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ほいほいとぼとぼ日記・爺爺刻々

旗が岡八幡宮御輿渡御

先週の話で恐縮であるが、カメラからデータを移し忘れていたので、つい書き忘れていた話題と言ったら、我が郷土の旗が岡八幡宮様に怒られるので、思い立ったので早速書くのである。
さて、我が旗が岡八幡神社は、実は結構偉い神社なのである。ここで、神社の格をウィキペディアで調べると近代社格制度では、神社の格を大きく官社と諸社に分けるそうである。官社とは、祈年祭・新嘗祭に国から奉幣(寄進)を受ける神社であり、諸社(民社)は、地方自治体や藩から奉幣を受ける神社で、明治時代の順では府社、県社、藩社が同格で、その下が郷社、村社、無格社の順なのだ。つまり、郷社は東京市の時代なら市とか区あたりから奉幣を受けた由緒ある神社なのだ。
品川区内では、ワシが調べた限りでは和銅2年に作られたという荏原神社が郷社であるだけで、なんと品川区ではナンバー1ランクなのね。
さて、その歴史を簡単に。「旗が岡八幡神社は、長元3年に平忠常が下総で乱を起こすや、源頼信光朝令を奉じてその平定にはせ参じ此の地に宿営した時、霊威を感得して戦勝の守護神である八幡大神(誉田別命)を奉斉したのが発祥とされる。また、そのときに源の旗を大いに靡かせ、武威を誇ったということから「旗ヶ岡」「旗の台」の呼び名で残っている。」という勝利の印なのだ。その後は、源氏の庶流である荏原左衛門(1231~1285 荏原の地名の由来の方)が、当地の領主となるや社殿の建立を志し、源氏の守護神のみならず地域の鎮守としての後神徳の発揚に努力してくれたのである。また、神社鳥居の横にある絵馬殿に幕府の絵師狩野探玄が娘の病気平癒を祈願し全快した時の礼で140枚の絵があったが、惜しくも戦災で焼失してしまったのである。」というありがたき神社なのである。総面積は1493坪で、氏子地域は東中延1~2、戸越5・6一部、豊町6一部、中延1~6、二葉4一部、西中延1~3、荏原4一部、荏原6、旗の台1~6丁目という約20町会を氏子に持つのである。
さて、お祭りは9月の第二日曜日となっているが、八幡神社の神輿は担ぎ手が増えたこともあり、地域持ち回りとなったようである。昔は、担ぎ手がいなくてトラックでまわったこともあったような記憶がある。今年は、中延地区をまわったのである。
氏子総代の方を先頭に、鳶の方々と神社の半纏をまとった方々がついて、その後を神輿が行く。すっかり、形になったものである。(つづく)
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