河野進の詩に導かれて
河野進の「見ている」という詩に導かれた。
見ている 河野 進
あの人の顔を見ていると
うれしくなる
たのしくなる
なごやかになる
あたたかくなる
微笑みたくなる
主イエスさま
どれか一つの顔をお恵み下さい
(河野進「今あなたは微笑んでいますか」聖恵授産所出版部)
「顔」に自信がない。
善なる心は顔にあらわれる、というときの顔、年齢とともに味が出てくる、というときの顔、そのどちらにも自信がもてない。
そもそも心に善がないわたしである。
思いやりより、柔和さより、感謝より、つつしみより、人の欠けを探したがる、皮肉りたがる、うぬぼれたがる、卑下したがる、忘れたがる、始末の悪いことに善人ぶりたがる心、それがわたしの「顔」となってあらわれるのである。
こんな毎日の堆積では、何年何十年と生きても、味のある顔などというものは、とうていもてそうにない道理なのである。
そこで、河野進のこの詩は、わたしの「顔」へのチャレンジではない、そうではなく、これまでに出会ってきたひとの中に思い当たる人はいないかと振り返る機会である、と、そう受け止めることにした。
うれしくなる顔―久しぶりに会う友人の顔
たのしくなる顔―孫たちのはじける笑顔
なごやかになる顔―マザー・テレサの写真の顔
あたたかくなる顔―母の遺影の顔
微笑みたくなる顔―妻が玄関で迎えてくれる顔
わたしの顔に自信がなくても、素敵な顔の持ち主とこんなにも出会えてきたのだ。そのことを誇りとすることには自信がもてる。
この先出会う人の中にも「年輪」を感じさせてくれる素敵な顔の持ち主がいるだろう。それを楽しみとしよう。
もう一つの歓びがある。
あの顔この顔と思い浮かべている間、―「うれしくなる・たのしくなる・なごやかになる・あたたかくなる・微笑みたくなる」顔を頭に呼び出しているあいだ、それらの全部にイエス・キリストの「顔」が映ったのである。イエス・キリストは、その顔すべての持ち主ではないかと、そう気づかされたのである。
●ご訪問ありがとうございます。
「顔」については、若い頃から気にかけてきました。美醜の問題でなく、心の反映として。そして、自信がもてない自分だと思ってきました。
「いいお顔だなあ」と思う顔は、たくさんありますね。手を使って働く人の顔、お年寄りの顔、何人かの作家や芸術家や芸能人の顔、人のために労しているひとの顔、信仰をもって生きてきたひとの顔。どれも、深く生きてこられたんだなあと、そう感じさせてくれるお顔です。