星野富弘の「大きな手」に導かれて
星野富弘の詩「大きな手」に導かれた。
飛びたいのに
大きな手に
おさえられて
しまうんだって
誰の手だい
自分の手じゃ
ないのかい
(星野富弘「星野富弘全詩集Ⅱ 空に」学研)
ユーチューブで星野富弘さんのご葬儀の様子を見た(ユーチューブ「前橋教会 星野富弘兄葬儀式」)。大きな教会の礼拝堂、その中の大きな祭壇。多くの
参列者。厳かな式に映ったが、「トミヒロさん」とのお別れの場を、わたしは勝手に、もっとちいさな教会でのご葬儀と思っていた。ほんとうに勝手な思いであるが。
*
大事故にあい、いのちのすれすれのところを幾度も通りながら、そして生きることに葛藤しながら、神を見上げる信仰心を研(と)ぎ澄ましていったひと。
車椅子の高さで見た世界は傷つき、汚れ、うめいていたかもしれない。けれど、よく見れば、気づきさえすれば、美しい花々が咲いている。名のある花々だけではない、雑草といわれるようなものでさえ、その時々に可憐(かれん)な花を咲かせている。
その花は、神が創られた。その花で、世界は癒やされ、洗われ、よろこびの声をあげることができる。―その花々を描く、花々のいのちの輝きを描く。その輝きを、あなたの傷ついた魂に届けたい。
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「トミヒロさん」の詩画に打たれるひとは、慰められ、勇気をもらい、この世に澄んだ魂というものがあるのだと知らされるだろう。
一方で、美しいものに触れて、自分の自我のやっかいさ、それに気づかされるかもしれない。「自分教」のしぶとさに反省を迫られるかもしれない。
小さな自我のしがらみから自由になりたい、毎日の葛藤から解き放たれたいと思う。不安や恐れや心配や不満、怒りやねたみや憎しみさえから、清々(すがすが)しい自分に変わりたい、と思う。―その餓えた心に、求める魂に、「ホラ、花を見ませんか」という「トミヒロさん」の、おずおずと語る、やわらかな、つつましい声、けれどほんとうに飾り気のない、素朴な声が聞こえてくるようだ。
「咲いていても、もしかしたら誰からもほめられないかもしれないね。それどころか、咲いていることさえ気づかれないかもしれない。でも、一つひとつの花にちゃんとした名前があるよ。色があるよ。香りがあるよ。けっして自分をおろそかにしていない、卑下などしていない。うぬぼれてなど、とんでもない。ねたみだってないさ。
それらの花々と同じように、あなたの存在には意味があると思うんだ。あなただけの役割があると、かぐわしさがあると、そう思うんだ。あなたはすでに自由だし、解き放たれている。のびやかな、平らかな心になっている。ぼくはそう思うんだけれどなあ」―そんな声が。
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「自分の手じゃ ないのかい」―外からおさえつけている大きな手なんて、本当はないんだとぼくは思うよ。自分を苦しくさせていると思いこんでいるもの、それは、あなた自身が自分をおさえつけているものだと思うんだけれど、どうかな。ぼくは、あなたのぴったりの手で、あなた自身を優しくなでてほしいんだ。「わたしはわたしなりに、一所懸命だよ。命を大事にしているよ。自分の良いところに目を向けようとしているよ。ひとのこともいたわろうとしているよ。一人ひとり、みんなみんな大切な存在なんだから。みんなみんな神の子どもなんだから!」って、ね。
★神は愛です。(聖書))
★いつも読んでくださり、ほんとうにありがとうございます。