ほいほいとぼとぼ日記・爺爺刻々

忍路環状列石その一

私がよく行く小樽の郊外というのは、結構、古代の遺構の多いところなのでありまして、古代と言えば、東京ロマンチカのヒット演歌「小樽の人よ」で歌われた「塩谷の浜辺の古代の文字よ」が有名であります。何度も何度も小樽に行っているわりに一度も「古代の文字よ」に行ったことのないのであります。しかしこれは、実際には塩谷の浜辺にあるのではなくて、塩谷の手前の小樽市内の手宮洞窟で見つかった壁画でありまして、国内よりもアムール川流域で見つかっている壁画と似ている点が指摘されているという国際的なものであります。この壁画が刻まれたのが、今から1600年くらいまえという話で、本州はすでに古墳時代を迎えていたころでありますが、こちらの文化形態は縄文文化であり、狩猟民族の方々がいらっしゃったのでありましょう。この方々は、後に蝦夷(えみし、えびす、えぞ)と呼ばれたのでありますが、現在のアイヌの方々の祖先であったのでしょうか。
さて、それを遡ること2000年くらい前だから、今から3500年前に作られたと思われるのが、小樽から余市への国道5号沿いではない小樽環状線から函館本線沿いで同じく小樽から余市へ向かう2車線の気持ちのいい幹線道路沿いにこれからご紹介する3つの環状列石が、約3kmの直線上にあるのであります。左から西崎山環状列石、地鎮山環状列石、そして忍路環状列石の環状列石群なのであります。
ただ、ご注目は、忍路と西崎山を結ぶストーンサークルラインに地鎮山も並んでいるので見事に直線上にあるのであります。これは偶然の一致なのでありましょうか?航空写真をみていただければ、怪しさがましてくるのであります。真ん中あたりに未発見の環状列石群があるのでないか?とお思いになりませんでありませんか?

と言うと、二つを結べば直線になるのは当たり前で、たまたまそのそばに地鎮山があっただけだろうと反論の方も多いかと存じますのでありますが、このストーンサークルラインが、夏至の太陽が上がる方向を指しているとあえては申しませんのであります。ワタクシが発掘に行ければよいのでありますが、資金、時間も無い身分ゆえ、後の研究者の方の研究に任せましょうなんちゃってであります。

それでは、真打ちは忍路環状列石にゆずるとすれば、前座なんて言うと失礼ではありますが、見た限り全体のサイズと列石一つの大きさが小さい順にご紹介するとなると航空写真の左側の西崎山環状列石から参るのであります。

場所は余市町と小樽市のちょうど境界線のあたりで、幹線から脇道に入ってすぐで、なんとここ専用(?)の駐車場があるのであります。一番近い駅は函館本線の蘭島でありまして直線距離では400mですが、実際には1km近く廻らないと行けませんのであります。興味深いのは、手宮洞窟と同時代と考えられているフゴッペ洞窟からわずかに800mくらいしか離れていない標高70mの山の頂上に作られているのであります。時代的には、列石群が2000年も古いのでありますが、同じ縄文人の先祖がここを作り、その子孫が2千年後にフゴッペ洞窟で印刻をしていたのでしょうか?

さきほど、余市と小樽の境界にあると書きましたが、説明看板では余市町教育委員会の管轄と分かるのでありまして、かつ「道指定史跡」という格付けが書いてあります。
ここは正確には環状列石と言えるのかというと説明書きにあるとおり、直径で1m程度の小さなサークルの集合群と言えると思うのであります。研究された方々の結論では、お墓の集合というお話でありまして、それが円形に配置されて結果的に大きなサークルになった印象でありますが、囲んでしまったのでサークルに見えると捻くれて思うのはワタクシだけでありましょうか?


小さなサークルというとこんな感じであります。

たしかに真ん中に立石がありその周りを寝ころんだ石が囲んでおります。この立石の下が1mほど掘られていてそこに納骨されていたらしいというお話でありますので、ざっと、ここには10人程度の方々が埋葬されたのではないかと推察するのであります。中心らしき石が下の写真ですが、どうも瓢箪のようで「俺は中心であるのよ」とは語っているパワーを感じないのであります。皆様はいかがでございましょうか?

石の周りに紫色の物体が見えますが、これは片栗の花だそうで同行してくれた従姉妹が教えてくれたのでありますが、綺麗な色であります。


さて、4月下旬の取材の第一弾を1ヶ月もかかってようやくアップできましたのでありまして、つぎはいつになるのか保証の限りではありませんが、次回のお題は「地鎮山の謎に挑む」のであります。
次回は、来週?でわ、お楽しみに。

コメント一覧

junji
良く分からない遺跡
私はこの近くで生を受けた者です。実はこの辺りの遺跡は大正の末年に既に発見されていました。私は戦後生まれですが、アイヌ歌人である違星北斗がフゴッペ洞窟に関した論文を大正9年(記憶に間違いがあるかも知れません)に発表しております。北斗は日本語の「コモリク」と同等の解釈をしております。昭和30年前後に、私も親の引率で西崎山ストンサークルとフゴッペ洞窟内部を見ました。
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