分を持ってるんだという言い方をするようになりました。
迷信の時代は終わりですね( ^ω^ )
宿業ということの心理学的な表現といいますか、
科学的な表現と言ってほしいわ🦩
☆腐れと弟子の問答☆
あなたは私の言うことを信じるか
確かに
ではこれから私が言うことも間違いなくその通りにするだろうね
謹んで承知しました
たとえばの話だが、人を千人殺してもらいたい
そうすればあなたの往生は定まることになるのだが
腐れの仰せではありますが、我が身の器量を思いますに千人どころか一人の人間さえ殺すこともできません
ではどうして先ほどは私の言うことに背かないと言ったのですか
そう言わないと逆ギレするからww
そもそもまともな人間は人を千人殺せなんて言わないし。
戦国武将ならいざ知らず(´-ω-`)
唯円よ、これでわかるであろう
わかるかー🦅
何ごとも自分の意思で決めることができると言うのであれば、大事な往生のために千人を殺せと言うのだから、すぐさま殺人に取りかかることもできるはずだ。
それってあなたの感想ですよね?🦆
しかしあなたはできないという。
それはあなたには一人の人さえも殺す業縁がないからなのです。
自分の心がよくて人を殺さないのではありません。
反対に人を害さないでおこうと決めていても、業縁が働けば百人でも千人でも殺すことになるのです。
それがおぬしの業じゃ。
だからこそ変なたとえ話が閃くのじゃ。
だからこそ必死こいて念仏やってんだろ🦉
とおっしゃったのは、
私たちがややもすると、救済はあくまでも阿弥陀仏の本願の力によるということを忘れて、自分たちの心がよければ往生のためになり、悪いことは往生のためにならないと思いがちであることを指摘されるためだったのです。
親鸞とやらいう坊主は、まっすぐな心を無理くり捻じ曲げる宿業を背負っているよーだ👾
大事なことは、次の言葉ですね。
あなたの心が立派だから人を殺さないということではないんだぞと。
人を殺したりしようと思わないと思っていても、百人千人を殺すこともあるんだと。
日頃善人アピールしている連中が、極悪非道な殺人鬼を「死刑にしろ!」とか平然と言いますよね🐝
我々放っておくとですね、自分の心がよいのは自分がよいから、よい人間だからだと、こう思っていると。
だってその通りだもん☘️
悪いことは自分の中に悪いことをする心があるからだと。
悪い種を持っているからよ🌷
こういうふうに、つまり善悪は自分が使い分けることができるんだと。
使い分けることができないのは悪い種を持っているからだよと🍄
ですから我々は自分の中に自由意志、自分で物事を決めることができる力があるんだと。
また実際、それがなかったら我々の暮らしは成り立たんわけですから。
パンティ泥棒でも暮らしは成り立つわよ🦭
しかし根本的には我々は、
悪人🤗
過去の自分の行為、それから自分の行為に関わったあらゆる人々の行為の影響の中で暮らしてるという事実があるわけですよ。
影響があろうとなかろうと、善人は善人、悪人は悪人。
話捻じ曲げんなよクズ🐿️
その事実を片方で認識しながら、
もうええわ。
往生際が悪すぎて仏にならん🐌
最初からその人には、もう一から百までの自由があるんだと、その人の心次第だというふうなことは、やっぱりちょっとおかしなことですね。
おかしかないよ。
ミィは一から百まで自由🗽
すべてはミィの心次第❤︎
で、そういう業に縛られた中で我々はどういうふうに主体的な生き方を貫いていくかということ、それが人間の問題なんですね。
業で縛ってんのはお前だよクズ🐈
私は現在の言葉でそれ言えると思うんですね。
私の言葉で言うと思い込みだと思うんですよ。
自分にお言い🐩
私どもはあらゆる局面で思い込みで暮らしてると思うんです。
グッジョーブ👍
人は思い込みの中で生きているという、そういう事実を知るということ。
人はいいから自分が知りな🦚
自分がどういう人間であって、どうしても大きな物語というものがないと生きていけないということに気づく。
お前らは大きな物語がないと生きていけないのか🐫
自分がどういう人間であるかという、そういう認識が不可欠だと思いますね。
ですから歎異抄第三条の
ろくでもない物語がないと生きていけないと🦒
コント☆ひかりごけ☆
戦時中、物資の輸送船が遭難し、船長以下7人が無人島に漂着。
次々に餓死していく船員。
生き残った者はその肉を食べて命をつなぎ、最後は船長一人に。
人肉を食べた人間の首の後ろには、ひかりごけに似た光の輪が現れるそうな🐠
救出された船長の首の後ろに・・・
光の輪があったどー🦑
ということで集まった人々、つまり裁く側になった人間たちは、、、
全員光の輪を背負っていたそうな🐳
それぞれ気づかないうちに人を食い、あるいは人の痛みみたいなものをですね、知らず知らずに人を傷つけたりですね、そういったことを誰しもがやってるじゃないかっていうことの暗喩ではないかと僕は思ったんですが、
なぜ誰しもがと思ったの?🐇
全員の首の後ろに光の輪がついてるということは、全員が人肉を食ったってことですね。
人肉を食らうということはこれは極論ですよ。
極論じゃねえよ🐖
我々普通の暮らしではあり得ないことですね。
あえてしかしそういうことを前面に立てて、あの船長は人肉を、しかも仲間の肉を食って生き延びたんだと、
こういうおぞましいことを素材にしてるという、
戦時中にはよくある話ですが🦙
私は船長の行為、土壇場で人の、仲間の肉を食わざるを得なかったっていう彼の行為はですね、人間のむごさとか、恥ずかしさとか、あるいは悲しさっていいますかね、そういうもののシンボルだと思うんですね。
それはトーシロ目線やね🦩
人は生きるためにはそういうむごいこと、恥ずかしいこと、悲しいことをね、互いにやらざる、やらずして生きていくことはできませんよ。
人間の肉を食うということは考えられないけれども、
豚の肉を食らうことは考えられると🐄
しかし武田の言わんとしているところは、人肉を食らうという極論によって人は誰しもむごいこと、恥ずかしいこと、悲しいことなしには生きていけない存在なんだと。
そういうことを我々に伝えようとしているんですね。
そんなことは武田が言わなくてもわかるわ。
問題は裁判員らが全員ひかりごけを背負っていたってことだよ🧞♀️
悪人であることから逃れられない私たちはどのように生きていけばよいのでしょうか🧟♀️
業報にさしまかす。
はあ?🤪
善心が生まれるのも、また悪事が思われたり行われるのも、ともに宿業が働くためなのです。
ですから良いことも悪い事も業の結果に任せて、ひとえに阿弥陀仏の本願をたのむことが他力ということでありましょう。
それって現実逃避ですよね💩
他力本願=責任逃れ、現実離れ、自己逃避、
アイデンティティ喪失シリーズ〜🧜🏻♀️
念仏無間地獄☃️
そりゃあ日蓮が沸騰するわww
念仏をするということは、私が仏(ぶつ)になる道。
つまり完全なる智慧というものが身につくような世界に向かって歩んでいるということなんですね。
妄想ですね👼
ですから業報、私が過去に犯した行為によって今私がどのような状態になるか、そのいかんに関わらず、私は仏になる道を歩んでいるという確信があるがためにですね、その悪業に負けずに生きていくことができると。
煩悩具足とか宿業とか、マイナスのイメージの強い言葉の中でですね、そういうものに確かに束縛される一面もあるけれども、しかしそれはそれとして、つまりそれは業報にさしまかせて、ということですね。
因果応報ですしね( ◠‿◠ )
しかしその称名という行為によって、仏道を歩んでいるという確信がその人に開放感をもたらす。
自己肯定感気色悪いわ〜🧚🏻♀️
清沢満之
✨天命に安んじて人事を尽くす✨
こういう生き方をとるんだと。
業報にさしまかすを新しい言葉で言い直したことだと思いますね。
いちいち新しい言葉に言い直すんじゃねーよクズ💀
これだけの人事を尽くしたんだからあとは天命を待つというよりはですね、
人事がいい加減であっても、最初からもう天命に任してあるんだから。
どんな人事であったってね、それはそれでまあ納得できるわけですね。
自業自得ですしね( ^ω^ )
煩悩具足、業縁、思い込み、
もうこれは我々が見ることがなかっただけの話で、
これは否定のしようのない人間の事実である。
人間の事実じゃねーし🐿️
その事実にどんなふうに向き合うのかというところに、まあ大きな物語の役割があって、そこに阿弥陀仏の本願の役割があるんだと思うんですね。
おまいら阿弥陀仏を具足にしてるぜ☠️
そもそも善人なおもて往生をとぐ、いわんや悪人をやと定まっているのであれば、阿弥陀仏とやらがすべての人を救うという誓願なんか立てる必要なくない?
矛盾してますよね💩
究極の矛盾と言っていい👽
で、私自身も念仏に出会えて、自分の道徳的破綻とかいろいろな問題に耐えるっていうか、つまりそのことを以前よりは客観的に見ることができると。
そういう余裕が生まれてくるということだと思いますね。
念仏に出会って自己肯定感が生まれた。
これぞまさしく業縁にゃー😹
そういえば大日如来も光の輪背負ってません?😿
お釈迦さんとかイエスさんとか、天使さんとか、
皆さん光の輪を背負ってますよね〜🎃
Youたち、アレ食ったんでしょう?W(`0`)W