証し
死と罪の淵から
ひとりの人間が神に救われるまでに、どのような道すじをたどるか、それは実にさまざまな道すじである事でしょうが、私の場合、十年以上の間、死と罪の淵でもがきつづけてきたのでした。しかも、いつかはその淵からぬけだせるという望みもなく、です。
私が二十五歳のときに作った詩に、「雙六(すごろく)」と題した詩があります。
雙六
墓地は
坂の上に ある。
人生は、長くつらい上り坂である。人は、その坂を苦しんでのぼっていく。しかし、その苦しみは決して報われる事はない。苦しみの果てに待っているのは、死だけである。すべては、「へい、一丁上がり!」でおしまいになる。人生というのは、どんな努力をしてもついに徒労に終わるしかない、滑稽(こっけい)なゲームなのだ。―そんな思いをこの詩にぶつけたのです。
そして、この虚無的なといえるような人生観が、二十歳からのおよそ十年を支配してきたのです。自分の命は自分のものだから、自分で適当な時期に決裁することができる、そんな命への傲慢(ごうまん)さも潜んでいました。
そんな私に対して、イエス・キリストは、御言葉(みことば)によって「ノー」とおっしゃいました。
何の働きもない者が、不敬虔な者を義と認めてくださる方を信
じるなら、その信仰が義とみなされるのです。」
(新約聖書「ローマ人への手紙」4章5節)
という御言葉によってです。
それはまさに、御言葉による直撃でした。
その強烈な「ノー!」によって、それまでの私を支配していたもの、つまり、ニヒルな気分や思いが取り払われたのです。三十歳の春でした。
聖書からこの決定的な御言葉が示され、通勤電車から降りたとき、ある言葉が思い浮かびました。
それは、「ああ、おれはこれで、自分の事ではなく、やっとひとの事が考えられるようになるんだな」というものでした。肩にのっていた「自分」という鎧(よろい)のような重荷を、やっと下ろせたような気がしました。
こう言うと、今の私がいかにもエゴでない、情けある者に映るかもしれません。が、残念ながら、それは違います。今もやはり問題の多い者で、毎日が「助けてください。きよめてください!」という祈りなくしては過ごせないほどなのです。「ごめんなさい」とか「ありがとうございます」とか、人間のおおもとの心が抜け落ちているような者なのです。
しかし不思議に、このときだけはそんな思いになれたのです。これも神さまの憐れみだったかもしれません。救いは自我からの解放、とらわれから自由への広がり、それを一瞬だけ味わわせてくださったのでしょう。
今わたしの人生には目的がある、そう言いたい気持ちです。
二十五歳のとき、事故で全身打撲傷を負った体は、依然として疲れやすく、健康そのものとはいえないかもしれません。頭痛は毎日あり、腰痛はときに激痛となります。ストレスもたまりやすいので、心のつかえも起こりやすいほうでしょう。それでも、わたしの人生には目的がある、という気持ちになれるのです。二十歳の時には考えられなかった事です。
わたしが最悪のときに、いつ死んでも不思議でなかったほどに体も心も病んでいたときに、イエス・キリストはわたしを抱き締めてくださったのです。そして、
「お前はたしかに欠点の多い者で、これからも苦しむ事は多いだろう。お前はエゴだから、失敗もたくさんするだろうし、ひとも傷つけるだろう。ひとの役に立つ事は少なく、迷惑をかける事のほうが、うんと多いだろう。
しかし、それでもわたしは、お前がわたしを信じると告白したのを確かに聞いた。わたしは、その信仰告白を決して無にしない。
わたしは、いつもお前のそば近くにいる。いや、お前のふところの中にいるのだ。つらければ、背負ってもあげよう。
だから、お前は、わたしのために生きなさい。自分のためにでなく、わたしのために生き続けなさい。わたしをもっともっと知るために、もっともっと愛するために、そして、わたしをほかの苦しんでいる人に伝えるために、お前自身の生涯を用いなさい」
そう言ってくださったのだと、思っています。
「わが恵み汝(なんじ)に足れり」という御言葉があります。「恐れるな。わたしがあなたをあがなったのだ」という御言葉があります。そして、「この希望は失望に終わる事がありません」という御言葉があります。
これらの祝福の御言葉が、これからもわたしをくるみ、導いてくださると信じます。信じつづけていきたいと思います。
もうひとつ、詩を挙げさせてください。
「ねがい」と題した詩です。
ねがい
ちいさなわたしよ
ちいさな仕事を
ひっそりとしよう
― 一人の
ちいさな心に
種をまく
匂いやかな
種をまく
そんな仕事を
一生かけて
ひとつでも しよう
これが、神さまからいただいた、わたしなりの目標です。
●ご訪問ありがとうございます。
「証し」は、大声で語るというより、小さな声でお話しするものだろうと思います。すくなくとも私は、そう思います。大声で語ると、神さまの憐れみより私自身の自慢話をしてしまうような気がします。
神に感謝しながら、当時を思い出しつつ、この「証し」を書かせていただきました。6月8日の「証し 信仰をいただいた朝」の続きになります。