祈りは神との対話
聖書は、私には、歴史物語でも人生訓でも、イエス・キリストの伝記でも、現代や未来への予言書でもない。私にとって聖書とは、「生きるよりどころの書」である。
この聖書がなくては、祈ることができない。
祈りは神さまとの深い・熱い対話だと思う。
だから、語り合う相手、相談し、助けを求める相手、その方の考えや気持ちがわかりたい。聖書を読まなくては、ちゃんと対話ができない。
以前、会社の同僚から、「お祈りしています」という言葉を聞いたことがあった。風邪か何かで会社を休むために電話したとき、応じてくれた人の言葉だった。
私は一瞬、この人はクリスチャンか仏教徒なのかと思った。が、これまでそのような話は聞いたことがない。「どうぞお大事に。早く良くなることを願っています」という意味で、そう言ってくれたのだろう。その心づかいはたいへん有難いことである。
けれど、なんとなくもやもやした気持ちにもなった。
祈ることは、自分より大いなる方への声である、と思っている。何を祈るかの前に、「誰に祈るか」が大事である、と。私の力ではどうにもできないと思い知るから、熱く・深く神に祈るのだ。
私自身、「お祈りしています」という言葉を口にすることは多い。そのとき、私の願いを語るのではない。私は、実際に神に祈る。
耳を傾けていてくださる神さまに、「あなたが解決の道を開いてくださいます、あなたが癒やしてくださいます、あなたが鎮(しず)めてくださいます、あなたがきっと助けてくださいます」と語りかける。信頼をこめて。
こんな貧しい者の祈りですが、どうぞどうぞよろしくお願いいたします、と。
絶えず祈りなさい。(新約聖書「テサロニケ人への手紙Ⅱ、5章17節)
●ご訪問ありがとうございます。
八木重吉という詩人に『貧しき信徒』という詩集がある。青空文庫という無料文庫でも読めると思う。全編が祈りであるような、清楚な詩集である。
貧しい信仰者であるとの自覚からつむぎだされたことばは澄んでいる。そのような祈りの言葉を、私もいつか口にできるようになりたい。