文化遺産としての赤塚不二夫論 今明かされる赤塚ワールドの全貌

赤塚不二夫を文化遺産として遺すべく、赤塚ワールド全般について論及したブログです。主著「赤塚不二夫大先生を読む」ほか多数。

スラップスティックと鳥滸の笑いのミクスチャー 『オッチャン』

2021-12-21 22:39:06 | 第6章

『ギャグギゲギョ』終了後、「少年キング」では、間を置くことなく、赤塚の新連載漫画が、引き続きスタートする。

土の中に埋まって眠るパイナップルのような風貌の中年男・オッチャンと、水中で眠る習性を持ち、池の中を棲みかとするカエルに似た少年・ボッチャンの怪人怪童コンビを主人公に迎えた『オッチャン』(74年39号~45号、47号~75年37号)という作品である。

オッチャン、ボッチャンは、親子ではなく、大人と子供の親友同士で、二人とも尋常ではないくらい好奇心旺盛。何か面白いことはないかと、常に大きな目玉を光らせ、街を徘徊している。

そんな二人が、毎回彼らの前に現れるエキセントリックな異分子らを巻き込み、その生来のテンションの高さと飽くなき野次馬根性から、馬鹿騒ぎを巻き起こしては、街中をシッチャカメッチャカにする、スラップスティックと鳥滸の笑いのミクスチャーが印象的な珍作中の珍作だ。

しかし、そうしたドタバタ劇を主としながらも、全体的に索漠とした要素は極めて少なく、読者を何処かメルヘンティックな夢想空間へと誘ってゆく、ファンタジー漫画的な度合いを強めたエピソードがその大半を占めている。

赤塚ファンの間では、時折『オッチャン』を『天才バカボン』と同一の地平に向き合った作品であることを指摘する声が上がる。

オッチャンとボッチャンのコンビを、バカボン親子との因果性に基づく構造的本質、即ち同筆の法則原理を併せ持つもう一つのキャラクターとしての印象を抱いているのは、筆者も同じである。

『天才バカボン』の連載が企画された際、赤塚は、主人公に据えた凸凹コンビが幸福の世界をさ迷う放浪物のプランを考えていたというが、『オッチャン』では、そうした残留思念が形を変えて具象化し、本作に統合したと捉えても差し支えはないだろう。

そして、オッチャン、ボッチャンコンビが街中で出会う奇々怪々なキャラクター達と繰り広げるズレと衝突のドラマもまた、バカボンのパパとバカ大の先輩後輩が巻き起こすナンセンス劇と同じ構造特性に連動するものであることも、重ねて追記しておこう。

そもそも、毎回種々雑多なフリークス達の登場が事件の発端となるその遊戯性は、バカ大生がゲストとして参加し、ナンセンス度をヒートアップさせつつあった中期以降の『バカボン』の持ち味となる、非日常に彩られた祝祭性と軌を一にする等質を孕んだものだ。

とはいえ、『オッチャン』に登場する奇怪なゲストキャラ達の言動は、ストーリーにメルヘンティックな寓話性を宿しつつも、バカ大の先輩後輩さえも凌駕する覚醒と狂操を包含しており、彼らの暴走が、『バカボン』のカオス的世界観以上に、現実的秩序との因果関係を解き放つフリーダムで、ちょっぴり歪な笑いを掬い上げてゆくのだ。

中でも、ザクトにサンポール、グラスター、カネヨクレンザーと、様々 な中性洗剤で歯を磨き、歯の光沢が放つ強烈な光で、自衛隊の戦車や戦闘機すらも蹴散らし、街を制圧する大男と、正義のために立ち上がったオッチャンとの死闘を描いた「恐怖のギンギラ人間」(74年49号)や、台風の季節になると、矢のように飛んでしまうガリガリの痩せ男が、必死で肥えようとするものの、胃袋が頭の中にあるため、顔だけアドバルーンのように膨れ上がり、その窮余の策として、自らが気象衛星となって台風を観測する「台風ときた風船男」(75年41号)などは、漫画表現における抽象の具現化を極限までデフォルメした、センス・オブ・ワンダーに満ちた怪作であり、それらアバンギャルドな着想は、キュビズムの自由増殖がもたらすデペイズマン的空間と同等のインパクトを放っている。

元々、「キング」掲載の諸作品は、『バカボン』や『おそ松』、『ア太郎』といった代表的な赤塚漫画とは趣を異にする、より自由度の高い作風を全般的に際立たせていたが、特にこの『オッチャン』は、そうした独特のオートマティスムが最もクリアな形で顕在化しており、数ある赤塚ギャグの中でも、『レッツラゴン』と並んで、笑いの極北に位置する異類譚と言えなくもない。

このように、『オッチャン』は、当初考えていた『バカボン』の骨組みを磐石に置きながらも、ドラマトゥルギーを組み換えることで、新たなギャグの地平へと辿り着いた稀有な好事例でもあるのだ。

因みに、この正体不明のオッチャンだが、その過去が白日のもとに晒されたエピソードが、連載中盤に描かれている。

「恐怖のモーレツ会社」(75年10号)と題された一編がそれで、オッチャンは、かつて、大工場を経営していた大社長という設定だ。

記憶を喪失し、ボッチャンと共に暮らすようになったオッチャンだが、ある時、過去の記憶が甦り、自ら経営している工場へと向かう。

だが、工場は、悪辣な人間らに経営権が譲渡されており、従業員達はみな、安い賃金でコキ使われていた。

オッチャンは、先頭に立ち、従業員達と工場奪還のクーデターを起こす。

そして、現経営者らを追放し、再び元の明るい職場に戻ると、オッチャンは、またしても記憶を失い、ボッチャンのもとへと帰ってゆく……。

ドラマの論理的整合性をも堀り崩す、不合理な白昼夢が渦巻くその世界観において、一服の清涼剤として、読む者の心を綻ばせてくれる名編の一つだ。 

『オッチャン』は、約一年の連載で一旦最終回を迎えるものの、読者の熱烈なラブコールに応え、連載終了から一ヶ月後、『オッチャンPARTⅡ』(75年27号~76年19号)と改題され、再開の運びとなる。

『オッチャン』、『オッチャンPARTⅡ』、ともに換算し、丸二年に渡って連載され、その間、頻繁にカラーページで掲載されるなど、大きなヒットには至らなかったが、「少年キング」読者からは、それなりの愛顧を得ていたようだ。


『ギャグギゲギョ』 ブラックユーモアと センス・オブ・ワンダーの分水嶺を境とした異端の一作

2021-12-21 22:38:06 | 第6章

さて、本章での紙面も残り少なくなってきたので、最後に、赤塚にとって主戦の舞台となった「週刊少年サンデー」、「週刊少年マガジン」以外の少年週刊誌、青年誌に、1974年から数年間の間に発表された、赤塚時代の最後の光芒とも言うべき諸作品についても、マニアックな注釈を添えながら、論述してゆきたいと思う。

1972年より丸二年間に渡り、長期掲載されたリバイバル版『おそ松くん』の終了後、「週刊少年キング」では、後に『ギャグの王様』のタイトルで、上巻、下巻に分けて単行本化される『ギャグギゲギョ』(74年5号~38号)の連載が開始される。

特定の主人公を定めず、毎回、パンチの効いた特技と個性を持った異常人物達が、我こそがその道の王様だと言わんばかりに、どぎつく画稿狭しと暴れまくる、ブラックユーモアとセンス・オブ・ワンダーの分水嶺を境にした異端の一作だ。

中でも、元旦、動物園を脱走した巨大虎に、身体ごと飲み込まれてしまったホームレスが、体内で虎を自在に操り、獅子舞い宜しく、珍芸、曲芸を披露して大金持ちになる「トラの絵の王様」(74年6・7合併号)や、いじめられっ子が、いじめっ子を復讐しようと、五〇年の歳月を待つものの、死んだその時、身も蓋もないどんでん返しに足元を掬われる「忍耐と勝利の王様」(74年35号)等は、ブラックユーモアの枠組みを突き抜け、ハード&エッジなイリュージョンへのサブリメーションを施した、取り分け傑作の部類に入る作品群である。

人間のそこはかとない煩悩や負の生理的メカニズムを、非日常に照らし合わせて誇張したエピソードも多い本作のテイストは、特定の主人公を設定していない形質も含め、以前、青年向けナンセンスとして「リイドコミック」誌上に連載されていた『名人』(71年12月創刊号~73年6月号、『名人‼』(読み切り)77年3月17日号)の流れを汲むものであり、その系譜は、時を経て、同じくリイド社より新創刊された「コミック野郎」連載の『あんたが名人』(77年8月創刊号~78年4月号)へと縮小再生産される。

『名人』では、所謂青年層に照準を合わせ、セクシャルに纏わる背徳的なテーマや、良識を挑発するような超モラルな作品等が幾つも執筆されたが、この『ギャグギゲギョ』もまた、子供向けの荒唐無稽な笑いを身上としながらも、同誌の想定読者層の理解の範疇を越えているであろうハイブローなギャグがさらりと描かれており、シュールな世界観にも通底する、スぺキュレイティヴなフィクションを枠組みとしたエピソードも数多い。

そんな漫画本来が持つ出鱈目なドラマが、奇抜な着想を得て展開された時、読み手の脳を軟化させるような、前代未聞となる笑いのセオリーを生み出してゆく。

連載後期に描かれた「地球最後の日の王様」(74年31号)などは、まさにその典型である。

長い大雨の日が続き、また雨が止むと、今度は恐ろしく暑い異常気象となり、この世は辺り一面カビだらけの世界となる。

ノストラダムスの大予言にも記されていない天変地異に恐れ戦く人間達。気象現象は更に悪化し、人々の身体が糸を引くように溶け出してゆく。

そして、この世の最後か、天空からは、黒い雨が降り注ぎ、今度は放射能なのか、真っ白い粉雪状の結晶が世界全土を覆い尽くす。

やがて、幾つもの円盤が地球に不時着し、最後には、黄色く光る巨大な流星が地球を飲み込み、遂に全人類は一巻の終わりを告げる。

最後のコマは、一家団欒の食卓。母親がお皿に入っている何かを、箸でかき混ぜながら一言「きょうのナットウはよくねばるわ」。

実は、このエピソード、納豆が出来るまでを綴ったもので、作中登場する人類は水戸納豆、黒い雨は醤油、粉雪状の結晶は味の素、不時着した円盤は刻みネギ、黄色い巨大流星は生卵に見立てたギャグになっているのだ。

恐怖漫画を想起させる殺伐としたカタストロフィーが一気にナンセンスな笑いへと跨がってゆくその見事な脱線は、読者に一時の放心をもたらす、赤塚ならではの高度なスカシのテクニックと言えよう。


経理担当による巨額の横領事件 週刊誌五本、月刊誌七本の超大量生産時代

2021-12-21 22:37:13 | 第6章

このように、連載、読み切りを含め、1974年から76年頃に掛けてのこの時期、赤塚の平均的な執筆スケジュールは、週刊誌五本、月刊誌七本と、更にタイトを極め、その作品数は突出して増大傾向を迎えた。

これだけの仕事量を抱えるようになったのも、出版社側の一方的な意向だけではなく、非常に切迫詰まった事情が、赤塚サイドに重くのし掛かってきたからだと言われている。

その事情とは、長きに渡り、フジオ・プロで金銭管理全般を一任されていた経理担当のHによる、二億円を越えるとも言われる巨額な使い込みの発覚であった。

この横領事件が露見した際、加えて、所得税も長期に渡り、全く納税されていないことが判明し、その延滞税だけでも、六〇〇〇万円は下らなかったという。

この少し前、赤塚は前夫人と協議離婚が成立し、中野区弥生町の邸宅や御殿場に持っていた別荘地の権利を明け渡したほか、我が子への毎月四〇万もの養育費も加え、占めて二億五〇〇〇万以上もの慰謝料を支払っていた。

それに加算し、「まんが№1」の刊行で被った五〇〇〇万円の赤字もあり、フジオ・プロは実質的に倒産の憂き目に遭うこととなる。

Hから横領された二億円の中には、古谷三敏や芳谷圭児といったフジオ・プロ所属の売れっ子作家達のプール金もあり、金の切れ目が縁の切れ目とでも言おうか、二人はこの金銭トラブルにより、フジオ・プロを退社。経理部に席を置いていた弘岡隆と各々のスタッフを引き連れ、自身らの制作プロダクション〝ファミリー企画〟を設立する。

猜疑心の強い古谷は、時折、Hには目を光らせたほうがいいと赤塚に忠告していたが、その都度赤塚から、仲間を疑うものではないと、逆に諭されていたという。

事実、Hは、横領が発覚する随分前から、小学館をはじめとする複数の版元に、相当な額に上る赤塚の原稿料を前借りしていたようだ。

Hの不正は、そのバンスの額が途方もなく桁外れであったため、不審に思った小学館サイドが、当時赤塚のマネージャーだった横山孝雄と会談を設け、内偵を進める中、漸く事実として表面化したのである。

元淀橋税務署職員だったHの遣り口は、悪質極まるもので、横領した二億円の行方は、不明瞭なまま、その後、一切明らかにされることはなかった。

結局、Hは警察での拘留中、黙秘を貫き、検察側も、立証の目処が全く立たなかったため、仮に起訴まで持ち込めたところで、微罪程度にしかならないと判断せざるを得なかった。

自らの管理上の不手際を反省した赤塚は、全てを自己責任として受け入れただけではなく、若いHの将来も考えたうえ、被害届けを取り下げた。

その後、Hの実父が六〇〇万を用意し、赤塚もその父親の気持ちを酌んで、示談金として受け取り、結局この横領事件は不起訴処分となってしまった。

確かに、赤塚の心意気は潔く、この上なく男気に溢れていると言えようが、当事者としての立場を鑑みると、古谷が赤塚に対し、怒りや歯痒さを禁じ得ないのも無理からぬことだ。

また、赤塚が「まんが№1」を創刊した際、古谷にとって、相容れない存在である長谷が、ほぼ編集の実権を掌握していたことも、内心苦々しく感じていたそうだ。

ほかにも、離別を考え直して欲しいと懇願したにも拘わらず、その願いを一切聞き入れてもらえず、前夫との協議離婚を、何の相談もなく成立させたことも、古谷の心が、赤塚から離れてゆく遠因になったと言われている。

そして、この横領事件による自身への金銭的な大打撃こそが、赤塚と袂を別つ決定打となったことに、疑いの余地はないだろう。

後年、赤塚関連のインタビューで、フジオ・プロを去った理由として、赤塚がテレビ番組やバラエティーショーなどに出演し、芸能界に深入りするようになったことで、漫画の第一線から離脱したことを挙げていたが、これはもっと後の話であり、古谷としては、金銭的なトラブルや長谷との確執については、気恥ずかしさもあり、あまり語りたくなかったのかも知れない。

こうして、古谷と芳谷という二人の人気作家が独立し、フジオ・プロは、赤塚個人の制作プロダクションとして、規模を縮小し、再スタートを切ることになる。

国税庁が、「まんが№1」で出した負債を、企業経営の一端として容認してくれたため、フジオ・プロは、表面上の破産、倒産といった最悪の事態を免れることが出来たのだ。

心機一転、赤塚は、延滞税と古谷ら関係者が被った被害額を全額取り戻すべく、新たに提携した会計事務所の管理のもと、どんなマイナー誌でも、オファーが来た仕事は全て引き受けることにした。

その結果、赤塚は二年足らずで全ての借金を清算し、この間、膨大な傑作、怪作を世に残すこととなった。

当時、この猛烈な仕事ぶりを目の当たりにした武居記者は、漫画家として再びハングリーな状況に戻してくれたHに、赤塚は恰も感謝しているかのように見えたと、後に述懐している。

因みに、この時期、ギャグ漫画の巨匠としての赤塚の存在感は、名実共に際立ち、1975年には、イラストレーターの和田誠責任編集による赤塚ワールドの記念碑的集大成本『赤塚不二夫1000ページ』が話の特集よりリリースされる。

和田誠が独断と偏見でセレクトした代表的な赤塚ギャグ漫画六作品に、金井美恵子、伊丹十三、中山千夏、井上ひさし、東海林さだお、畑正憲ら、各界の著名人による赤塚漫画に関するエッセイ、赤塚へのロングインタビュー、そして、当時としては最も精度の高い作品リスト等を約1000ページの中に凝縮した、電話帳よりも分厚いこの箱入りソフトカバーのアンソロジー集は、漫画家・赤塚不二夫を語る上でのモニュメンタルな一冊になっただけではなく、その後、谷岡ヤスジや藤子不二雄といった人気漫画家の1000ページ本が続々と刊行される先鞭にもなった。

また、本書の刊行を記念し、翌76年4月2日から池袋の西武デパートにおいて、〝赤塚不二夫1000ページ展〟なる原画展が開催され、連日大盛況となるなど、副次的なトピックをもたらしたことも、ここに追記しておこう。


『ウンコールワット』『ガキトピア』 ギャグ漫画の登竜門・赤塚賞設立とジャンプ愛読者賞

2021-12-21 20:59:48 | 第6章

1974年、これまでギャグ漫画の発展に尽力してきた功績が認められ、明日の赤塚不二夫の発掘を担う、ギャグ漫画界における〝芥川賞〟的な位置付けと言っても憚らない〝赤塚賞〟が、集英社「週刊少 年ジャンプ」誌上にて設立される。

審査委員長の赤塚以下、第一期の赤塚賞審査員には、青島幸男、東海林さだお、とりいかずよし、永井豪、藤子不二雄、山田洋次等、放送、漫画、映画といったあらゆる芸術文化で、上質且つフレッシュな笑いを提供してきたビッグネームがその名を連ねたほか、入選作品には、手塚杯と同額の五〇万が贈呈されるという、ギャグ漫画部門としても、破格の規模を誇る新人漫画登竜門だ。

そうした自身の名を冠する新人賞が創設された流れから、74年から77年に掛け、年に一度、約一〇名の選りすぐりの人気漫画家が毎号バトン形式で読み切りを発表し、その年のMVPを、読者投票によって決めるという〝ジャンプ愛読者賞〟を中心に、集英社系の雑誌を媒体とした数々の珍作、怪作の長編読み切りを執筆することになる。

その中でも、絶大なインパクトを残したのは、「週刊少年ジャンプ」〝愛読者賞〟初のノミネート作となる『ウンコールワット』(74年20号)であろう。

その地方にしか生息しないとされるモンキーチョウを求めて、ウンコジャ国にやって来た〝ウン考古学者〟のクソ塚不二夫が、鬱蒼とした密林からさ迷い出ると、そこには、ウンコジャ国の伝説にその名を刻む宮殿都市・ウンコールワットが、目の前いっぱいに広がっていた。

ウンコールワットで、一〇〇〇年に渡り、この都市を守り続けてきたという、ゴンのおやじそっくりな野グソ田少尉に遭遇したクソ塚不二夫は、未だベールに包まれているウンコールワットの興亡の経緯を少尉から詳しく聞くことになるが、彼から語られた話は、驚愕と戦慄に彩られたウンコールワット悲劇の歴史だった。

カンボジアにクーメル族がアンコールワットを建設したことを知ったクミトール族は、「なにクソ‼ 負けてたまるか」とばかりに、ウンコジャ国最高のユートピア・ウンコールワットを築き上げる。

クミトール族は、みんな、頭上にウンコを乗せ、ウンコを神として崇めていた。

ウンコジャ国は、ウンコ文化の発信やウンコによる国交が盛んで、デカパン扮するデカフン王が国王に君臨した時、ウンコジャ国の隆盛は最盛を極めることになる。

だが、ウンコジャ国の栄華も束の間、クミトール族の叡智を結集し、築き上げたユートピア・ウンコールワットは、ある日突然壊滅し、ウンコールワット、そしてウンコジャ国は脆くも滅び去ってしまう……。

田中総理大便(大臣)、ユル・ゲリー(ユリ・ゲラー)、クソリーキング(ストリーキング)、ピクソ(ピカソ)のゲリニカ(ゲルニカ)等、ウンコに絡めた駄洒落をそのまま画稿に起こしたスカトロジックな笑いが、全ページに渡って満載されており、ダーティさに掛けては他の追従を許さない、赤塚作品史上屈指のキワモノ漫画と言えるだろう。

作品中盤では、自身のセルフカバー作品『クソ松くん』(赤グソビチ夫とビチオプロ)なるウンコ漫画も唐突にインサートされ、読む者を当惑させる。

しかし、フリーダムな悪趣味ぶりに貫かれたこれらのスカトロギャグは、圧倒的なスケールで読者に迫り、ギャグ漫画でありながらも、息付く暇もない、スペクタクル映画さながらの見せ場が、怒涛の如く連続し展開してゆく。

取り分け、クソの御岳山の大噴火によるウンコールワット滅亡のカタストロフは、エドワード・ブルワー=リットンの『ポンペイ最後の日』を彷彿させる壮大な興奮を、そのドラマの中に宿している。

また、ハチャメチャなストーリーでありながらも、フランス人博物学者・アンリ・ムーオが、一匹の蝶を追ってさ迷い込んだカンボジアの密林で、世界最大の寺院遺跡・アンコールワットに遭遇する史実をプロローグに被せたり、この作品が発表された当時、太平洋戦争の終結から二九年を経て、フィリピン・ルバング島より日本の地を踏んだ小野田寛郎元大日本帝国陸軍少尉のキャラクターを、狂言廻しの野グソ田少尉に重ね合わせたりと、赤塚独特の鋭敏なパロディーセンスが底光りしている点も見逃せない。

尚、野グソ田少尉がクソ塚教授に出会い頭で、「きみは鈴木青年か? クソッ‼」と尋ねるシーンがあるが、これはクソ塚教授を、実際の小野田少尉に日本への帰国を促した、冒険家の鈴木紀夫に見立てたギャグであり、そうした細かいパロディーが、随所に然り気無く散りばめられているのも面白い。

この後も、「少年ジャンプ」愛読者賞チャレンジ作品では、マジカルな悪夢が現実に起こり得るかも知れない、謂わば可視的な非日常世界でのパニックを戯画化したエピソードが連続して発表される。

世界的な大漫豪のバカ塚アホ夫が、砂漠に眠る、子供だけが住む楽園・ガキトピアに紛れ込み、国家建設の為、拉致軟禁される悪夢の数日間を描いた『ガキトピア』(75年20号)、同じくバカ塚アホ夫が、美の本質と普遍が真逆の価値観を持った地底の世界で、絶世の美男子として崇められるズレ笑いを、ムー帝国の滅亡に絡めて綴った『ウジャバランド』(76年19号)、またまたバカ塚センセイが主人公で、今度は、動物が人間を支配するアニマル王国に迷い込み、九死に一生の恐怖を体感する『アニマルランド』(77年14号)等、いずれも、謎が謎を呼ぶミステリアス且つ雄大な世界観と、そこで繰り広げられるナンセンスなドラマの不条理性を、剛腕の力業で、しかし違和感なく丁寧に纏め上げたまずまずの佳作と評点を付けて良いだろう。

尚、「少年ジャンプ」の傍流誌では、手塚賞・赤塚賞の漫画家特集を組んだ増刊号に、〝一家物シリーズ〟のラストエピソードとなった『タレント一家』(76年8月20日発行)、女房をアシスタントに寝取られたダメ漫画家と担当記者の複雑怪奇な関係を、退っ引きならない隠し子騒動に結び付けて綴った『子連れ記者』(77年1月15日発行)を執筆。

取り分け、『子連れ記者』は、従来の『ジャンプ』掲載作品とは幾分趣きを異にする、アダルティーなテイストを浮かび上がらせた小品に仕上がった。


その他の赤塚不二夫責任編集によるギャグ・マガジン 「ギャグマン」「ギャグアクション」

2021-12-21 20:56:52 | 第6章

さて、実際、何処まで編集作業に携わっていたのかは、不明だが、「まんが№1」の廃刊後以降も、名目上赤塚が責任編集を務めたとされる雑誌が複数冊刊行されることになる。

1979年に「アサヒ芸能」の臨時増刊として刊行されたギャグ・マガジン「ギャグマン」(2月20日発行)、そして、87年に「週刊漫画アクション」から発生した特別増刊「ギャグアクション」(「増刊漫画アクション」7月8日号)などがそれで、いずれも〝赤塚不二夫責任編集〟というキャッチコピーが銘打たれた。

「ギャグマン」は、「まんが№1」と同じく、パロディー・サタイア誌的な側面の強い雑誌であったが、漫画も複数本掲載され、巻頭のカラーページには、二部構成となった中編読み切り『めくるめっくワールド』 が執筆された。

夜はキャバレー〝ギムナジュウム〟で蝶となり、昼間は、〝天使のはらわた保育園〟の保母さんとして働く主人公・プリンセニカのファムファタル的な生き様をパロディックな視点で具象化した異色作で、醜悪さを湛えたリアルな描写が、読む者を非日常を顕示したアブノーマルの淵へと導く、赤塚には珍しいエログロ・ナンセンスとしての完成を見た。

当時大人気の竹宮恵子や石井隆風の疑似キャラクターと、赤塚キャラの記号的表現の融和による、知覚表象の破砕を意匠とした笑いの数々は、単なるパロディーでは片付けられない、既成の漫画表現からはみ出す新種のパラダイムを概念化しており、マイナーながらも、その作品価値は否定し難い。

「ギャグアクション」は、赤塚を筆頭に、山上たつひこ、江口寿史、新田たつお、いしいひさいち、相原コージ等、日本を代表する名だたるギャグ漫画家が一同に介した、豪華絢爛、究極のナンセンス漫画専門誌である。

巻頭のカラーページに掲載された『誘拐でウイロー』は、大病院の医院長(ダヨーン)の息子・チビ太を誘拐したイヤミとココロのボスが巻き込まれる非合理なトラブルと、哀切に満ちた顛末をヒューマニティー溢れる筆致で物語化した長編読み切りで、巻末には、長谷邦夫をはじめ、北見けんいち、よこたとくお、とりいかずよし、てらしまけいじ、河口仁ら、往年のフジオ・プロスタッフがリレー形式で、フジオ・プロの歴史をフィクショナルに綴った『フジオ・プロ ギャグ漫史』が掲載されている。

漫画雑誌以外の分野では、1983年に、赤塚が初監督したAV『こんなの初めて 帰って来たかぐや姫』(主演・相原慶子)を付録に付けた『赤塚不二夫のビデオナンバーワン』なるビデオ雑誌も、創刊号のみだが、ザ・スキャンが企画する『ビデオマガジン』シリーズの一環として、東映ビデオから発売された。

『メチャクチャ№1』や『母ちゃん№1』といった漫画作品同様、この『ビデオ№1』のタイトル使用からもわかるように、赤塚自身、〝№1〟という語句に並々ならぬ愛着があったことが窺える。

また、78年に、安普請の木造家屋を、現在の三階建てのフジオ・プロビルに改築して以来、玄関には〝フジオ・プロダクション〟の表札とともに、〝まんが№1〟と刻まれたプレートが掲げられており、そうした点を一瞥しても、赤塚の中で、またいつか、第二、第三の「まんが№1」を創刊したいという願望があったであろうことは安易に想像出来よう。