私が、初めて、ばんえい競馬に出会ったのは、1967年(昭和42年)の夏でした。
アルバイトでパドックの馬名表示板に馬名と馬体重を石灰の粉を水で溶いて、筆で書く仕事でした。
もちろん、アシスタントでキャップは、年老いた人でした。
馬名版の両面を使うようになっていて、馬名版は、二組用意されていました。
たとえば、1レースを表の板に、2レースを裏面に、そしてもう一組の板に3レース、4レースの馬名を書いて、一休み。
1レースの馬がパドックから出て行ったら、すぐ板を外して裏面が見えるようにセット、2レースのパドックが終わると、
板を取り外し、もう一組用意している3レースの表示板をセットし、取り外した馬名版を濡れ雑巾できれいに消して、板が
乾くや否や5レース、6レースの馬名を書く作業でした。
このサイクルで、12レースまでやって終わり。
キャップのご老人は、ばんばに詳しく、教えられるとおり馬券を買ったりもしました。(ほんとは、買えないのですが当時は、あま~い!)
当時の競馬場は、こじんまりとした木製づくりのスタンドでミシミシ、きしむ音が聞こえていました。
馬券も、薄っぺらい紙に、穴を開けた数字が刻印されていました。
発売窓口も、1-2、1-3から順に・・・・・7-8、8-8(当時は枠番連複、単勝、複勝の3種類)まで指定されていて、本命の組み合わせの窓口は多めに作らていました。
競馬新聞をすべて取り揃え、印を見ながら窓口をいくつにするか検討していました。
馬券は、200円券(バラ券)と1000円券(特券)の2種類で、バラ券売り場と特券売り場に分かれていました。
あらかじめ両替して、つり銭が不要のように買わなければならないのが、不便でした。
多くのファンは、バラ券購入が殆どで、売り場を1周するなどそれも人ごみにもまれ、しかも、当れば払い戻し場所は、別棟で
行ったり来たりと運動量もかなり多かったです。
ファン層もいろいろなヤカラの人が多く、鉄火場と化しているような雰囲気でした。
今日のような和やかな雰囲気には、馬の息吹とともに、とても癒されます。
ばん馬の涼しげな瞳と、グラマーなお尻に魅せられ、いまだに夢を追っかけています。
「馬に病んで 夢は十勝野を 駆け巡る」かな、です。
アルバイトでパドックの馬名表示板に馬名と馬体重を石灰の粉を水で溶いて、筆で書く仕事でした。
もちろん、アシスタントでキャップは、年老いた人でした。
馬名版の両面を使うようになっていて、馬名版は、二組用意されていました。
たとえば、1レースを表の板に、2レースを裏面に、そしてもう一組の板に3レース、4レースの馬名を書いて、一休み。
1レースの馬がパドックから出て行ったら、すぐ板を外して裏面が見えるようにセット、2レースのパドックが終わると、
板を取り外し、もう一組用意している3レースの表示板をセットし、取り外した馬名版を濡れ雑巾できれいに消して、板が
乾くや否や5レース、6レースの馬名を書く作業でした。
このサイクルで、12レースまでやって終わり。
キャップのご老人は、ばんばに詳しく、教えられるとおり馬券を買ったりもしました。(ほんとは、買えないのですが当時は、あま~い!)
当時の競馬場は、こじんまりとした木製づくりのスタンドでミシミシ、きしむ音が聞こえていました。
馬券も、薄っぺらい紙に、穴を開けた数字が刻印されていました。
発売窓口も、1-2、1-3から順に・・・・・7-8、8-8(当時は枠番連複、単勝、複勝の3種類)まで指定されていて、本命の組み合わせの窓口は多めに作らていました。
競馬新聞をすべて取り揃え、印を見ながら窓口をいくつにするか検討していました。
馬券は、200円券(バラ券)と1000円券(特券)の2種類で、バラ券売り場と特券売り場に分かれていました。
あらかじめ両替して、つり銭が不要のように買わなければならないのが、不便でした。
多くのファンは、バラ券購入が殆どで、売り場を1周するなどそれも人ごみにもまれ、しかも、当れば払い戻し場所は、別棟で
行ったり来たりと運動量もかなり多かったです。
ファン層もいろいろなヤカラの人が多く、鉄火場と化しているような雰囲気でした。
今日のような和やかな雰囲気には、馬の息吹とともに、とても癒されます。
ばん馬の涼しげな瞳と、グラマーなお尻に魅せられ、いまだに夢を追っかけています。
「馬に病んで 夢は十勝野を 駆け巡る」かな、です。