歎異抄第四条では修業により自力で悟りに至る「聖道門の道」と、阿弥陀仏の他力に頼る「浄土門の道」を比べてこう説かれます。
従来の仏教が教える慈悲、聖道の慈悲とは、人に同情し、人を愛おしみ、人を慈しむことであります。
しかし思い通りに人を助け遂げることは極めて困難なことです。
誰の思い通り?🐣
自我?🐥
それに比べると浄土の慈悲とは、念仏して速やかに仏になり、仏の慈悲心をもって思い通りに人々を助けることを言うのです。
邪道やわ〜🦢
この世でどんなに愛おしい、かわいそうだと思っても、思い通りに助け通すことが難しいので、そうした慈悲は一貫しないのです。
人は本質的に邪悪ですからね🦩
一貫してりゃいいってもんでもないけどさ。
何でもかんでも助けりゃいいってもんでもない🦆
そういう思いに至ると、念仏することだけが一貫した慈悲心となるのです。
一貫した慈悲心というより強迫観念じゃな🕷️
ブッダの縛りじゃね?🦂
第四条の中で一番大切なことは、
両方とも悟りを目指すという点では共通してるわけです。
つまり人を慈しんだり悲しんだりする行為は自分が悟りを得るための手段ってわけだ🐕
慈悲を実践していると、あるところから聖道の慈悲の限界があって、気がつくと浄土の慈悲に、こう、強い共感を覚えてるという、
ああなるほど🤔
聖道の慈悲ってのは自力による実践。
それもなんだかなあって感じはしますが(*´-`)
そこまでして慈悲の実践必要?
みたいな(๑˃̵ᴗ˂̵)
なにがなんでも悟りを得たいの🐹
まあとりあえず自分の力で頑張って、人々を慈しみ悲しむふりを必死こいてやってみると。
そうすると当然どこかで限界が来ると。
ほんで気がつくと浄土の慈悲、いわゆる他力本願に強く引かれる自分がいると(ᵔᴥᵔ)
アンタ慈悲の実践やめた方がええわ🐏
慈悲心1ミリもないし。
人様を悟りの道具にしてんじゃねえよ、クズ🐖
ですから、私たちの日常的な暮らしの中で、人に対する思いやりとか同情というのは長続きしないんですよ。
動機が不純ですからね🐰
もうこれは、もうどうしようもないことですね。
アンタの宿命🐼
自業自得🐨
そしてひどくなると燃え尽き現象まで生じてしまって。
ふふふ。
アドラーの呪いかもにゃ😸
他者貢献こそが共同体感覚の証しなのじゃー🦑
みたいな🦀
しかしね、我々は不思議なことに、この同情が挫折したり、あるいは燃え尽きたりしても、どこかでですね、なんか諦めきれない。
そりゃそうさ。
1分でも1秒でも早く悟りを得ようと必死やねんから。
エゴイストらしくてワロタwww
あなたピラミッドの頂点に立ちたいんでちょ?🐇
その人に対する思いやりの気持ちは依然としてどこかで残っていると。
ほとんどストーカーですよね🦘
その挫折をして、自分の中でなんとかしたいという気持ち、
それをここでは「かはりめ」と言ってるんですね。
親鸞もストーカーだったのね🦙
実はこの第四条を読んでですね、誤解する人は少なくなかったんですね。
第四条自体が誤解だし🦚
浄土の慈悲というのは具体的には念仏することだと。
そうすると念仏だけしていればいいんじゃないですかと。
念仏だけしていればいいんですよ🦋
現実がどうであってもね。
それでいいんですよ🐞
それはまあ悲しいことだけど、まあ目をつぶっていきましょうと。
そんなこと誰も言ってませんよ🐢
それがもっと進むとね、現実に対する働きかけなんかいらないんだと。
現実に対する働きかけなんかいらないんですよ🐛
そういう誤解にまでなるわけですよ。
誤解はお前だよ、アマトリチャーナ。
すべての人を救うという本願を立てたのは誰なのか。
これが一番大事なポイント☝🏽
阿弥陀仏の本願だろ。
つまり人々を救うのは阿弥陀仏。
現実に対する働きかけをするのも阿弥陀仏。
お前は何もする必要がない🤗
お前らがあーだこーだ心配し、あーでもないこーでもないと自分勝手な解釈をして仏教を歪めている。
ウンコをこねくり回すように阿弥陀仏の本願とやらをこねくり回して遊んでいるだけなのだ🦉
まあ一番のうんこは法然&親鸞じゃき、
島流しになって当然ですわ(´∀`)
歎異抄は念仏の意義を教えてくれるけれども、
歎異抄を読んだ人は、そこから先は、阿弥陀の慈悲をどのように世の中に及ぼしていくかと。
それはその人の課題ですね。
餓鬼の課題ですね🐠
念仏は単なる呪文ではなくて、阿弥陀の慈悲というものを我々の中に呼び起こしていく、そういう大事な役割を持っているんだと。
やっぱ呪文じゃん🐳
宗教と呪術の区別はほんとに難しい。
念仏って呪術ですよね🐧
一つ言えることは、宗教は自分を問うて自分を内省して、自分の問題を意識した上でそれを乗り越えるために宗教の行というものを求めると。
つまり他人にお節介焼いてる場合ではないと🐦
しかし呪術は自分を問わないんですね。
こういう社会ですからいろいろ困ったことを抱えて、どうしていいかわかんないという状況はたくさん出てくるでしょう。
その時にちょっとした隙間に、そういう呪術的思考で近寄ってくる人があればですね、
念仏を唱えれば救われますよ~🧟♀️
すぐに飛び乗ってしまうと思いますね。
悪人こそ救われるんですよ~🧟♂️
だから宗教というのは、自分の根本問題を解決したい、しようという、そういう営みであって、
呪術もそういう営みですよ~🧜🏻♀️
なぜそういう状況が人間に生まれてくるのかということを問い、尋ねていって、根本的な問題がなんであるのかに行き着くような、そういうやっぱり場があるかないかですね。
必要ない必要ない👋🏽
むしろそんな場はない方がいい。
今ここにある現実こそが修行の場なのだから。
自分の根本問題を他力によって解決しようと企んでいる限り、おまいらは永遠に囚われの身じゃき👽
阿弥陀仏が最も悲しみ憐れんでいるのは、
自称宗教学者・アマトリチャーナかもしれませんね👾