十二人のひと
わたしをいじめてきた人をかぞえた
六人いた
ぜんぶで
全員会社のひと 上司、先輩、そして後輩も
わたしが苦しめてきた人をかぞえた
六人いた
すくなくとも
幼児から社会人まで ずっとつながって
わたしをいじめた人のこと
ときおり思い出す
わたしが苦しめた人のこと
わたしをいじめた人を思い出すそのとき 思い出す
十二人のひと
わたしをいじめた六人 は ゆるした
―〇〇さん、ゆるします
三日つづけて名を挙げて
十二人のひと
わたしが苦しめた六人 に ゆるされたい
―おまえ、ゆるしてあげるよ
あなたの最期に もしもできることなら
和解
「いじめた人は忘れている、いじめられた人は忘れない」。この言葉が突き刺さります。自分が傷つけたひとのことを思い出すとき、もう取り返しのつかないことだと、罪悪感が襲ってきます。
以前の私は、「自分が傷つけた人からは、ゆるされなくても仕方がない」という思いがありました。でも、それだと、「自分を傷つけた人は、ゆるさなくても仕方がない」という考えを肯定することにつながります。
「和解」を願う気持ちに変わりました。
われらに罪を犯す者を、われらがゆるすごとく
われらの罪をもゆるしたまえ
これは、キリスト教の祈りです。イエス・キリストが教えてくれた祈りです。この祈りを行う者でありたいと願ったのです。
●ご訪問ありがとうございます。
八月は戦争の記憶がよみがえる月です。ある方々には「うらみ」の月でもあるでしょう。ある方々には「ざんげ」の月でもあるでしょう。
日本の戦争の記憶だけではありません。
ロシアの侵略がやみません。ウクライナの方々には長い間「うらみ」が積もっていくでしょう。ロシアの大統領の「ざんげ」、それが早く強く願われます。
「和解」は容易ではありません。でもでも、そこに望みをおきたいと思うのです。個人から国家まで。