文化遺産としての赤塚不二夫論 今明かされる赤塚ワールドの全貌

赤塚不二夫を文化遺産として遺すべく、赤塚ワールド全般について論及したブログです。主著「赤塚不二夫大先生を読む」ほか多数。

天知る地知る読者知る② 『漫画に愛を叫んだ男たち』に見る長谷邦夫の虚言と歪曲

2024-07-27 14:29:24 | 論考

『漫画に愛を叫んだ男たち』(長谷邦夫著/清流出版刊/2004年5月9日発行)。

当ブログに定期的に訪れて下さる読者諸兄におかれては、決して存じ上げないタイトルではないだろう。

版元の清流出版は、1994年、ダイヤモンド社の元編集者だった加賀屋陽一によって立ち上げられた小規模出版社である。

加賀屋は、1986年から87年に掛け、長谷邦夫が、赤塚不二夫名義で、「ビジネス古典シリーズ」と銘打ち、『孫子』『葉隠』『君主論』『五輪書』『菜根譚』を代筆した際に、赤塚番・・・、もとい長谷番を務めており、その縁から、長谷とは昵懇の間柄になったという。

赤塚の代筆エッセイからも分かるように、長谷には文才に長けたところがあり、その才能に着目した加賀屋が丸々一冊書き下ろしのエッセイを書いてみないかと、長谷に打診したことで誕生した一冊だ。

どれ程の部数が刷られたのかは不明だが、一部の漫画ファンの間でも、名著との誉れが高く、その名は広く浸透しているようだ。

内容としては、長谷邦夫のこれまでの漫画家人生を振り返った回顧録的意味合いを深めたもので、その人生の多くを共に過ごした、かつての盟友、赤塚不二夫との出会いから別れまでが主なるテーマとして綴られている。

しかしながら、赤塚不二夫ディレッタントを自認する筆者には、その番頭役だった桑田裕、赤塚の糟糠の妻であった眞知子夫人との確執から、フジオ・プロを去らねばならなくなった際、引き止めてくれなかった赤塚への澱んだ感情こそが執筆のモチベーションになったと思わざるを得ない。

1960年代初頭から70年代半ばに至るまでの赤塚主導によるフジオ・プロ大量生産時代から、芸能界とアルコールに耽溺していった70年代末期以降の迷走期に至るまで、時にはアイデアブレーンとして、時にはゴーストライター、またはマネージャーとして、赤塚を陰日向となく支えてきた長谷にとって、相当な苦労を伴ったであろうことは充分に理解出来る。

ましてや、その友人知人達が異口同音に証言しているように、天才である反面、独善的な性格で知られる赤塚である。

俗に言えばガハハとDT。生真面目な資質を持つ長谷にとって、そのキャラクターと対峙するだけでも、筆舌に尽くし難い辛苦も当然ながらあったであろう。

従って、全ての内容が虚偽の申告であるとは言えないが、それを差し引いた上でも、赤塚への恨み辛みから、そのマイナスイメージを植え付けてやまない印象操作や偏向的記述が、事実に反し、目に付く有り様なのだ。

生前、特にその最晩年において、赤塚が、痛々しいまでに泥酔し、度々メディアに露出するなどといった醜態を晒すようになると、世間の風当たりも一層の厳しさを増し、かつてのファンにすらも愛想を尽かされるまでに至った。

事実、赤塚アニメのリバイバル路線が終焉を迎えた1992年以降、更なる酒量の増加と、著しい執筆量の減少から、赤塚に関する世評は「酒で身を持ち崩したアル中の元漫画家」という実に峻厳なバッシングへとスライドしてゆく。

1997年に日本漫画家協会文部科学大臣賞、翌98年には、紫綬褒章をそれぞれ受賞、受章したほか、自身の漫画家人生の足跡を振り返った「これでいいのだ! 赤塚不二夫展」が全国規模で開催され、取り分け、上野の森美術館では、期間中、六五〇〇〇人を動員し、ピカソ展やゴッホ展の記録を塗り替えるなど、ホットなトピックを振り撒いた赤塚だったが、赤塚に向けられた世のマイナス評価が覆されることは一切なかった。

赤塚不二夫史的な観点から申せば、『漫画に愛を叫んだ男たち』は、そんな赤塚が世を捨て、世に捨てられている時代の副産物として書かれた著作である。

マンガコラムストの夏目房之介は、アマチュア時代、赤塚に見せた自作の原稿を否定されて以来、赤塚の全人格、全作品に対し、憎悪の念を抱くようになったと語っていた。

そんな夏目が、『漫画に愛を叫んだ男たち』が刊行されて間もない2004年6月28日放送のNHK「BSマンガ夜話」の『まんが道』(藤子不二雄A)をフィーチャーした回で、本書を持参し、「赤塚不二夫もトキワ荘時代を描いているが、殆ど長谷邦夫が代筆している」といった旨の発言をしており、筆者としては、本書を語る上でこの一言を思い出さずにはいられない。

即ち、こうした妄言からも安易に察せられるように、赤塚に嫌悪感を抱いてやまないアンチにとって、赤塚の負のイメージが印象操作された本書は、どんなに虚言や歪曲が含まれようが、神の教えを説いた聖典の如く、実に権威ある書物であったに違いないということなのだ。

(因みに、赤塚がトキワ荘時代について触れた作品は、『トキワ荘物語』(「CОM」70年5・6月合併号)、『これがギャグだ!! ギャグミュージカル ギャグほどステキな商売はない』(「別冊少年ジャンプ」73年7月号)、『ぼくの音楽青春』(「サウンドレコパル」80年9月号)の三作品が挙げられるが、いずれも赤塚自らの筆によるもので、長谷による代筆では断じてない。)

但し、これらの長谷シンパサイザーは、決して長谷の描く漫画やエッセイのファンというわけではないだろう。

実際、長谷作品よりも、まだ赤塚作品の方が、現在においても、世間的な人気度や知名度、商業性に至るまで上廻っているように思えてならない。

『漫画に愛を叫んだ男たち』に関しても、あくまで、赤塚を揶揄するにはこれ以上にない書籍であり、長谷こそがアンチ赤塚を語る上で、シンボリックな存在だからこそ、大いに留意されているというのが筆者の見解だ。

かつて筆者は、「本気ふざけ的解釈」シリーズと称し、社会評論社より『赤塚不二夫大先生を読む』(11年)『赤塚不二夫というメディア 破戒と諧謔のギャグゲリラ伝説』(14年)と、二冊の赤塚クロニクルを上梓した。

この二冊は、巷に蔓延る赤塚の不名誉な風説や世の赤塚理解に対する是正を目的として執筆したものだ。

その後もこの二冊を合本し、大幅な加筆訂正を加えた『天才・赤塚不二夫とその時代 文化遺産としての赤塚マンガ論』なる書籍を2022年にデザインエッグ社よりセルフ出版で刊行したが、限られた紙幅の中で全ての流言飛語を訂正することなど不可能で、長谷発による風説で斧正し得なかった箇所も多分にある。

本稿では、そうした忸怩たる過去を踏まえ、長谷邦夫が、『漫画に愛を叫んだ男たち』、『赤塚不二夫 天才ニャロメ伝』(05年、マガジンハウス)、そして長谷の自伝的エッセイ『桜三月散歩道 あるマンガ家の自伝』(11年、水声社)で囃し立てた、赤塚に対する扇情的且つ謀略的な喧伝を一つ一つ精査して取り上げ、微に入り細を穿つ解説とともに、徹底して批正してゆきたい。

長谷といえば、有名な『天才バカボン』の「サンデー移籍事件」の発端となった張本人だが、全てを赤塚自身が勝手にやったこととして記述している。

「それは赤塚自身が決意して起こした問題であった。彼は突如として「週刊少年マガジン」で人気急上昇中の『天才バカボン』を、こともあろうに最大の対抗誌「少年サンデー」に移籍連載すると言い出したのである。

「小学館第二編集部の部長広瀬(名和註・徳二)さんから頼まれたんだよ。マガジンの内田さんに謝りに行くから一緒に行こう」

「本気でそんな無茶なことをするのか。冗談がきついよ。バカボンを起こすため、内田さんは漫画班と一年かけて準備したんだぜ。黙ってオーケイすると思う?」

完全な作家のルール違反であった。まず、常識ではこんな行為を作家はやらない。」

事実、『バカボン』の移籍連載は、長谷の一言によって始まったのだが、それを指摘する赤塚に対し、長谷は声を大にしてこう否定している。

「人間はいやな記憶は忘れやすいというが、後年の赤塚はこのあたりの事情を、「長谷の政治だった」などと担当編集者たちとの座談会で発言している。とんでもない。

スタジオを村田ビルに移した時点で、ぼくが赤塚の連載作品やテレビ出演のマネージメントから降りたことはすでに書いた。だから、作品をやめたり起こしたりについて、ぼくは〈決定〉をしていないのである。」

何故、『バカボン』移籍の張本人であることを、長谷はここまで頑なに否定するのか、その辺りの詳しい事情は、前記事の「赤塚不二夫と長谷邦夫の40年に渡る友情と確執 そして絆」において記述しているので、ここでは一切述べないが、この時、赤塚のマネージメントから降りているというのは、長谷の言い逃れである。

村田ビル移転後、間もなくしてスタートした『マンガ大学院』(「少年ブック」69年1月号別冊付録〜69年4月号別冊付録)の3月号別冊付録の冒頭で、長谷自身、赤塚のマネージャーを務めていると語っているし、この時、「スポーツニッポン」の記者だった小西良太郎の紹介により、アングラ劇団の女優で、峰良恵なる女性が一時期、赤塚の付き人を務めていたが、何よりも超多忙を極める赤塚のスケジュール管理は、古い付き合いの長谷こそがもってこいの存在だったのは、赤塚自身、至るところで述べている。

だが、その当事者の一人でもある「週刊少年サンデー」の赤塚番記者だった武居俊樹が自著『赤塚不二夫のことを書いたのだ』(文藝春秋社、05年)で、酒席での長谷の一言が『バカボン』移籍の切っ掛けとなったと綴っており、観念した長谷は、以下のような言い分で渋々その事実を認めている。

「酒はやっとビールが人並みに飲めるようになってきた頃だが、酔うのは早い。勢いでこんなことも言った。

「そんなにマガジンのバカボンが気になるなら、サンデーがかっぱらったらいいよ」

自分では記憶にない言葉である。しかし、この言葉が武居氏のヒントになって、彼が広瀬部長にバカボン移籍を強引にすすめてください、と進言することになったのである。 〜中略〜 バカボン移籍のヒントが、当時のぼくの酔った上での冗談発言にあった、と言われたときは、非常に驚いたものである。 〜中略〜 それを真面目な方向で武居氏は部長への意見として利用したのだ。移籍には、ぼくは赤塚に大反対をしたのだが、「部長から、おれとあんたとは兄弟みたいなもんじゃないかって言われて」、オーケーしてきたというのである。」(『あるマンガ家の自伝 桜三月散歩道』)

赤塚程度の存在なら、適当に言いくるめられると高を括っていた長谷だったが、切れ者の武居記者にはそれは通用しないと諦め、自身に最も罪が被らない方向で、このような歯切れの悪い記述をアンサーとして加えたのであろう。

因みに、『天才バカボン』の「サンデー」移籍騒動で、赤塚とフジオ・プロ関係者が講談社サイドより出入り禁止の扱いを受けたと、前出の『赤塚不二夫 天才ニャロメ伝』で描かれているが、これも全くの出鱈目である。

赤塚に関して言えば、「少年マガジン」誌で、『天才バカボン』が中断だった時期、また「少年サンデー」系列で『バカボン』が連載されていた期間や「週刊ぼくらマガジン」で連載が再開されるまでの間、例えば、創刊10周年を記念した「週刊少年マガジン」(69年14号)で、手塚治虫やトキワ荘メンバーを含め、当時、第一線で活躍していた人気漫画家とともにその表紙を飾っていたし、何よりも、その系列誌である「週刊ぼくらマガジン」連載の『死神デース』(70年49号〜71年19号)や、「別冊少年マガジン」に、滝沢解原作による特別読み切り「鬼警部」(70年12月号)、更には『狂犬トロッキー』(71年1月号〜9月号)といった連載作品が掲載されていた事実を鑑みると、この記述もまた、身も蓋もない虚言であることは一目瞭然と言えるだろう

長谷は、「移籍が決まってしまうと、フジオ・プロは講談社から毛嫌いの対象とされ、古谷三敏が『なかよし』に連載していた作品も、たちまち終了となってしまった。」と、『あるマンガ家の自伝 桜三月散歩道』で語っているが、これは『プリンセスプリンちゃん』(69年1月号〜12月号)のことを指しているのは明白で、『バカボン』移籍後も半年以上も継続しているし、何よりも、雑誌の中心読者層が求める内容とは些か乖離したものでもあるため、人気低迷の結果、打ち切られたと考えるのが妥当なところではないだろうか……。

だが、何故このように、古谷作品の打ち切りまで引き合いに出しているかと言うと、赤塚の独断による非常識的行為(あくまで長谷が主張したいところの)が齎した講談社サイドへの損害が、如何に甚大なものであり、また罪のない人間をも巻き込む迷惑極まりないものであったかを印象付けたかったからにほかならない。

真相を知れば知るほど、逆にこちらが恥ずかしくなるくらい、軽々しい動機による捏造なのだ。

『赤塚不二夫 天才ニャロメ伝』にも、虚言や事実誤認が多く、これらに関しても、この場を使い一つ一つ訂正してみたい。

「赤塚不二夫責任編集」と銘打たれた月刊漫画雑誌「まんがNo.1」を刊行するにあたり、「話の特集」の名物編集長であった矢崎泰久の実父・矢崎寧之が経営する日本社に配本を受け持ってもらう流れとなった。

矢崎寧之は、文藝春秋社の元重役で、その創設者でもある菊池寛の秘書を務めていたことでも知られるお堅い人物だ。

明治生まれで昔気質な寧之は、この時当時の若者の多くがそうであった長髪族が大嫌いだったという。

そのため、赤塚は頭を丸めて、寧之との面会に赴いたと描いているが、これは長谷の記憶違いである。

赤塚がトレードマークとも言える長髪をバッサリ切ったのは、「まんがNo.1」が創刊された以降の1973年1月23日、当時、新宿区河田町にあったフジテレビ第一スタジオで、東京12チャンネル系の「私のつくった番組 マイテレビジョン 赤塚不二夫の激情No.1」の収録に際してであった。

従って、「まんがNo.1」の配本コードの件で、日本社に面談に赴いた時期とは、タイムラグが生じるのである。

また、赤塚がこの時、番組のオンエアを通し、頭を丸めたのは、かねてより深く交際を続けていた、とある女性との結婚を真剣に考えており、前妻との離婚調停を見据えていた時期であったからである

件の交際女性の実父は、職業柄、たいへん厳格な人物であり、けじめの挨拶を付けるためにも、公開断髪に踏み切ったというのが真相だ。

1975年、総合電機メーカーのソニーがβマックス規格初のビデオデッキSL−6300の販売を開始。その発売に合わせ、ソニーは「週刊少年サンデー」の16ページを広告ページとして買い上げ、SL−6300の性能と利用法を簡便に伝えるPRコミックを赤塚マンガ的視点から表現して欲しいとの打診から、『ココロのボス』(75年31号)なる読み切り作品を赤塚は執筆する。

ストーリーになんの脈略もなく、申し訳程度にビデオデッキの宣伝を絡め、その用途の説明については、欄外に文字で記すのみという、広告漫画としての体裁は些か整えていないものの、ギャング団の首領であるココロのボスが、田舎からやって来る最愛の母の為、病院を占拠し、医者に成り済ました立派な姿を見せようと奮闘するが、予期せぬ出来事が突然発生したことで、偽医者のボスが心臓移植という、高難度な手術を施行せぬばならなくなったそのトラブルを綴った傑作エピソードである。

だが、長谷は『赤塚不二夫 天才ニャロメ伝』の中で、登場人物達が「ソニーのビデオデッキ」「ソニーのビデオデッキ」と16ページに渡り、ただひたすら「ソニーのビデオデッキ」ど連呼するだけのギャグもユーモアもない最低な手抜き漫画をそのまま寄稿したかのように語っているが、これも痛々しさを露呈した長谷特有のデマの一つである。

長谷は、赤塚が物事を徹底的に単純化することで、このような作家としてのプライドをも欠落した暴挙に出るという印象操作をしたかったのだろうが、赤塚がソニーのSL−6300のPR漫画を「週刊少年サンデー」に描いたのは、これ一本のみで、無論、他誌に掲載された同時期の赤塚読み切りを探しても、そうした内容のものはない。

また、長谷がこの時、ネームを担当したと語っているが、これも大嘘で、長谷が執筆したのは、間違いなく欄外に記されたSL−6300の性能や利用法についての説明文のみであろう。

尚、この「ソニーのビデオデッキ」の連呼は、この前年である1974年、元あきれたぼういずの坊屋三郎が外人相手に言い放つ「あんた外人だろ? 発音悪いね!」のフレーズが話題を集めた松下電機産業(現・パナソニック電工株式会社)のパナカラー・クイントリックスのヒットCMを模倣したものと思われる。

赤塚不二夫を取り巻く最低最悪な漫言放語の一つに、赤塚作品のほぼほぼ全てを長谷邦夫が代筆したものという、とんでもない出鱈目があるが、この辺りも長谷が代筆していないタイトルまで、自身が描いたかのように語ることから、発生するに至ったと見ていいだろう。

1978年、赤塚は、サンポウジャーナル社より新創刊された隔週漫画誌「コスモコミック」に『ニャロメの研究室』(78年9月20日創刊号〜78年12月20日号)という連載を立ち上げる。

『ニャロメの研究室』は、優れた学識を持ちつつも、鼻持ちならない学者ネコというキャラクター設定のニャロメが、毎回、アインシュタインの相対性理論や慣性の法則、ダーウィンの進化論等、マスマティクスやサイエンスといったアカデミックな分野を漫画と図解で解かりやすく解説したシリーズだ。

長谷は、この企画をネーム、コマ割り、下絵に至るまで全て自身が取り仕切ったと語っているが、下絵に関しては、赤塚自らが執筆している。

78年当時、赤塚連載のメインストリームだった『天才バカボン』(「週刊少年マガジン」67年15号〜69年9号 71年27号〜75年2号 75年43号〜76年49号ほか)や『ギャグゲリラ』(「週刊文春」72年10月16日号〜82年12月23日・30日合併号)といった作品群と寸分違わないタッチである点を照らし合わせれば、歴然として見て取ることが出来よう。

この指摘を読まれた一部のネットユーザーには、「『天才バカボン』にしても、『ギャグゲリラ』にしても、長谷邦夫が描いたものだから、同一のタッチに見えるのだ」と反論する向きもあろうが、赤塚タッチと長谷タッチの区別すら付かない読者に、今更詳しく解説し、理解の是正を求めることなど、土台無理な話であるため、これ以上の言及は避けておく。

ただ、長谷は、この時「コスモコミック」の巻末ページに『現代妖語解説』という、「アメリカン」「翔んでる」「フィーバー」「有事」「クロスオーバー」といった現代用語は現代用語でも、俗語に近い現代妖語を漫画で読み解くという異色のカルチャーコミックを連載しており、長谷自身、その記憶が混同している可能性もなきにしもあらずだ。

因みに、この「コスモコミック」は、赤塚の他にも、石ノ森章太郎、さいとうたかを、上村一夫といったビッグネームが執筆していたものの、創刊から僅か7号をもって廃刊の憂き目に遭う。

その後、この雑誌のエディターとして携わっていた坂崎靖司と山口哲夫は、編集プロダクション「波乗社」を設立。この両名の企画により、1981年から『ニャロメのおもしろ数学教室』『ニャロメのおもしろ宇宙論』『ニャロメのおもしろ生命科学教室』等をパシフィカより、描き下ろし単行本として刊行し、いずれも一〇万部を越えるベストセラーとなったが、これらの作品でも、長谷が構成とネームを担当し、赤塚の下絵でスタッフが仕上げるという創作スタイルを採用していた。

長谷も所詮は素人であり、現在の観点から見て、科学知識に対する理解の不手際などは否めないものの、一連のカルチャーコミックのヒットは、構成とネームを務め、この時、フジオ・プロのグーグル役を必死で担おうとしていたその奮闘があったからこそであると、それに関しては筆者も、改めて声を張っておきたい。

長谷は、赤塚との訣別を決心した理由に、1991年から「週刊女性」誌上にて連載開始された『へんな子ちゃん』(91年1月8日・15日合併号〜94年8月16日号)のアイデア会議にあったと、『漫画に愛を叫んだ男たち』の中で述懐している。

『へんな子ちゃん』とは、少女漫画誌「りぼん」にて、1967年9月号から69年8月号に掛けて連載されていた同名タイトルのリメイク作品である。

「毎週決まった曜日に(名和註・フジオ・プロビルの)三階の部屋へ行く。すると赤塚はその週のテーマやヒントをメモした原稿用紙を差し出すことが多くなった。

これが事前に一人でアイデアを考えているのなら、より充実したプラン会議ができる。しかし、そうではなかった。かつての作品からギャグを拾ってメモしたものに過ぎないのであった。担当編集者は若い女性である。そのことに気づかない。

ぼくは黙認するしかなかった。もしその事実を彼女の前で明かせば、赤塚は傷つくからである。

しかし、「週刊女性」は高年齢の読者もいる。かつて「りぼん」の愛読者で、『へんな子ちゃん』を憶えている人がいることも大いにあり得るのだ。ぼくは、用意されたアイデアを極力ボツにして、別の設定へ振り向けるよう話を誘導するしかなった。

ある週のこと、定例の日に部屋をのぞくと、「長谷、もうアイデアはできているから今日はいいよ」と、彼は言うのである。

どれ見せて、とそのメモを見ると、先週ボツにしたアイデアがそのままメモし直されていた。(ああ、もうぼくがアイデア会議に出る意味はなくなってしまった……)」

長谷は、旧作『へんな子ちゃん』で使われたアイデアを赤塚が焼き直しをして描いたように述べているが、りぼん版『へんな子ちゃん』と「週刊女性」版『へんな子ちゃん』では、同様のネタやストーリーなど一切ないというのが事実だ。

赤塚に限って、そこまでの殊勝なファンなど存在するわけもないが、「りぼん」版、「週刊女性」版の両シリーズを通読すれば、一目瞭然である。

これは、赤塚の漫画家としての不誠実ぶり、更には、長谷自身が赤塚に辟易しつつも、健気なまでに赤塚を慮る姿をアピールするために書いた杜撰な創作と言えるだろう。

作品を大量生産してきた巨匠漫画家が過去に使ったアイデアに再刃を施すことは、儘あることで、赤塚にも、その長い作家生活において、そうしたセルフオマージュを幾つか確認することが出来る。

この平成初頭の時代、赤塚が過去の自作のアイデアをそのまま拝借したのは、このリバイバル版「へんな子ちゃん』ではなく、「週刊現代」誌上にて連載された『赤塚不二夫のギャグ屋』(91年4月13日号〜11月16日号)の「デブの幸せ」(91年10月19日号)と、プロットの一部を流用した「コミックボンボン」連載作品『大日本プータロー一家』(90年10月号〜91年8月号)の「納豆でネバネバ!!」(91年6月号)からなる二つのエピソードである。

因みに、「デブの幸せ」では、「週刊少年キング」連載の『おそ松くん』(72年13号〜73年53号)の「となりのカワイコちゃん」(72年49号)、「納豆でネバネバ!!」では、引き続き「週刊少年キング」で連載された『ギャグギゲギョ』(74年5号〜38号)(単行本化の際のタイトルは『ギャグの王様』)の「地球最期の日の王様」(74年31号)がそれぞれ元ネタになっている

このリバイバル版『へんな子ちゃん』に触れたついでから、赤塚が最もリメイクしたがっていた過去作が、かつて「週刊少年サンデー」に連載された『母ちゃんNo.1』(76年27号〜77年12号)であったことを長谷は述懐している。

これは、「コミックボンボン」や「テレビマガジン」、「ヒーローマガジン」といった講談社系児童漫画誌に『天才バカボン』(「コミックボンボン」87年10月号〜91年10月号ほか)や『もーれつア太郎』(「コミックボンボン」90年4月号〜91年1月号ほか)のリメイク連載をしていた1990年の段階で、赤塚自身、公に語っていたことからも事実と言えよう。

また、赤塚がアイデア会議を経由することなく、一人自ら切った新作『母ちゃんNo.1』のネームが、二社の赤塚番記者にプレゼンテーションされたものの、そのどちらからも掲載しようという話がなかったというのも十二分に頷ける。

それは、赤塚不二夫ディレッタントを自認している筆者ですら、新作『母ちゃんNo.1』に対し、赤塚ギャグでありながらも、凡庸なストーリー漫画を踏襲したドラマトゥルギーに終始している点が否めず、ヒットこそしなかったものの、かつての「週刊少年サンデー」版のように目眩くギャグの展開力が希薄に感じてならなかったからだ。

だが、前述のように、長谷が、常務である桑田裕や眞知子夫人との確執により、フジオ・プロを追われた後の1994年、新作『母ちゃんNo.1』は、「デラックスボンボン」誌上にてリバイバル連載される。

無論、「デラックスボンボン」の読者たる平成キッズの評判を呼ぶこともなかったものの、94年4月号から同誌廃刊号となる95年3月号まで、ジャスト一年間の連載された。

長谷の記述のみ触れると、新作『母ちゃんNo.1』が世に出ることがなかったと、読者に誤解を与えること間違いが、『母ちゃんNo.1』のリバイバルに関しては、長谷と赤塚が訣別した以降の連載であり、作品自体、全くと言って良いほど話題を集められなかった点を総合しても、長谷が知らないのも無理からぬ話ではあるのだ。

長谷が赤塚を回顧する中で、比較的高い頻度で見受けられるのが、赤塚と誰かを比べることで、さり気なく赤塚を矮小化してゆく記述だ。

「NHK紅白歌合戦の当夜、市川ビル前の駐車場にTV中継車がやって来て、藤子スタジオの仕事現場が全国に放映されたこともあった。」

これも全くの嘘である。

要は、赤塚不二夫率いるフジオ・プロは、国民的番組NHKの「紅白歌合戦」の中継には、出演出来なかったが、藤子不二雄とそのスタッフは、大々的に取り上げられたと、その注目度の差を伝えたかったのだろうが、この時、大晦日に正月返上で漫画製作に勤しむ藤子スタジオの様子を放映したのは、民放局であるTBSの「ゆく年くる年」(65年12月31日〜66年1月1日)である。

先刻承知の通り、この時『オバケのQ太郎』は、先行作品『おそ松くん』(「週刊少年サンデー」62年16号〜69年15号ほか)より一足早く、TBSでアニメ化され、またそのスポンサーである不二家を含む二次媒体との連動を伴ったメディアミックス戦略の成功により、赤塚と並ぶギャグ漫画界のトップとして、原作者である藤子不二雄コンビもまた、一躍時の人となっていた。

そうした下地もあり、『オバQ』の放映局であったTBSが、この年に丁度持ち回りであった「ゆく年くる年」で、神社仏閣や様々な宗教施設からの中継と交えて、修羅場と化した藤子スタジオのライブを放映したのだ。

記述するのも馬鹿らしいが、この件に関しては、「第16回NHK紅白歌合戦」のアーカイブを視聴すれば、疑問の余地もないだろう

また、タモリのテレビデビュー(「土曜ショー マンガ大行進 赤塚不二夫ショー」75年8月30日放映、NET)についても、長谷は例によって、タモリの素人離れした別格ぶりを示すことで、既に赤塚不二夫という存在が過去の遺物に成り下がっている印象を操作をしている。

この辺りの描写を前述の『あるマンガ家の自伝 桜三月散歩道』より抜粋してみたい。

「子どもたちの夏休みがほぼ最後の日ということで、NETから依頼されて、高島忠夫氏の『アフターヌーン・ショー』を赤塚版の子ども向けにして放映したい、という話が持ち込まれていた。」

これは事実であろう。

また、この時のタモリの衣装についても、「扮装はキリスト教の神父の衣装で出そうということで、これだけは衣装部への発注となった。」

尚、この時のスチール写真は、タモリゲスト回である1996年12月30日放送の「徹子の部屋」で取り上げられ、筆者はそれを確認している。

従って、これも間違いないと断言出来よう。

だが、タモリの珍芸、奇芸のパフォーマンスにすっかり魅了された司会の高島忠夫の独断による、タモリのパフォーマンスをもっとフィーチャーしたいという意向から、そのプログラムに対して、長谷は「番組全体が、もう赤塚マンガの話題ではなくなっている。」と述懐しているが、当時、オンエアされた当番組を視聴された方々に話を伺うと、どうも話が違うようだ。

番組内容は、赤塚のこれまでの半生をタモリが紙芝居で幕間的に紹介し、ゲストの藤子不二雄Aや石ノ森章太郎とのトークを挟んで番組進行、フジオ・プロでの製作風景のVTRが放映され、最後にバカボンのパパに扮した赤塚と実際のバカボンのパパの着ぐるみが何故か結婚式を上げるというシュールな展開へと雪崩込み、牧師に扮したタモリが、藤子A、石ノ森とともに二人を祝福するというように、この番組でのタモリの立ち位置は、あくまで赤塚のアシスタントというものだった。

冷静に考えてみよう。

いくらその後、芸能界で天下を取るタモリとはいえ、この時はまだプロデビューもしていない素人だ。

そんな素人に、この時、押しも押されぬギャグ漫画の第一人者たる赤塚不二夫をそっちのけにしてまで、フィーチャーするなんて話は、天地がひっくり返ったところで有り得ない話であろう。

それに、赤塚を隙あらば陥れたい長谷と、純粋に当時、赤塚のファンだった少年達の証言、どちらが客観性を伴っているか、また信頼に足り得る情報であるのか、その回答は皆まで語るまでもないだろう。

余談だが、筆者が『赤塚不二夫大先生を読む』のインタビューで、テレビ初出演のタモリと共演した際の印象について藤子不二雄Aに伺った際、下記のようなコメントを頂戴した。

「番組の最後の方でタモリ氏が出てきてね。片言の日本語で煙に巻く外国人のインチキ牧師を演じたんだ。

元々タモリ氏は、デビュー前から赤塚氏の繋がりで紹介されていてね。

僕らの行き着けだった「ナジャ」とか「アイララ」とか、新宿の場末のバーに出没しては、4ヶ国麻雀だとか、イグアナの形態模写だとか、今まで見たこともないような、それこそ至芸を披露してくれてね。」

紙幅の関係から、やむなくカットとなってしまったが、そんなタモリのテレビ初出演に対し、藤子Aは「初出演とは思えないくらい堂に入った落ち着きでね。その後、テレビやラジオで大活躍するようになったけど、それも当然の流れだなと思ったね」という称賛で結んだ。

尚、近藤正高による著書『タモリと戦後ニッポン』でも、タモリ史を回想した内容だけに、「土曜ショー マンガ大行進 赤塚不二夫ショー」についても触れているが、著者の近藤は、1976年生まれと、当然ながら本番組をオンタイムで視聴しておらず、ましてや、『総特集 赤塚不二夫 81年目のバカなのだ』(「ユリイカ」2016年11月臨時増刊号)で、チビ太のキャラクターデザインが、高井研一郎によるものであると、誤った受け売りをそのままミスリードしてしまうほど、赤塚に関する知識は泥縄式に等しい御仁だ。

そんな近藤もまた、前掲の『あるマンガ家の自伝 桜三月散歩道』からの一文を引用として取り上げ、この記述のラストとして、締め括っている。

タモリ関連書籍に関しては、屈指の一冊と呼べる著作だけに、このような誤認識により、それを台無しにしてしまった長谷による風説の流布は、実に罪深いものがある。

また、長谷の記述で気になる点といえば、自身を一際大きく見せようとする大言壮語が挙げられる。

1969年に発表された『椎名町奇譚』について、長谷は、『あるマンガ家の自伝 桜三月散歩道』でこう振り返っている。

「後に『COM』」の〈トキワ荘物語〉シリーズの一編として「椎名町奇譚」なるタイトルでマンガに描いた。」

『椎名町奇譚』とは、滝田ゆうの名作『寺島町奇譚』のタッチを模した所謂パロディ漫画である。

当時、「CОM」では、『トキワ荘物語』とタイトルを統一し、トキワ荘の関連作家によるその想い出を綴った回顧録的作品をリレー形式で掲載し、好評を博した。

1969年10月号〜70年8月号に掛けてである。

執筆メンバーは、作品を発表順に、水野英子、寺田ヒロオ、藤子不二雄A、森安なおや、鈴木伸一、永田竹丸、よこたとくお、赤塚不二夫、つのだじろう、石ノ森章太郎の十名であり、通い組の中でオファーがあったのは、永田竹丸とつのだじろうのみで、この企画に長谷はお呼びが掛かっていない。

しかし、この時期に長谷は、「CОM」にて『長谷邦夫のパロディ劇場』なる連載を持っており、人気企画『トキワ荘物語』に便乗して、滝田ゆう作品のパロディー物を描いたに過ぎなかったのだ。

そもそも、長谷が『寺島町奇譚』を発表した「CОM」(69年12月号)には、藤子不二雄Aの『トキワ荘物語』が掲載されている。

但し、同じトキワ荘をテーマにしていたこと、また掲載誌も同じ「CОM」であったことから、その後『トキワ荘物語』が、翠楊社、蝸牛社、祥伝社からアンソロジー集として刊行された際、この『寺島町奇譚』も併せて収録されるようになったというのが真相だ。

余談だが、蝸牛社版の『トキワ荘青春物語』では、執筆者名を手塚治虫&13名とし、前述の十名のほか、通い組の横山孝雄が新たに描き下ろした『トキワ荘物語』と、「少女クラブ」の元編集長で、トキワ荘作家とも縁の深い丸山昭のエッセイが併録されており、その資料性は、他のアンソロジー集に比して、より充実している。

名だたる漫画賞やヒット作とは無縁の長谷邦夫だったが、長谷にとって最大の功績というべきものが「まんがNo.1」(73年3月号)のソノシート付録で、井上陽水のために書き下ろした「桜三月散歩道」が、後にアルバム「氷の世界」に収録されたことであろう。

井上にとって三枚目となるLP「氷の世界」は、リリースするやいなや、アルバムとしては本邦初となる一〇〇万枚を越える特大ヒットとなった。

その結果、長谷は「桜三月散歩道」が、1974年度の「日本作詩大賞」を受賞したと綴っているが、「日本作詩大賞」は「日本作詩大賞」でも、LP部門に関してのことであった。

従って、他の収録曲を作詞した忌野清志郎や小椋佳と一緒に「日本作詩大賞LP賞」をメダルとともに授与されたというのが実際のところである。

長谷の回想では、自身の「桜三月散歩道」が、本来の「日本作詩大賞」を受賞したかのように誤解を招く可能性があるので、補足しておくが、この74年に本丸となる「日本作詩大賞」を受賞したのは、森進一の「さらば友よ」を作詞した稀代のヒットメーカー・阿久悠である。

長谷は、この時「桜三月散歩道」を「氷の世界」に収録するよう推薦したのは、放送作家の喰始だと語っているが、実際は、このアルバムのプロデューサーであり、当時、モップスのギタリストとしても活躍していた星勝であることをここで指摘しておきたい。

長谷は、赤塚との長い付き合いについて、「長谷個人の仕事はほぼ犠牲に近いスケジュールで、ひたすら「赤塚になりきる」という代理創作を、長年にわたってやってきた。自分個人のパロディの仕事より、赤塚側にウエイトをかけての仕事であった。」と、やはり『あるマンガ家の自伝 桜三月散歩道』で振り返っている。

その上で、かつてのフジオ・プロのスタッフだった古谷三敏や北見けんいちらが独立し、自らのプロダクションを形成していったことを例として挙げ、長谷自身もそうすべきだったとかも知れないと、結んでいるものの、あくまで長谷は、赤塚のヘッドスタッフという立場にあったからこそ、漫画界の末席に身を置けた存在であって、その実力から、一家を成すような未来はなかったであろうというのが、筆者による忌憚なき見解だ。

フジオ・プロを追われた後、長谷は、漫画らしい漫画の連載など、メジャー誌において持ち得る展開などなかったし、現に『あるマンガ家の自伝 桜三月散歩道』でも、「新しい仕事が雑誌から舞い込んでくるほど甘い世界ではない。ただ、あせって「長谷邦夫」で原稿を描いたところで、採用にならない日本のマンガ界だ。」と述べているだけあって、漫画界における苛辣な現実を誰よりも熟知しているのは、悲しいかな、長谷自身なのだ。

さて、『漫画に愛を叫んだ男たち』が刊行されて、2024年現在、既に二〇年の月日が経とうとしている。

しかしながら、調べればあからさまにバレる、これらの稚拙な虚言すらも、漫画研究家やマニアらによって叱正されることは一切なかった。

これがもし、別の巨匠漫画家だったら、その作家のディレッタントにより、明確なソースが呈示されつつ、それこそ炎上レベルで斧正されていたことであろう。

余談だが、漫画評論家の米澤嘉博が、1981年に『戦後ギャグマンガ史』(新評社刊)なるクロニクル本を上梓した際、赤塚マンガには一切興味がなかったのであろう。代表的な赤塚マンガの連載期間を含む事実関係の錯誤や、作品世界に対する理解の闕如が至るところにおいて散見され、初読の際、愕然とした想いに駆られたことがあった。

この本が刊行された81年当時、赤塚は、漫画界の第一線ともいうべき少年週刊誌からの撤退を余儀なくされていたものの、「週刊文春」連載の『ギャグゲリラ』ほか、週刊誌1本、月刊誌6本の連載を抱えていた。

無論、これらの作品はヒットには結び付かなかったものの、漫画家としての仕事が一切なかったわけではなかった。

そして、何よりも、まだこの時代は、ほんの数年前まで、週刊誌5本、月刊誌7本といった同時連載を抱えており、赤塚自身、ギャグ漫画の大家として、また世間の記憶に留められていた頃である。

尚、この著作は2009年、前年の赤塚の逝去に合わせたタイミングだったのかは知る由もないが、筑摩書房より文庫化された。

米澤よりも若い気鋭の漫画研究家がオリジナル版にあった錯誤誤記を訂正した完全版と謳っていたものの、赤塚に関する誤った記述やデーターは全くもって訂正されることはなく、やはりというか、漫画研究家の間でも、赤塚の漫画家としての認識は所詮その程度のものだと、改めて痛感した次第である。

因みに、この文庫版は、フジオ・プロスタッフの吉勝太が新たに描き下ろしたレレレのおじさんがそのカバーを飾っているが、そのテキストにおいて、赤塚が蔑ろにされているだけに、殊更に虚無感が込み上げてくる。

閑話休題。話が横道に逸れてしまったが、筆者は常々「長谷邦夫にファンや味方はいても、赤塚不二夫にとってのそれらは一切ない」と当ブログで語っているが、これなどはまさに、そうしたトラジェディの証左であると嘆いても憚らない。

他にも、長谷によるデーター等の細かい錯誤誤記を挙げれば、呆れ返る程にキリがないが、この場を使って逐一訂正を加えておきたい

赤塚マンガ最大のヒット作であり、赤塚の象徴的作品とも言える『天才バカボン』。その連載期間を「週刊少年マガジン」昭和42年15号〜昭和44年9号 昭和46年37号〜昭和49年29号」と、著書『天才バカ本なのだ!!!』の中で解説しているが、「マガジン」誌での復活連載を指しているとおぼしき昭和46年37号〜昭和49年29号という記述は、この復活連載の『天才バカボン』と時同じくして、ライバル誌「週刊少年サンデー」にて並行連載されていた『レッツラゴン』のそれである。

しかしながら、こうしたん誤謬ですら、『天才バカボン』を回顧した記事等で、長谷の解説文が連綿として使われている始末なのだ。

『天才バカボン』は、連載、中断、再連載と途中掲載誌を変え、長きに渡って発表され続けた作品である。

従って、少ないページ数の中で、その全データを書き切るには限界があるわけだが、この『天才バカ本なのだ!!!』は、1988年にリニューアル刊行された講談社コミックス『天才バカボン』全16巻をテキストに執筆されたものである。

このシリーズは、1987年のリバイバル連載以前の67年から76年に「週刊少年マガジン」「別冊少年マガジン」「週刊ぼくらマガジン」「月刊少年マガジン」に掲載された作品をアトランダムに編纂したもので、「週刊少年サンデー」等の小学館系の少年誌に引っ越し連載していた時期のエピソードについては、一切収録されていない。

従って、「週刊少年マガジン」(昭和42年15号〜昭和44年9号 昭和46年27号〜昭和50年2号 昭和50年43号〜昭和51年49号)、「別冊少年マガジン」(昭和42年8月号〜昭和44年1月号 昭和49年8月号〜昭和50年5月号)、「週刊ぼくらマガジン」(昭和46年20号〜昭和46年23号)、「月刊少年マガジン」(昭和50年6月号〜昭和53年12月号)と記すべきであるのだ

1994年から翌95年に掛けて、長谷の編著により『ニッポン漫画家名鑑』『ニッポン名作漫画名鑑』『ニッポン漫画雑誌名鑑』の三部作をデーターハウスより刊行されるが、これらの著作においても、赤塚不二夫関連に関し、幾つかの間違いがあるので、指摘しておきたい。

まず、「週刊少年ジャンプ」にて設立された新人ギャグ漫画家の登竜門「赤塚賞」についてだが、設立年は1965年ではなく、正しくは1974年。65年当時、「少年ジャンプ」はまだ創刊すらされていない。

また、『ニッポン名作漫画名鑑』で取り上げられた『レッツラゴン』『松尾馬蕉』に関しても、『レッツラゴン』の連載期間は、昭和47年〜49年ではなく、昭和46年〜49年。『松尾馬蕉』(「平凡パンチ」)は、昭和56年ではなく、昭和58年の連載作品だ。

この三部作は、複数の漫画マニアからも理解の欠乏や記述の誤りが指摘されているように、資料的価値に照らしても、愚にもつかないレベルであるが、あくまで当ブログは、赤塚不二夫に特化したブログなので、その他の作家や作品に関する記述については、ここでの言及を避けておく。

さて、本稿では、長谷邦夫の著作における虚言や歪曲、事実誤認等を重箱の隅を突くように、一つ一つ詳細に訂正してきたが、現在、赤塚不二夫にファンや味方が皆無といった現状を鑑みると、誰もこのような記事を求めることもないだろうし、端から見れば、単なる世迷い言に過ぎないだろう。

そして、長谷が振り撒いたこれらの妄言に更なる尾鰭が付き、赤塚作品の全作品を長谷邦夫が代筆したという戯言にシンボライズされる、赤塚への矮小化や形骸化を促す流言飛語が、この先もネットやメディア等において切れ目なく飛び交うことは、火を見るよりも明らかだ。

混濁の世の不条理と言うべきか、現在の赤塚不二夫は、死して尚、国民のサンドバッグ宜しく、儘ならない日常への鬱憤晴らしの対象として、日々SNS等のネット民により罵詈雑言を浴びせられている始末である。

恐らく、長谷にとっても、世の赤塚に対する、ここまでの地に堕ちた扱いは想定外のものであったに違いない。

最早、文化遺産としても遺らず、今後も世間一般から益々揶揄され、歪なまでに俗物化されてゆく赤塚不二夫という存在に対し、長谷邦夫は、草葉の陰でほくそ笑んでいるのだろうか……。

いや、こんなこと、考えるだけで野暮というものだろう。

今後も、赤塚不二夫がギャグ漫画の第一人者だったという認識は、現世において、益々希薄化してゆくこと必至なのだから……。

他にも、長谷に関するトピックを二、三抱えているが、プライベートな問題である上、ややもすれば、その名誉を著しく損なう事柄も多分に含まれているので、これ以上の言及は控えておく。

そして、筆者が長谷邦夫について触れるのは、本稿をもってピリオドとしたい。


天知る地知る読者知る① 『トキワ荘の遺伝子』に見る北見けんいちによる風説の流布

2024-05-12 23:27:13 | 論考

今年(2024年)の2月29日、小学館から『トキワ荘の遺伝子 〜北見けんいちが語る巨匠たちの横顔〜 』なる著作が刊行された。

奥付には、「2024年3月5日 初版第一刷発行」とある。

元フジオ・プロのアシスタントであり、やまさき十三原作の『釣りバカ日誌』に作画を務めている北見けんいちがこれまで交流を持った巨匠漫画家達の素顔について触れるという内容で、聞き書きを文筆家の小田豊二が担当している。

45年生まれの小田もまた、旧満州国のハルピン市の出身であり、北見同様、所謂「引き揚げ組」だ。

そうした出自からも、北見と親しくなった小田に、インタビュアとしての白羽の矢が立ったのは想像に難くない。

企画は、元「ビッグコミックオリジナル」の編集者で、浦沢直樹作品のブレーンや原作を多数務めたほか、現在は作家としても活躍目覚ましい長崎尚志によるもので、長崎はかつて『「大先生」を読む。』で赤塚番を担当したこともある。

トキワ荘グループをはじめ、戦後漫画史を牽引し、漫画の黄金時代を築いた大漫画家が次々と鬼籍に入ってゆく状況の中、そんな巨匠達の素顔を知る北見の証言を記録に遺したいという長崎の想いは、一漫画マニアとしては理解出来ようが、本書の刊行がアナウンスされた時、「北見けんいちが語る巨匠たちの横顔」なるサブタイトルに触れ、個人的に悪い予感しかしなかったのも事実だ。

実際、その不安は杞憂に終わることなく、やはりというか見事に的中していた。

これまで北見は、インタビュー等で赤塚不二夫との想い出を回顧した際、曖昧な記憶と憶測で語っていることが多く、またその時々に応じて発言内容が大きく違っていたり、場合によっては、言葉足らずから、赤塚の偉業を矮小化してやまない風説も多々見受けられていたからだ。

具体的な例を挙げれば、フジオ・プロの分業システムについての質問から、赤塚の執筆領域について触れた際、「先生はラフに丸とか三角を描いて、高井さんが鉛筆でキャラクターの線を入れていく。で、その次が僕らがなぞって、次に背景とかベタっていう流れ作業だよね。」(『赤塚不二夫マンガ大全「ぜんぶ伝説のマンガなのだ!!」/宝島社、11年』)と語っているのに対し、23年刊行の『まんが 赤塚不二夫伝 ギャグほどすてきな商売はない!!』(光文社)では、赤塚の筆による密度の濃い下絵の実物(『赤塚不二夫の中国故事つけ漫画』/集英社、83年)を現フジオ・プロスタッフから見せられ、「おれが手伝ってたキングの『おそ松くん』(1972〜73年)とか文春の『ギャグゲリラ』(1972〜82年)なんかも、赤塚先生、このくらい克明に下絵を入れてくれてたよ! 高井研一郎さんがいた頃(1969年2月頃まで)は、もっとラフな感じだったね。」(原文ママ)と証言している。

妄言極まる北見の赤塚に対する証言は、これ以外にも枚挙に暇がないが、今回は、タイトルにもあるように『トキワ荘の遺伝子』に限り、その錯誤誤記を逐一訂正してゆきたい。

事実、赤塚以外の巨匠についても、誤謬を湛えた発言が多々あるが、当ブログは、あくまでも赤塚不二夫に特化したブログであるため、今回は赤塚に関する不備な記述のみを勘校するに留めることにした。

赤塚以外の巨匠漫画家についての記述は、それぞれの作家のディレッタント諸氏に叱正を乞いたい。

まず、北見は、赤塚不二夫を語る上で、赤塚がブレイクにするに至ったその原点に、赤塚、古谷三敏、高井研一郎の三角錐があったことを語っている。

その見解に対し、筆者も異論はない。

まだ、フジオ・プロ設立前、新宿区西大久保を仕事場としていた時のことだ。(この辺りは、本橋信宏著『60年代、郷愁の東京』(主婦と生活社、10年)に詳しい。)

ギャグの赤塚、教養と蘊蓄の古谷、キャラクターメイクの天才・高井。まさに完全な三角錐だったと北見は語る。

「『おそ松くん』のなかで高井さんが描いたキャラクター?

えーとねぇ、赤塚先生が描いたのは、一松、チョロ松、カラ松、トド松、十四松、それにおそ松だろ。あとはお父さんとお母さん、おそ松の憧れのトト子ちゃんも先生が描いていたよね。 〜中略〜 チビ太は、先生だと思うけどな。そうかな高井さん? 先生の本にそう書いてある? じゃ、高井さんかも?」

これは、聞き書きの小田豊二のミスリードである。

正確には、『バカボン線友録 赤塚不二夫の戦後漫画50年史』(学習研究社、95年)で、赤塚の口実筆記を担当した編集プロダクション「メモリーバンク」代表の綿引勝美の筆記ミスで、これにより、チビ太=高井デザイン説が一気に広まったのだ。

チビ太は元々、『おそ松くん』以前に執筆していた『ナマちゃん』(「漫画王」「小学生画報」「まんが王」、58年〜62年)に登場する乾物屋の小倅・カン太郎と『キツツキ貫太』(「週刊少年マガジン」、61年)の主人公・貫太とをフュージョンさせて誕生したキャラクターである。

尚、イヤミ、デカパン、ハタ坊をデザインした高井を北見はキャラ作りの天才と称賛するものの、そんな高井でも、原作がないと、漫画は描けない。

逆にストーリーを描ける人は、キャラが描けない。

高井と赤塚を対比し、両方描ける人は少ないと居丈高に語っているが、北見もまた、『釣りバカ日誌』『愛しのチィパッパ』『サッチモ』(いずれも原作はやまさき十三)等、原作がなければ、ほぼほぼ漫画が描けない漫画家の一人である。

キャラクター作りについて、北見は相当な事実誤認をしている。

「『天才バカボン』の「ウナギイヌ」は、古谷さん自ら「俺が描いた」って言ってたなあ。」

これは古谷三敏が10年に上梓した『ボクの手塚治虫せんせい』(双葉社)に記されていた記述だが、これは古谷による記憶違いか、編集者による筆記ミスのいずれかであろう。

後に古谷は、ウナギイヌをフィーチャーしたDVDマガジン『昭和カルチャーズ「元祖天才バカボン」feat・ウナギイヌ』(角川SSCムック、16年)において、次のように訂正している。


「「今日の漫画が掲載される頃はちょうど土用の丑の日だね」なんて話をして、じゃあウナギをテーマになにか考えようという話になり、いつものように寝起きでまだ目が覚めていなかった僕はベランダでタバコを吸いながらボーッとしていた。そうしたら目の前をイヌがダーッと走り去ったんです。そこでピンときてウナギにイヌを掛けたら面白いんじゃないかと思いついたら先生が「それはイケる!」となって、ああでもないこうでもないと二人で絵を描き始めて、最終的に先生が描き上げたのがウナギイヌだったんですよ。」

長谷邦夫や『バカボン』担当の赤塚番記者だった五十嵐隆夫の証言とはディテールが若干異なるが、赤塚がウナギイヌを創り上げたという話は、両名とも一致している

また、レレレのおじさんについて、北見はこう述べている。

「あれは、先生じゃないかな。俺は、そのキャラは、手塚治虫さんの流れを汲んでると思うよ。」

レレレのおじさんは、手塚治虫をルーツとしたキャラクターではなく、『ドロンちび丸』や『猿飛佐助』で有名な杉浦茂をオマージュしたものだ。

また、レレレのおじさんは、第一期連載(「週刊少年マガジン」、67年15号〜69年9号)の『天才バカボン』で、幾度となくそのプロトタイプが登場し、試行錯誤の末、生まれたキャラクターだ

そして、厳密に言えば、「川でトリを釣るのだ」(「週刊少年マガジン」、67年27号)、「ハリとカモイがシキイなのだ」(「週刊少年マガジン」、67年42号)、「キョーレツな香水なのだ」(「週刊少年マガジン」、67年43号)に登場した三つのキャラクターを、チビ太同様にフュージョンさせ、「免許証なんて知ってたまるか」(「週刊少年マガジン」、67年48号)で、現在のスタイルとなって初登板したのだ。

この時、高井が三つのプロトタイプを創案し、赤塚が描きやすいようにリライトを施し、完成させたというのが真相である。

ニャロメ、ケムンパス、べしについてはこう語っている。

「え、「ニャロメ」? あれは高井さんじゃないよ。たしか、タイガー立石さん。 〜中略〜  先生がなんか、「二本足で歩き、言葉を話す変なネコ」のキャラを頼んだんじゃないかな。「ニャロメ」って名づけたのも彼だって話だよ。」

「「べし」とか「ケムンパス」とか。あれもアイデアは先生で、具体的に絵にしたのは、高井さんでしょう、たぶん。」

あやふやな記憶を辿りながら、「たしか」や「たぶん」といった推測の副詞を用いて保険を打っている点は、姑息な印象を拭えず、些か気分が悪いが、ケムンパスもべしも、高井がフジオ・プロを退社した後にそのプロトタイプが登場したキャラクターだ。

因みに、ケムンパスの初登場は、「ココロのボスにラブレター」(「週刊少年サンデー」69年15号)、べしのそれは、「ニャンゲンにニャリたい」(「週刊少年サンデー」69年40号)である。

高井は、早くとも68年の秋頃、遅くともフジオ・プロが西新宿の市川ビルから代々木の村田ビルに移る前の69年の年明けには、独立している。

つまり、退社した高井が、ケムンパスとべしをキャラクターメイクするためだけに、その後フジオ・プロを訪れたとは考え難い。

事実、高井はケムンパスとべしに関して次のように延べている。

「その後のケムンパスとかべしあたりになると、(あだち)勉ちゃんがやってくれたんじゃないかな。」

つまり、ケムンパスとべしも高井の退社以降に生まれたキャラクターであるため、高井もその詳細は知らないのだ。

因みに、あだち勉のフジオ・プロ入社は、71年であるので、ケムンパス、べしが登場した『もーれつア太郎』の連載が終了した一年後のことである。

また、ニャロメは元々は、『天才バカボン』に登場する夜のイヌの類縁性を示したネコであり、『もーれつア太郎』の担当編集者だった武居俊樹によれば、ドラマが一段落した際の句読点として頻出させていたリアルタッチの月の夜景に、赤塚が好んで描き加えていた尖った耳と大きな目が特徴的なマスコットキャラであった。

ここで北見が語っているタイガー立石とは、1970年代より、オリベッティ社傘下のエットレ・ソットサスのデザイン研究所を拠点に、デザイナー、前衛アーティストとして世界を股に掛けて活躍することとなる立石鉱一その人である。

立石は、赤塚も『いじわる教授』(65年7月号〜12月号)、『スリラー教授』(66年1月号〜3月号、67年4月号〜6月号、9月号)、『おそ松くん』(66年4月号〜7月号、10月号〜12月号)等、かつてレギュラー執筆していた「ボーイズライフ」誌上にて、ユーモアページを担当し、そこにアメリカンコミックにインスパイアされたと思われる小洒落たサイレントギャグを多数執筆していた。

そんな立石が描くキャラクター達が激昂した際、「コンニャロメ!!」「キショウメ゙!!」といった奇抜な言い回しをしており、その影響を受けた赤塚が件のマスコットキャラであるネコに一言「ニャロメ」と鳴かせ、ここにニャロメのキャラクターの原型が形作られることになったのだ。

北見は、ニャロメがバカボンのパパと同様に赤塚ワールドの象徴にして、ポリティカルの季節のアナロジーを体現したキャラクターに成長したことに対し、「いまだったら、「あのキャラは俺が描いた」と権利を主張する人も多いだろうけど、あの当時はそんなこと、誰も言わなかったし、いい時代だったよね。」と、嫌味を言っているが、ニャロメというネーミングはともかく、そのキャラクター自体は、赤塚が生み出したものだから、第三者が権利を主張すること自体、頓珍漢な話なのだ。

漫画家・赤塚不二夫の最大の功績の一つに『おそ松くん』に登場するキザで出っ歯の鼻持ちならないキャラクター・イヤミが発する「シェーッ!!」の奇声がボディーアクションとともに、全国的な流行語となったことが上げられる。

北見は「シェーッ!!」誕生についてこう語っている。

「あのポーズはね、お花見から生まれたんだってね。先生から聞いたことがあるよ。え、新説? いやホントだよ。俺、その時、参加してないんだけど、ある時、みんなで新宿御苑に花見に行ったんだって。

ただ、桜の下で酒を飲んでいるだけじゃつまらないから、サイコロを使った「チンチロリン」っていうゲームがあってさ、それをやって負けたヤツが罰ゲームとして、なんかおもしろいポーズをとらなくちゃいけないというルールにしたんだって。赤塚先生なら考えそうなことだよね。

誰だったか聞き忘れたけど、高井さんか、古谷さんか、松山(名和註・しげる)さんか、負けたんで、両手を逆に伸ばして、片足曲げて、あの「シェー」のポーズをしたんだそうだよ。声は「シェー!」じゃなかったって言ってたけど。「ヒョエー!」とか言ったんじゃないの。

みんなひっくり返って笑ったんだけど、それを見た全然関係のない花見のグループの客が輪の中に入ってきて、「あんまりおもしろいから、俺たちも仲間に入れてくれ」って、大盛り上がりだったんだって。それで、あの「シェー!」のポーズが生まれたって、聞いたよ。」

これも完全に北見の記憶違いで、真相は下記の通りである。

「仕事が一段落したある日、みんなでめずらしく散歩などとしゃれこんで、新宿御苑へ出かけたものでした。

そこで、誰が言い出したのか、ジャンケンでまけた者が『シェー』をやろうといいだしたものです。みんなで御苑の芝生の上で車座になり、ジャンケンをして負けたものがまんなかに進みでて『シェー』をやるのです。

まわりの人は遠くから、なにを変なことをやっているか……。不思議そうな顔をして見ていましたが、中から一人こちらへやってきて『おもしろそうだから仲間に入れてくれ』としばらく遊んですごしました。

そのとき、その当人は『シェー』の何であるかも知らずやっていましたが、あとになってマスコミでさわがれ、その実体を知ったとき、おそらく『おれはまっ先にシェーをやった』と手をうったことだろうと、今でもこのことが私たちの仲間の語り草になっています。」(『おそ松くん全集』第11巻、巻頭エッセイ「『シェー』のこと/曙出版、68年)

この北見の証言は、「新説」でもなければ、「真実」でもないことを声を大にして伝えたい。

フジオ・プロのルーツについても、北見は大きな勘違いをしている

「一回、先生の自宅(名和註・西大久保の第三さつき荘)からすぐ近くに、仕事場だけが移ったんだよ。 〜中略〜 「永光荘」って言ったかな。六畳一間。竹中健治さんというアシスタントも増えて、先生入れて六人。これが「フジオ・プロ」のはじまりだね。」

実際は、赤塚も参加していた石ノ森章太郎主宰の「東日本漫画研究会」が、新党員を中心とした人間関係のトラブルが発生し、自然消滅したことにより、その灯を絶やしたくないという想いから、62年頃、当時、『おそ松くん』『ひみつのアッコちゃん』の連載開始により、既に人気漫画家に仲間入りを果たしていた赤塚を中心に、長谷邦夫、横山孝雄、高井研一郎、よこたとくお、山内ジョージといったその残党と、この時、赤塚の最初の妻であった稲生登茂子らによって結成された「まんが七福神・プロダクション」が母体となっている。

この頃は、忙しくなりつつあった赤塚の執筆をサポートする赤塚主体のプロダクションというよりも、それぞれ独立した漫画家達が、お互いを刺激し合いながら、新しい漫画を創造してゆこうという高邁な理念のもとに組織された、謂わば「新漫画党」のスタイルや規模を矮小化したファクトリーであったが、参加した面々を見ても、これがフジオ・プロのルーツであったことに論を俟つまでもないだろう。

ただ、ここで北見が語った「永光荘」については、筆者も初耳であり、今となっては、そのアパートも取り壊されているであろうが、近々新宿区内の図書館に赴き、当時の住宅地図を調べて確認を取るつもりだ。

尚、まんが七福神・プロは、神田に構えた事務所が安普請で、南京虫の巣窟と化した衛生上の問題もあり、その活動は不活発のまま、ピリオドを打つこととなった。

赤塚、古谷、高井が三角錐と語っていた北見だが、フジオ・プロの分業制、また執筆量ついても、大きな記憶違いをしている。

「すごい時は、週刊誌の連載が二本、月刊誌の連載が十本、その他読み切りが十五本ぐらいあったもの。もちろん、先生ひとりじゃ描けないから、先生はストーリーとコマ割り、絵は古谷さんが描いたり、高井さんが描いたり、三人と担当編集者でアイデアを考え、三人で描いたって感じだね。」

まだ、高井がフジオ・プロに在籍していた頃、週刊誌に関しては、「週刊少年サンデー」「週刊少年マガジン」「少女フレンド」の三誌連載が通常の仕事量であり、赤塚のキャリアにおいて、週刊誌の同時連載の最高記録は、1974年から75年に掛けての「週刊少年サンデー」「週刊少年マガジン」「週刊少年キング」「週刊少年チャンピオン」「週刊文春」の五誌である。

分業制についても、この時北見は、アイデア会議には呼ばれていなかったので、不明瞭なのかも知れないが、高井はアイデアブレーンは一切務めていない。

あくまで作画スタッフとして、赤塚をサポートしていただけだ。

アイデアのブレーンストーミングをしていたのは、赤塚、古谷、担当編集者の三名に長谷邦夫を加えた四名である。

古谷は、アイデアに関しては、赤塚と古谷、担当編集者の間でディスカッションを交わし、長谷は基本的に書記の係りだったと反芻するが、長谷もアイデアマンとして機能を果たしていた筈であると、筆者個人としては踏んでいる。

また、赤塚の作業範囲についても、ストーリーの作成とコマ割りだけではなく、当たりというラフな下絵をこの時入れており、この当たりこそが赤塚マンガの作風を決定する重要なキーとなっていることは言うまでもない。

事実、赤塚が当たりを入れなければ、赤塚マンガであって赤塚マンガてはない、古谷、高井の癖を湛えた似て非なる代物になってしまうことは必至で、この発言も、北見による毎度お馴染みの言葉足らずか、聞き書きを務めた小田豊二の不確かな筆致が災いしての結果なのか、知る由もないが、このような思慮の浅い記述こそが、連綿と続く赤塚矮小化をより一層深める要因となるのだ。

赤塚不二夫史におけて、ターニングポイントとなったタモリとの邂逅についても、北見は「先生、芸能プロも作ったけど、タモリ氏を入れなかった。田辺エージェンシーの方が、きっとタモリ氏の才能を活生かしてくれるって思ったからだと思う。」と述べているが、赤塚が主宰していた芸能プロとは、音楽プロダクション「フジビデオ・エンタープライズ」を指しているの明白で、共同経営者の井尻新一とのビジョンの相違や、漫画家として多忙な赤塚が経営に携わることが物理的に不可能であったなどの諸事情から、1970年代に入る頃には経営から撤退していた。

タモリが「田辺エージェンシー」へ所属することになった経緯を説明すれば、元々タモリは、赤塚同様タモリの世話人であった山下洋輔とスナック「ジャックと豆の木」のママであったA子女史がその窓口として設立した「オフィス・ゴスミダ」の第一号タレントであった。 

だが、タモリ出演によるとある学園祭での金銭トラブルから「オフィス・ゴスミダ」は解散を余儀なくされる。

そんな中、放送作家の高平哲郎や田辺エージェンシー所属タレントの堺正章との繋がりが生まれ、その縁から、その後、新たな窓口として移籍した高平主宰の編集プロダクション「アイランズ」を経て、田辺エージェンシー所属となったというのが真相である。

今回、赤塚不二夫関連のみ、錯誤誤記を指摘してみたものの、それだけでもこれだけの多くの誤りがあり、本書が如何に杜撰且つ不誠実な編纂の上で成り立ったものか、当記事を通読された御仁には、お解り頂けたと思う。

聞き書きの小田豊二も、赤塚に対しては勿論、漫画全般に興味のない門外漢であることは明らかで、曖昧な北見の記憶を補足するかのように、ウィキペディア等のネット情報から孫引きした記述さえ目に付く有り様だ。

まさに、手塚治虫が言うところの「天知る、地知る、読者知る」を体現した存在だ。

北見けんいち、小田豊二という二人の老害による近年稀に見るこの駄本は、戦後漫画史におけるミッシングリンクを解き明かすという本来の目的とは、程遠い結果となってしまった。

しかしながら、フジオ・プロの元アシスタント出身であり、映画化までされ、大ヒットとなった『釣りバカ日誌』の作画を務めているという北見のバリューから、この駄本に記されていることが全て真実として認識され、そう遠くないいつか、赤塚不二夫史に上書きされてゆくことだろう。

今や、長谷邦夫こそが全ての赤塚作品を代筆したという誤謬が当たり前の事実として罷り通っているように……。

北見、小田の両名には、己の発言の影響力の強さ、そして風説を流布することで、一つの戦後文化史に如何程の形骸化を齎すか、今一度考えて頂きたい。

こうした八方塞がりの状況において、今後も、赤塚不二夫とその作品群が文化遺産として語り継がれて行くことなど最早ないと、常々諦観を抱いている筆者であるが、このような万死に値する低レベルの駄本が二度と刊行されないことを、赤塚不二夫ディレッタントとして、また一人のアーキビストとしてただただ祈念するばかりである。

追記

今回、『トキワ荘の遺伝子』について、忌憚のない見解を述べてきたが、唯一、個人的に膝を打った北見の証言がある。

「ケンカ? 俺、一回派手な殴り合いをしたことあるよ。相手は、当時、フジオ・プロのマネージャーだった横山孝雄さん。 〜中略〜  助手席に横山さんを乗せてさ、原稿用紙にする紙を神田の神保町に買いに行ったんだよ。全紙をロールで買うからさ、車じゃないと運べないから。

で、紙を買いました。その帰りさ、助手席の横山さんがうるさいんだよ。まっすぐ行けばいいのに、「次の信号、右曲がって」とかいちいち言うんだよ。こっちはさ、両親とも江戸っ子だしさ、俺も生まれこそ満州だけど、引き揚げてからずっと東京だろ。だから、俺の方が道は詳しいわけ。

最初は遠慮して、「まっすぐ行った方が早いですよ」とか答えていたんだけど、「黙って俺の言う通りに運転すればいいんだ」みたいな偉そうな命令するようになったからさ、俺もカッとなって、車を止めて、横山さんに「ここで降りろ」って降ろしちゃった。

そしたら、横山さん、仕事場に戻ってきて、怒った。怒った。「北見、表に出ろ!」って言うわけだよ。ハハハ。「おもしれぇじゃねぇか」って外に出てさ、本気でボコボコにしてやったよ。俺、身体はチビだけどさ、ケンカは強いんだよ。子供の時、転校五回もしただろ。そのたびにケンカしてたからさ。だって、負けて帰ってくると、母親が家に入れてくれないから。

それ以来、「北見ちゃんって、ケンカが強いんだって?」ってみんなに言われるようになってさ。」

若き日の北見のこの武勇伝は、メディアでは初めて語られたものと思われるが、北見の漫画家仲間の間では、よく知られたエピソードで、筆者が2011年に社会評論社より『赤塚不二夫大先生を読む「本気ぶざけ」的解釈 Book1』を上梓した際、赤塚不二夫の人となりや、ご自身のギャグ漫画観について語って頂くべく、藤子不二雄A、森田拳次の両御大にインタビューを敢行したことがあったが、その際、両氏から北見のケンカの強さについて伺ったことがあった。

特に森田拳次からは、北見のケンカの強さは、学生時代のボクシング経験の賜物ではないかとも伺った。

ただ、北見は語っていないが、この北見と横山の大喧嘩に対し、赤塚は怒髪天を突く勢いで、二人にブチ切れたという。

その理由は、仲間同士が殴り合いをするなんて以ての外だと怒ったのだと思いきや、赤塚が放った一言はこうだった。

「どうして、どっちかが死ぬまで、殴り合わないんだ!」

森田拳次曰く「こんな発言、赤塚さんをよく知らない人間が聞けば、何たる非常識だと、ドン引きされるかも知れないけど、何よりも強烈なギャグを産み出そうとするなら、赤塚さん自身、常に自分を非日常に持って行かなければならないという強迫観念に駆られていたんだと思う。ホント、ギャグの殉教者だよね。」

そう語っていたのが忘れられない。


ガセビア王・唐沢俊一がタモリ認定した件の人物の正体とは?

2023-10-26 19:53:20 | 論考

現在において、赤塚不二夫を取り巻く最大の悲劇は、熱烈なるファンやマニアが皆無に近いということであろう。

門外漢による矮小化された足跡や不名誉な虚伝がネット上にて揶揄するように語られ、リアルに赤塚不二夫を知らない若年層の間においても、その評価は極めて歪だ。

この悪しき現状は、ファンや味方の不在こそが一番のネックであると言わざるを得ない。

即ち、風説や事実誤認が流布される中、それらが否定、斧正されるまでには到らないということなのだ。

筆者もSNS(X 旧TWITTER)で、時折「赤塚不二夫」というキーワードを検索し、目に余る誤謬を目にした際は、逐一訂正した情報を加え、リポストしているが、孤軍奮闘したところで、詰まるところ多勢に無勢であるかの如き現状だ。

赤塚不二夫ディレッタントを自認する身としては、こうした八方塞りの状況で、通常ならば、全く読まれることなく、消費されてゆく赤塚関連の引用リポストが、ある時、147万表示、4505件のイイネ!、1853件のリポスト、319件のブックマーク、87件の引用(2023年10月23日現在)と、SNSを初めて十年余、今まで見たこともない天文学的数字を弾き出したのだ。

その風説の流布となったポストは、現在削除されているが、幸いにもスクリーン・ショットに保存していたので、改めてここに引用してみたい。

「ネットで拾った、昭和50年・赤塚不二夫と出会ったころのタモリ。眼帯を顔に描いてあて、右眉はたぶん剃っている。……全体から陰気オーラが漂っており、言われないとタモリとはわからない。人間、やはり売れる前と後では顔が変わるねえ。」(原文ママ)

そして、このポストに対する私の引用リポストが、「変わるも何もタモリさんじゃないからね。名前は不明だが、当時赤塚不二夫の側近だった人物で、赤塚番の編集者だった可能性もある。昭和54年頃の写真で、中央は女優の児島美ゆきさん。」というものだった。

何故この時、真ん中で佇む女性が児島美ゆきであることを強調しているかというと、その容姿から、当時アイドル歌手として活躍していた木之内みどりであると誤認識しているユーザーが多かったためでもある。

さて、私が引用した件のポストの主であるが、かつて「と学会」の運営委員の一人で、コラムスト、劇作家、古書収集家としても知られる唐沢俊一。幼少期において、熱烈な赤塚チルドレンであったと公言し、後に『カスミ伝』『電脳なをさん』等の代表作を持つことになるギャグ漫画家・唐沢なをきの実兄でもある。

トリビアルなネタに付随する雑文を殊の外好んでいた青年期の筆者にとって、昭和のB級文化への論説をライフワークとしていた唐沢俊一もまた、守備範囲の一つに含まれつつあったが、如何せん、唐沢が取り上げる分野において門外漢である筈の筆者ですら、唐沢が流布するトリビアの一つ一つが事実誤認、デマカセ、捏造であると観取するレベルにあり、そうしたげんなりとした感情から、いつしか私の中で、唐沢俊一の名前すら、取るに足りない存在として、忘却の彼方へと消え去ってしまった。

事実、2000年代に唐沢は、ネット記事からの剽窃や他者の著作からの無断引用、事実認識の不備による錯誤誤記等が取り沙汰されるようになり、現在では、基礎的な文章力の欠落、ボキャブラリーに対する不確かな認識など著述家としての資質についても、多くの見巧者から冷静なる批判を受けている有り様だ。

その後も「唐沢俊一検証ブログ」などという、唐沢発のデマやガセネタを検証するまとめサイト的なブログまで立ち上げられ、こうしたブログが広く読まれ、引き金となったせいか、ネットの世界では、唐沢の存在をかつての称号「トリビア王」ならぬ「ガセビア王」などと嘲謔するユーザーも少なくない。

前出の赤っ恥ポストを投稿した後も、一般ユーザーとの遣り取りを重ねる中で、唐沢は更なる恥の上塗りをしている。

当該のポストに対する一般ユーザーの質問に対し、唐沢は「まだその前、パブで芸をやっていた頃ですね。30になっても売れず、九州に帰ることを考えてた矢先に赤塚不二夫に見いだされ、赤塚氏の出ているテレビに押し込んでネタをやらせたことでブレイクしました。」(原文ママ)と答えているが、このアンサーに違和感を禁じ得ない御仁は数多くいたのではないだろうか……。

そもそも、タモリはお笑い芸人、もしくはテレビタレントを夢見て上京し、新宿の場末のバーでタレント修行をしていたなんて事実は、数あるタモリ史を辿った文献においても一切書かれていないし、タモリ自身、そのような証言をしたことは今まで全くないわけだ。

時折しも、ツービートのビートたけしが浅草のフランス座から飛び出し、テレビに進出し始めていた頃(1974年〜75年頃)、タモリはタレントの卵ですらなかった。

タモリは、三年次に学費未納(このエピソードもタモリらしい心綻ぶものがある。また別の機会にて、タモリ史として論述してみたい。)で早稲田大学から除籍処分を受けた、

その後、1969年、故郷福岡へとUターン。地元で朝日生命の外交員や、当時大ブームであったボーリング場の支配人、喫茶店の雇われマスターをするなど職を転々としていた。

そんな素人時代であった1972年のある日、渡辺貞夫自身が主催するジャズ・コンサートが地元福岡にて開催される運びとなり、コンサート・スタッフに早大ジャズ研時代の友人がいたことから、終電がなくなる丑三つ時まで打ち上げに参加したことでその人生は一転する。

この時、ツアーには山下洋輔トリオ(山下洋輔、中村誠一、森山威男)が参加し、滞在先のホテルの一室で、酒も入っていたのだろう。歌舞伎の舞踊や狂言のパロディー、虚無僧の真似事などの乱痴気騒ぎを繰り広げていた。

その部屋の前をたまたま通り掛かったタモリは、運命の悪戯か、ルームドアが半開きの状態になっていたことから、山下らの部屋に闖入。虚無僧演じる中村が被っていたクズ箱を取り上げ、それを鼓代わりに歌舞伎の舞を披露し、山下らを啞然たらしめた。

また、芸達者な中村がタモリの突然の乱入をインチキ朝鮮語を使って抗議したところ、タモリは更にその上を行く流暢な出鱈目朝鮮語で捲し立てて応戦。その後も細部に拘った偽のアフリカ語で中村を言い負かすなどの即興芸を展開し、山下トリオを爆笑の渦に巻き込むこととなる。

これにより、タモリは山下トリオが九州方面にツアーで訪れた際には、必ずやお呼ばれされる間柄となリ、タモリの抱腹絶倒のパフォーマンスにすっかり魅せられた山下は、その至芸を自分達だけで独占しては勿体ないとばかりにタモリを福岡から東京へと呼び寄せ、山下行き着けの新宿場末のバー「ジャックの豆の木」を中心に、友人知人の前で披露させたのである。

その際、臨席していた一人がフジオ・プロの長谷邦夫で、ご多分に漏れずタモリの面白さに圧倒された長谷は、赤塚にタモリを一目見せたい一心で、赤塚を「ジャックの豆の木」へと連れ出す。

当初、そんな面白い人間が素人でいる筈がないと、長谷の話を訝しがっていたものの、実際、タモリの才気煥発なパフォーマンスを目の当たりにした赤塚は、一発でタモリを気に入り、芸能界デビューさせることを決意。自身がプライベート用に借りていた家賃十七万円の高級マンション(カーサ目白)に住まわせ、1975年8月30日、NET(現・テレビ朝日)系の生番組「土曜ショー マンガ大行進!赤塚不二夫ショー」のワンコーナにて、タモリを押し込み出演させるのである。

その後も、赤塚は本業執筆との忙しい合間を縫いながら、必死にタモリを業界内に売り込み、この遅咲きの偉大なる素人は、あれよこれよという間に、テレビタレントとしてのスターダムへと駆け上がって行く……。

これがタモリが芸能界デビューを果たすまでの道程であり、タモリが自らの意思で笑芸の世界に入るべく修行を重ねていたという事実はないのだ。

つまりは、自らの意思とは全く関係のないところで、テレビ出演を果たし、いつの間にか、押しも押されもせぬ人気タレントとして君臨していたというのが正解であろう。

だが、唐沢は、タモリが芸人として売れずに燻っていたという新たな嘘情報を流布しただけではなく、これを一般常識であるかの如く語り、その主張に疑問を投げ掛けてきた一般ユーザーに対しても、「まぁ、無知な人とは会話しても益がないので、ミュートしますね。悪しからず。」(原文ママ)と一刀両断し、更に馬脚を現すことになるのだ。

無知は唐沢の側か、それとも件の一般ユーザーの側か、論を俟つまでもないだろう。

唐沢はかつて、タモリが番組内で品評会会長を務めたフジテレビ系列の人気番組「トリビアの泉 〜素晴らしきムダ知識〜」(02年〜06年)で、監修、スーパーバイザーを務めていた立場で、無論タモリとも面識があった筈だ。

また、1970年代、サブカルチャーの洗礼を受け、多感な少年期を過ごしてきたであろう唐沢が、日本のテレビメディアにおいてセンセーショナルな登場を果たした当時のタモリの存在を認識していないとは到底考えられない。

加齢により、過去の記憶を保持出来ないとでもいうのだろうか……

また、若年性によるレビー小体型認知症が進行した現れなのか、唐沢が投稿したポストに「全体から陰気オーラが漂っており……」とあるように、曲がりなりにも、かつてタモリと仕事をし、知遇を得ている人間が、このような悪態を付くこと自体、人格面においても、破壊的、不適切なそれに推移したと言わざるを得ない。

近年では、原稿料を前借りしておきながら、一向に筆を進めようともしないその無責任ぶりから、出版社(四海書房)サイドより返金を求められる事案まで発生している。

「心理的リアクタンスでなかなか書けない」とは唐沢の弁だが、こんな詭弁、通用する筈もなく、これでは、著述を生業とする者、否、一人の社会人として失格の烙印を押されても致し方ないといったところだろう。

閑話休題。唐沢俊一の人物像等、前置きが長くなってしまったが、そろそろ本題に入りたい。

そもそも唐沢がポストに添付した赤塚不二夫、児島美ゆき、そして唐沢にタモリ認定された人物が収まったスリーショットは、元々ネット上で出回っていた一枚である。

ただ、賢明なる読者諸兄には既にお気付き頂いていると思うが、この写真、実は反転したものである。

まず、センターの児島美ゆきが身に纏っているブラウスの襟合わせが逆になっていること。そして、本来ならば、左分けである赤塚不二夫の髪型が、この写真では右分けになっていることが、その根拠として挙げられるが、これは唐沢にタモリと誤認識されている人物が眼帯メイクを左目側に描かれていることから、写真を流布した人物が意図的に反転したものと思われる。

何故なら、タモリがアイパッチをしているのは、右目の方であり、これは、リアリティーを持たす為に造られたあくまでフェイク写真であるのだ。

以前、筆者が児島美ゆきに直接お会いした折、この写真をお見せしたところ、「(赤塚)不二夫ちゃんと私は正解だけど、こちらの方はタモさんじゃないわよ」と答えて下さったことがあった。


その後私が、ならば、このアイパッチをしたタモリ風の人物はどなたなのか伺ったところで、如何せん、四十数年も時を経た遠い過去の話。当然ながら、なかなか思い出せず、辛うじて、当時、赤塚と頻繁に行動を共にしていた昵懇の人物であり、児島自身、幾度か顔を合わせたことがあったと語る程度に留まった。

私にとって気の置けない親友であり、赤塚不二夫ディレッタントとしても名高い才賀涼太郎(ブログ「赤塚不二夫保存会」主宰)も、X上で児島本人に訊ねたところ、同様の答えを頂戴している。

因みに、この後、児島本人がX上で、改めて撮られた一枚なのだろう。児島が赤塚の鼻の下にマジックインキでバカボンのパパ風の髭を描いている写真をアップしていた。

この時の赤塚と児島のファッションが、件のスリーショット時と同一のラガーシャツとブラウスであったことからも、写真中央の人物が児島であることがわかるし、もしかしたら、唐沢にタモリと間違えられた件の人物のアイパッチも児島によって描かれたものかも知れない。

では、このアイパッチメイクの偽タモリ氏は、一体何者なのか。愈々本題に入るとしよう。

手前味噌で恐縮だが、我が邸宅には、単行本や付録、未収録作品掲載誌やカバーフィーチャーされた雑誌等、凡そ数千冊に及ぶ赤塚不二夫関連の書籍か埋まった本棚のほか、貴重な赤塚グッズや赤塚フィギュアで埋め尽くされた通称「赤塚部屋」がある。

誰もその足跡を振り返えらない、それも愚民どもに愚弄される存在にまで成り下がった赤塚不二夫
を不憫に思い、三〇年ほど前からコツコツ集めていた、筆者にとっては国宝級のお宝というべき秘宝の数々である。

これだけの資料があれば、件の偽タモリ氏の正体に近付けるのではないか。そう結論に達した筆者
は半日掛け、赤塚部屋の資料と久方ぶりに向き合ってみた。

そこで一枚の写真を見付けた。

「週刊少年サンデー」(68年9号)の特別企画として掲載された「赤塚不二夫寄席」所収の写真である。

このページ中で、赤塚不二夫の交遊録を特集したコーナーに、藤子不二雄、石森章太郎、つのだじろう、鈴木伸一、園山俊二といったトキワ荘時代からの盟友やフジオ・プロの面々、「まんが海賊クイズ」での共演で親交を深めた漫画家の森田拳次や黒柳徹子、人気絶頂のコメディアン、ドンキー・カルテットの小野ヤスシといった人気タレントと並んで、全く無名な「弘岡隆」なる人物が、その一角として取り上げられている。

この弘岡隆なる人物は、『おそ松くん』の特大ヒットで急激に成金となった赤塚不二夫に何台もベンツも売り込んだ(株)「ヤナセ」のやり手セールスマンで、赤塚とは意気投合した関係から、ヤナセを退職し、後にフジオ・プロ経理部に在籍するようになった変わり種だ。

同時期に、『オバケのQ太郎』『パーマン』『怪物くん』『忍者ハットリくん』等のスマッシュ・ヒットで、赤塚と並ぶギャグ漫画の第一人者となった藤子不二雄コンビが、ベンツのセールスマンから「ベンツなんて、藤子先生クラスの売れっ子になれば、所詮は下駄代わりの買い物ですよ。免許がなければ、私が運転手を用立て致しますから」と勧められたといったエピソードを、以前、筆者は藤子A本人から伺ったことがあるが、このセールスマンこそ、藤子、赤塚と同じく西新宿「市川ビル」で軒を構えていた関係を勘案するに、弘岡隆であることに疑いの余地はないだろう。 

この弘岡隆は、後に赤塚がオーナーを務めることになるレーシング・チーム「ZENY」の主要メンバーになり、その界隈で有名だった、今でいう半グレ集団「新宿紀伊國屋二期星」の残党と同様に積極果敢に鈴鹿のレース等に関わっていた。

以前、別のエントリーで詳しく論述したが、この「紀伊國屋二期星」には、第八方面交通機動隊中隊長を実父に持ち、今尚「府中・三億円強奪事件」の真犯人ではないかと囁かれているS・A少年も、副リーダー格として関わっていたグループだ。

このS・A少年と赤塚は顔見知りの存在だった。

にも拘わらず、赤塚は弘岡に対して「私が三億円事件の犯人ですって、自首しちゃいなよ」と頻繁に軽口を叩いていたという。

つまり、そのくらい、弘岡と例の有名なモンタージュ写真はそっくりだったのだ。

実際、赤塚は、自身の連載漫画『母ちゃんNo.1』の最終話(「母ちゃんの会社がパーになった」/「週刊少年サンデー」77年12号掲載)なるエピソードで、お世話になった主人公・山田フキ子の窮地を救う従業員が、実は三億円強奪犯人だったというシチュエーションで、弘岡を楽屋ネタ的に登場させている。

弘岡は、フジオ・プロの経理部に在籍した後、1974年、古谷三敏、芳谷圭児が独立し、「ファミリー企画」を設立した際、古谷らに付いて移籍することになるが、それでも、その後、赤塚とは
付かず離れずの関係を続けていたと見え、79年当時、赤塚が主催する酒席に顔を出していたのは想像に難くない。

実際、弘岡の顔写真とこのアイパッチメイクを施した件の偽タモリを比較してみた結果、この時より遡ること九年前の写真とはいえ、右眉の形、頬から顎に掛けてのライン、鼻筋から小鼻の張り具合に至るまで、同一人物に思えてならないのだ。

ただこれも、あくまで私個人の見解であって、読者諸兄はどのような感想を持たれたであろうか?

今回、この一件において、SNSを媒体にデマそのものが恐るべきスピードで拡散して行く事象を、好サンプルとして再認識した。

実際、私のそれよりも圧倒的な偏りを指し示したリツイート数が物語るように、唐沢の虚伝を鵜呑みにし、件の偽タモリがタモリ本人であると信じて疑わないユーザーが大半であろう。

タモリと言えば、ビートたけし、明石家さんまと並び、半世紀近くに渡って活躍してきた国民的人気タレント。我々にとって、ある意味親族に近い存在だ。

それなのに、実に嘆かわしい。

まさに、ネットリテラシーの欠如、ここに極まれりである。

また、今回、私の引用リポストがバズったのも、話題の中心があくまでタモリだからであって、もし赤塚単体のものであれば、これほどまでの反響はなかったであろうし、ヤフー・ニュース等でも取り上げられるといった展開を得られなかったことも、本稿の締め括りに代えて指摘しておく。

嫉妬? パワハラ? 永井豪作品を連載打ち切りに追い込んだその真意とは?

2023-05-16 14:01:32 | 論考


赤塚不二夫の死後、ネットの普及も手伝ってか、世の赤塚認識は、晩年における、酒に溺れ、漫画家としての活動が停滞したその醜態や、好色漢とも見られがちなその言動から想起されるように、「俗物」といった概念が強いのではないだろうか。

赤塚のモラルを越えた奔放な言動は、現在、コンプライアンスの観点から鑑みた場合、完全にアウトであると思われるケースが多々ある。

酔い潰れた「週刊少年キング」の小林鉦明記者を仕事場に近い妙正寺川に、武居、五十嵐両記者とともに放り込もうとしたエピソードなどは、赤塚伝説の一つとはいえ、それそのものが、暴行傷害、殺人未遂の大犯罪であるし、飲酒運転なども、ベンツを乗り回していた時代は恒常的に繰り返していたとも聞く。

また、漫画集団の忘年会では、AV女優を招いて本番ショーを披露し、写真週刊誌「FRIDAY」に取り上げられたことから、戸塚警察に呼び出しを喰らい、厳しいお叱りを受けるといった
愚行も露呈させるなど、インモラルな奇行を挙げれば枚挙に暇がないが、これらの馬鹿さ加減は、個人的にはまだ笑って許容出来る範囲内にはある(苦笑)。

だが、近年において、赤塚不二夫の俗物イメージを更に際立たせてやまないエピソードが、ネットを舞台に頻繁に拡散されており、多くのユーザーから、これはパワーハラスメントではないか、もしくは嫉妬ではないかと、厳しい批判の声を受けている。

いつもの赤塚に向けてありがちな、泡沫ユーザーらによる風説の流布や漫言放語ならば、筆者としてもスルーの対象となるのだが、今回取り上げるトピックは、そういった類いのものではなく、確かなソースを備えた、紛うことなき事実であるので、敢えてエントリーに加えた次第だ。

それは、1968年に、デビュー間もない永井豪の初連載作品に、赤塚不二夫が編集長に抗議し、ストップを掛けたと言われる『じん太郎三度笠』(「週刊少年マガジン」)打ち切り事件である。

このすったもんだは、『ナマちゃん』で赤塚のギャグ漫画家としての才能を発掘した「まんが王」編集長の壁村耐三が、永井にとって初連載作品となる『じん太郎三度笠』を読んだ赤塚が、永井に「赤塚不二夫先生がアドバイスをくれるから、一緒に来ないか」と誘ったことに端を発する。

デビュー間もない当時の永井にとって、ギャグ漫画の第一人者で赤塚は雲の上の存在。喜び勇んで壁村に同行したら、出会い頭より赤塚から「どうしてあんなマンガを描くんだ!」と、開口一番、怒鳴られたという。

怒り心頭の赤塚は、続けて「こういう残酷なマンガを載せちゃいかんって、編集部にも怒鳴り込んだんだ」と息巻いたそうな。

事実、『じん太郎三度笠』は、読者からの評判も上々で、編集部側としても、その後も連載続行の意向を固めていたにも拘わらず、第5回目の掲載をもって打ち切られてしまう。

漫画ファン及び世間一般の想いとしては、今となっては箸にも棒にも掛からない赤塚不二夫程度の存在が、漫画界の至宝ともいうべき永井豪の才能を摘もうとするなんて言語道断、不快千万であるというのが大半であろうが、個人的には、打ち切りを決断した「週刊少年マガジン」編集長の内田勝にも、その非があると思えてならない。

つまり、内田はこの時、勝ち馬に乗ってやまないそのご都合主義的な性格から察するに、『バカボン』の連載開始により、「マガジン」の部数増大に大きく貢献した赤塚に対し、日和っていたと思えて仕方ないのだ。

まだ、永井は『ハレンチ学園』をヒットさせる前で、内田にしたら、海のものとも山のものとも付かない存在だったであろうことは、安易に想像が付く。

その後、有名な『バカボン』の「サンデー」移籍事件によって、赤塚から酷くプライドを踏み躙られた内田は、急遽掌を返し、赤塚のその作品は勿論のこと、全人格を事あるごとに否定、批判を重ねるようになる。

無論、内田に『じん太郎』の打ち切りを要求したのは赤塚だが、日和見主義の内田が赤塚と蜜月関係を築いていたという悪しきタイミングも重なった結果としか言い様がない。

『じん太郎三度笠』は、主人公のじん太郎がヤクザの生首に生け花を挿したり、興奮のあまり、人間を切り刻んだり、殺したりと徹底したブラックユーモアに貫かれし作品だ。

ただ、永井としては、可愛い絵柄で描かれた作品であるため、読み手にそこまでの残酷性は感じさせないと思っていただけあって、赤塚の主張は理不尽極まりないものとして写ったようだ。

何故なら、同じく「マガジン」で好評連載中であったさいとうたかをの時代劇画『無用ノ介』は、更に血飛沫飛び交うスプラッター描写が濃厚であり、どうしてストーリー劇画では残酷描写が問題なく、ギャグ漫画では否定されるのか、永井にしたら、その理屈が全く理解出来なかったからだ。

その時、永井はこう思ったという。

「赤塚先生がダメだというのは、自分が描きたくても描けないものをアッサリ描かれたからだな。そう思った僕は、よしやってやろうと、叱られて自分の進むべき道を再確認したのだ。」(「第19回 少年マンガのタブー」/「永井豪、初の自伝的エッセイ 豪氏力研究所」「Web現代」、02年)

つまり、永井は、赤塚の『じん太郎』に対する打ち切りの強行は、自身の才能へのあからさまなジェラシーであると判断したのだ。

永井が語る再確認とは、タブーへの挑戦を意味しており、この後間もなく、「少年ジャンプ」創刊号にて、女生徒へのセクハラやスカートめくりを大々的に扱い、後に社会問題化する『ハレンチ学園』を発表。連載扱いとなり、大ヒット作となる。

永井の逆境をバネとし、漫画界のエポックメイキングになり得る大傑作を発表したその功績は、称賛に値するものだが、永井が赤塚から受けた仕打ちに対し、嫉妬と感じたその発言には、筆者自身、永井と赤塚の間で埋めることの出来ない、当時の流行語でいうところの「世代の断絶」を感じずにはいられない。

その世代の断絶とは、則ち、戦後生まれであり、戦後民主主義の時代の秩序と安寧の社会の中で育った永井と、戦時中、満州に育ち、後に「人間はイザという時には、醜い動物、卑しい虫のような存在になる」と言い放った赤塚との間に横たわる死に対する意識の違いである。

永井は、戦後民主主義の恩恵を受けて育った最初の世代であったが、その実、理念と運動と制度との三位一体であるべき筈の民主主義が、その教育も含め、民意とは乖離した虚妄と欺瞞に満ちた社会構造にあるという異質感をブラックジョークに包んでカリカチュアライズしたのではなかろうか。

赤塚が嫌悪した『じん太郎三度笠』におけるスプラッター描写もまた、後にスパークする永井の作家性の萌芽として、個人的には見て取れる。

事実、その作風は『ハレンチ学園』に登場するヒゲゴジラら悪辣でスケベな教師どもが、山岸や十兵衛らに徹底的に懲らしめられたり、後に第一部の完結編となる「ハレンチ大戦争』での大日本教育センターとハレンチ学園との大バトル描写等においても確認出来よう

他方、満州時代、凄惨な殺戮や横たわる死体を嫌というほど目の当たりにしてきた赤塚にとって、また戦後、母親の後に付いて命からがら日本に引き揚げて来た際、実の妹をジフテリアで失った赤塚にとって、永井が描くハード&ラウドなスプラッターギャグは、人間の尊厳を損なう卑俗な光景に映ったのかも知れない。

ましてや、赤塚自身がパイオニアとなって開拓してきたナンセンス・ギャグ漫画の世界である。

当事者である赤塚にしてみたら、伊達や自惚れではなく、我こそがギャグ漫画界の総元締めだという意識が強く働いたに違いない。

その結果、己のフィールドで、このような漫画が描かれることは我慢ならず、『じん太郎』の打ち切りを「マガジン」編集部に要求したというのが、筆者の推測であり、見解である。

無論、そうであったとしても、それは、当時の赤塚の漫画家としての優位的な立場を利用した職権の発動に過ぎず、筆者としても弁護の余地はない。

因みに、この後、永井の談によれば、「赤塚賞の審査員をした際、赤塚先生がこっそり謝りに来た」とのことで、赤塚にしても、永井に対する暴挙は、大人気なかったという反省の面もあったのだろう

また、時を経た1995年、赤塚は永井作品に対し、こう評価している。

「セリフが簡潔でうまい、のも豪チャン漫画の特徴だ。百ページの長編描いても流動感というかスピード感というか、すっーと読ませてしまう。 〜中略〜 SFものも怪奇ものもギャグも、僕がみんな好きなのは、そこに「永井豪調が貫かれているからなのだ。漫画が本当に好きで漫画家になった“最後”の漫画少年なのだ。」(「“最後の漫画少年”なのだ」/『バカボン線友録! 赤塚不二夫の戦後漫画50年史』所収、学習研究社)

一方の永井は、絶頂期にあった赤塚に対し、こう評価している。

「ナンセンスに関しては八方破れな大変なセンスの持ち主だと思う。ぼくもギャグでデビューしたから、赤塚さんを目標にしていました。今では二人が違ったものになったから楽しみに見ている。傍目から見ると、形式にとらわれないで、リラックスしてやっている感じがいい。」(「マルチ・イメージ 赤塚不二夫④」/『別冊まんがNo.1 赤塚不二夫大年鑑』所収、日本社、73年)

さて、ここで一つの疑問が生じてくる。

「週刊ぼくらマガジン」「週刊少年マガジン」と講談社系漫画誌にカムバックした第三期連載の『天才バカボン』や『レッツラゴン』の連載開始となった1971年以降、赤塚ワールドにおける尖鋭性は更に拍車が掛かり、作中、登場人物が死に至らしめられるギャグも頻繁に描かれるようになったことだ。

『じん太郎』批判をした赤塚がその後、そのスプラッター描写を自家薬籠中のものとしてしまっているこの作風の変化に対し、懐かし漫画マニアであるSNSユーザーらも疑問を投げ掛けていた。

一体何故……!?

筆者は、この作風の変化に関し、最愛の母・リヨの前年の死が大きく影響しているのではないかと推測する。

ろくに仕事もなかったトキワ荘時代、上京して来たリヨにべったり甘える姿を見られ、仲間達から「マザコンの極致」と笑われていた赤塚である。

終戦後、ソビエト連邦にて軍事裁判に掛けられ、長らくシベリアでの抑留生活を強いられていた父・藤七に代わって、幼い赤塚らを女手一つで守り抜き、また育てて上げたリヨは、赤塚にとって掛け替えのない存在だった。

つまりは、そんなリヨの逝去をもって、赤塚不二夫にとっての戦中は終わったのではないかということだ。

勿論、『レッツラゴン』の開始直前に訪れたニューヨークでの短期遊学とその時に受けたカルチャーショック、そして「MAD」編集部への訪問がその作風の変化に色濃く影響を及ぼしたことは、語るに及ばない。

さて、永井豪と赤塚不二夫、どちらの方が漫画家としてのステージが上かと問われれば、『デビルマン』『マジンガーZ』をはじめとする世界的な評価も含め、永井豪に軍配が上がることは必至であると、赤塚不二夫ディレッタントを自認している筆者ですら、そのように理解している。

ただ、その後、書評家であり、プロインタビュアーである吉田豪との対談で、永井は、こうした諸々の影響から、暫くはギャグ漫画を続けてみようという意思を固めたと語る中、「ついでに赤塚先生を追い詰めてやろうと思って」と結んだが、もし、永井自身、自らのギャグ漫画が赤塚を漫画家として追い詰めたとの認識を抱いているならば、そこには、モヤモヤとした違和感を拭い切れず、その件に関しても、この場にて個人的な見解を申し立てておきたい。

永井もまた、『ハレンチ学園』を皮切りに『あばしり一家』(「少年チャンピオン」、69年〜73年)、『キッカイくん』(「週刊少年マガジン」、69年〜70年)『ガクエン退屈男』(「週刊ぼくらマガジン」、70年)『オモライくん』(「週刊少年マガジン」、72年)『ケダマン』(「週刊少年サンデー」、72年)『おいら女蛮』(「週刊少年サンデー」、74年〜75年)『イヤハヤ南友』(「週刊少年マガジン」、74年〜75年)等々、夥しい数のギャグの傑作、怪作群を連載するが、永井ギャグが少年漫画誌の誌面を賑わせていた時代は、赤塚ギャグの全盛期、円熟期と重なり、これらの永井作品が赤塚ギャグを漫画界より駆逐したとは、到底考えられないのだ。

実際、赤塚が長らく主力作家として執筆してきた「サンデー」「マガジン」「キング」といった少年週刊漫画誌から退場するのは、1978年のことであり、代表作である『天才バカボン』もまた、同年12月号をもって「月刊少年マガジン」での連載を終了している。  

戦後ギャグ漫画の歴史を時系列で整理するならば、赤塚がその執筆活動において、縮小傾向を迎えるに至った時期は、1974年に「週刊少年チャンピオン」で連載開始され、爆発的人気を博した山上たつひこの『がきデカ』の影響下にあって、その後続々と登場した秋本治、小林よしのり、鴨川つばめ、江口寿史といったギャグ漫画家達の台頭と時を同じくしている。

彼らに第一線を譲るかたちで、赤塚ギャグは少年漫画の世界から淘汰されたと言えるだろう。

『がきデカ』のヒットと山上の台頭に後続した新たな才能の登場により、ギャグ漫画のメインストリームが、赤塚ワールドから大きく乖離し、読者が漫画に求める笑いの傾向がより細く枝分かれしていったのだ。

彼らは、赤塚や永井のようにプロダクション・システムによって作品を大量生産することなく、少数スタッフにより、一本の連載を忠実に守ってゆく創作方法を採っていた。

その結果、仕上がりにバラつきのない、及第点を越える作品群を、1970年代後半において、高頻度で提供することに成功した。

赤塚が漫画界の第一線、則ち少年週刊誌から離脱した最大の要因は、永井豪の活躍ではなく、このように『がきデカ』ショックによるギャグ漫画の大きな変革にあるのだ。

余談だが、ギャグ漫画界における山上たつひこの影響力は、赤塚不二夫以降、最も甚大で、『こちら葛飾区亀有公園前派出所』でデビューする秋本治が、暫くの間、山上を捩ったペンネーム「山止たつひこ」としていたことは有名だが、その主人公・両津勘吉の原型もまた、同じく山上の代表作である『喜劇新思想体系』に登場する角刈ヘアに腕捲くり姿のゴリラ顔した制服警官、玉無啓三巡査にあると思えてならない。

そのくらい赤塚以降のギャグ漫画家で、ニューエイジたる山上のセンスは強力な磁場を放っていたのだ。

因みに、1978年は、『Dr.スランプ』の鳥山明と『うる星やつら』の高橋留美子がデビューを果たした年でもある。

永井豪も、同年「週刊少年サンデー」に、映画「スター・ウォーズ」にインスパイアされたとおぼしき『スペオペ宙学』、「月刊少年ジャンプ」に、ザーサイ星雲のピータン星からやって来たスーパーマンの活躍をドタバタテイストたっぷりに描いた『超マン』(『キン肉マン』に登場する人気超人・ラーメンマンのルーツか?)を連載するが、いずれも大きな人気を得るまでには至らなかった。

赤塚とは違い、70年代末期以降においても、メジャー少年誌での連載を持ち得ていた永井だったが、その永井ギャグですら、最早ヒットに恵まれる時代ではなくなってきていたのだ。

しかし、永井はその後も、サイキック・アクション大作『凄ノ王』で第4回講談社漫画賞を受賞(80年)。近年では、その全作品に対し、第47回日本漫画家協会文部科学大臣賞(18年)や、フランス政府から芸術文化勲章「シュバリエ」を授与するなど(19年)、OVA化や映画化といったメディアミックスも含め、現在に至るまで意気軒昂な活躍を示していることは先刻承知の通りである。

今年(2023年)に入ってからは、体調不良も危ぶまれている永井だが、赤塚が言うところの「最後の漫画少年」として、健康に留意しつつ、世界に散らばる無数のファンのためにも、益々の活躍を祈念するばかりだ。


赤塚不二夫と曙出版の共闘関係

2023-05-10 14:23:55 | 論考

独断と偏見を承知の上で、敢えて言わせて頂くならば、我が国で過小評価を受けている漫画家の最右翼こそ、誰あろう我が赤塚不二夫である。

赤塚不二夫の逝去から早十五年もの歳月が経とうとしている。

その十五年間の間、赤塚不二夫を巡る環境、そして付随する評価は、時を経るごとに最悪なものになっていることは、これまで拙著や当ブログで伝えてきた通りだ。

日々、インターネットの匿名掲示板やSNSなどでは、漫画家としての赤塚の偉業から目を逸らし続けている泡沫ユーザーらによって、罵詈雑言の言葉をぶつけられ続けている始末である。

曰く「生まれた時からアル中」「下品で打たれ弱い中卒の馬鹿」「何の才能も輝きもない虫けら」「酒で身を持ち崩した自称元漫画家」等々、これらの赤塚の人格、人間としての尊厳をも損なうかのような言葉の暴力には、赤塚不二夫ディレッタントを自認している筆者にとっては、立腹は勿論、目を覆いたくなるものばかりだ。

何故、赤塚はこのような国民のサンドバッグと化す存在になったのだろうか?

理由の一つとして、まずはこの令和の現在、コロナ禍や与党の無軌道極まりない政権運営による政局の不安定化、先行き不透明な時代の鬱屈感が国民の背中に重くのしかかっていることが挙げられよう

要するに、そうした不平不満をぶつけるサンドバッグとして、既に故人である赤塚不二夫に白羽の矢が立ったということだ。

しかし、死しても尚、そんな愚劣な連中のストレスの受け皿としてなり得ている点は、動揺もあるが、流石は赤塚らしい並々ならぬ父性を感じさせる。

閑話休題。この忌々しき問題に関しては、いずれ新たなエントリーを設けて論述してゆきたいが、現状における箸にも棒にも掛からない世の赤塚理解において、赤塚マンガを手に取って読む機会が益々消えつつある現実こそが最大のネックであると言わざるを得ないだろう。

現に、赤塚の代表的なキャラクターをフィーチャーし、二見書房より鳴り物入りで刊行を開始した文庫本『メイドイン赤塚不二夫』シリーズが、全12巻予定だったものが、『六つ子』『アッコ』の二冊のみのリリースで終了してしまったことは記憶に新しい。

漫画家はその作品が読まれてなんぼの職業なのに、赤塚不二夫に限っては、そうした状況から著しく外れているようにしか思えてならない。

だが、そんな赤塚にも、かつてほぼ全ての作品を網羅し、叢書化、単行本化しようと積極果敢な取り組みを果たしてきた出版社が存在していた。

赤塚不二夫がデビュー作『嵐をこえて』を上梓した株式会社・曙出版である。

曙出版は、1948年、土屋弘が文京区曙町(現在の本駒込)にあった雑居ビル内に軒を構え、当時の町名をそのまま社名に据え創業したことがそもそもの始まりであった。

創業から暫くは、子供向けの世界名作全集の絵物語版やとんち小説、戦記、薄幸の少女ものといった読み物を手掛けていたが、53年に大田加英二(後にタツノコプロ作品のコミカライズや構成などで辣腕を振るうたつみ勝丸の変名)の『少年決死隊』の刊行を機に「感激漫画美談文庫」(後に「あけぼのまんが選」と改称)なるレーベルを立ち上げた以降は、描き下ろしの漫画単行本に特化した出版社として業績を伸ばしていった。

『嵐をこえて』以降、赤塚は、「あけぼのまんが選」レーベル内において『湖上の閃光』『嵐の波止場』『心の花園』『消えた少女』といった描き下ろしの少女漫画、ミステリー漫画を引き続き上梓し、その後も連載作品である『おハナちゃん』や『おた助くん』、『ひみつのアッコちゃん』といったタイトルをやはり貸本向けのA5サイズでリリースするなど、曙出版との繋がりを深めてゆく。

また、A5サイズの貸本向け単行本でいえば、赤塚は『カン太郎』や『まかせて長太』、『九平とねえちゃん』といった初期の赤塚ワークスの傑作群を文華書房からも叢書化している。

文華書房とは、1963年、樋口一葉が終の棲家としたことでも知られる丸山福山町(現・西片一丁目辺り)に軒を構えた曙出版の子会社で、66年末の営業停止に至るまで、土屋弘の実子である土屋豪造が代表取締役を務めていた。

文華書房は、その奥付に記された「発行所・文華書房/発売元・曙出版」の文字が物語るように、土屋弘にしたら、無論税金対策の一環もあったであろうが、引退後、豪造に事業を継いでもらいたい想いも強く、その出版ノウハウを伝授したいというもう一つの目論みによって立ち上げられたパブリッシャーと見て間違いないだろう。

文華書房の活動停止後、豪造は、1960年に曙出版より、実用書、人文図書部門の刊行を主軸に据え、独立した株式会社・土屋書店の代表取締役に就任。その後、語学学習の参考書や資格取得に向けたガイドブック、若者向けの自己啓発本等、無数の書籍をプロデュースし、長期に渡りその采配を振るった。


さて、再び話は立ち返るが、これまで記してきた曙出版と赤塚不二夫との密接な間柄は、社長である土屋弘が赤塚と同じ新潟出身という同郷の関係にあり、そうした繋がりから、新人の赤塚には何かと目を掛けていたからに他ならない。

暫し、曙出版を主軸に執筆活動をしていた長谷邦夫が、曙出版に赤塚を紹介したから、多数の赤塚単行本が刊行されるに至ったと、ネットを中心に語られているが、このような土屋弘と赤塚の関係から察するに、これもまた、赤塚を取り巻く漫言放語の一つだと言わざるを得まい。

やがて、漫画単行本は、コミックスと名称を代え、昭和41年以降、「ゴールデンコミックス」(小学館)「サンデーコミックス」(秋田書店)「ダイヤモンドコミックス」(コダマプレス)「サンコミックス」(朝日ソノラマ)「虫コミックス」(虫プロ商事)等、数多の出版社より、コンパクトな新書判サイズにて続々と刊行されるに至り、一気にラインナップを増やしてゆく。

そう、新書判コミックスブームの幕開けである。

曙出版もそうしたブームに呼応すべく、1968年、新書判レーベル「アケボノコミックス」を新たに設立。

その第一号コミックスとしてシリーズ化されたのが『おそ松くん全集』で、編集の都合上、第4巻から刊行されるという変則的なかたちでのスタートだった。

『おそ松くん全集』は、当初の全24巻の初版のみで150万部を越える大ヒット。再版に次ぐ再版から最終的には500万部を売り上げる大ベストセラーとなった。

当時、アケボノコミックスの装丁や編集作業を受け持っていた横山孝雄は、『おそ松くん全集』の爆発的な売れ行きを次のように振り返る。

「曙出版で『おそ松くん』の単行本が一冊出ると、それだけでフジオプロに毎月、(四十数年前)五〇〇万から八〇〇万円の収入があったのです。」(「みんなの頭をはたきながら、憎まれ役をやっていた」/『SPECTATOR    赤塚不二夫』第38号所収、エディトリアル・デパートメント、17年)

 毎月というからは、恐らく再版を含めてのことではないかと推測出来る。

『おそ松くん全集』の総発行部数を1000万部とする文献(「シェーでギャグのパフォーマンス     おそ松くんはギャグの先生だった」/『サンデー毎日』90年8月5日号)もあるように、実際はそれに近い総売り上げを誇る大ベストセラーであった可能性も捨て切れない。

その後も、赤塚のキャリアにおいて、極めて初期となる代表的なタイトル(『ナマちゃん』)から、1970年までに発表された傑作怪作の粋を集めた『赤塚不二夫全集』(全30巻)や『もーれつア太郎』(全12巻)、『天才バカボン』(全31巻+別巻全3巻)『レッツラゴン』(全12巻)等をリリース。取り分け、『ア太郎』『バカボン』に至っては、『おそ松くん全集』に継ぐベストセラーとなり、この三作品の総発行部数は、最終的に1200万部を上回ることになる。

実際、数ある赤塚のアケボノコミックスにおいて、増刷されなかったものは、『赤塚不二夫全集』全30巻に加え、『鬼警部』『狂犬トロッキー』『幕末珍犬組』『ぼくはケムゴロ』、曙文庫の『まかせて長太』の第1巻のみで、他のマイナータイトルを含め、全て再版が掛かっているのだ。

アケボノコミックスは、好美のぼる(『にくしみ』『妖怪合戦』他)や白川まり奈(『吸血伝』『侵略円盤キノコンガ』他)といった、今尚カルト的な人気を誇るホラー漫画家の作品も多数刊行しており、現時点においては、赤塚への過小評価に加え、好美、白川らに支えられた出版社というイメージで見られがちだが、実際、圧倒的なセールスを誇ったのは、赤塚の『おそ松くん全集』であり、『もーれつア太郎』であり、『天才バカボン』であり、トータルで200万部を売り上げた古谷三敏の『ダメおやじ』(全21巻)であった。

事実、赤塚の『おそ松くん全集』の売り上げのみで、曙出版は、74年文京区白山二丁目に占有面積40坪余り、4階建ての自社ビルを建設している。

アケボノコミックス・レーベルにおける品揃えについては、好美、白川らに象徴されるホラー漫画と赤塚を筆頭とする長谷邦夫(『バカ式』『絶対面白全部』他)、とりいかずよし(『ふんばらなくっちゃ』『豆おやじ』他)、横山孝雄(『旅立て荒野』)、芳谷圭児(『エンジン魂』『高校さすらい派』他)、百起賢二(『幕末風雲録』『帰らざる海』)、北見けんいち(『マンバカまん』)、てらしまけいじ(『馬次郎がやって来る』『あららけんちょ』)といったフジオ・プロ系列の作家の諸作品、または、『ドッキリ仮面』(原作/神保史郎・作画/日大健児)や『ドタマジン太』(板井れんたろう)、『タマオキくん』(よこたとくお)、『王チンチン』(森田拳次)といった他社で単行本化されていない、もしくは続刊が中止となったフジオ・プロ系以外のギャグ漫画作品がシリーズの大半を占めていた。

しかしながら、これら以外の単行本化作品に触れれば、アニメ化もされたSF活劇物である『ゼロテスター』(はただいすけ)、古くは東映特撮ドラマの漫画版『キャプテンウルトラ』(小畑しゅんじ)、往年の人気アニメをコミカラズした『おらぁグズラだど』(板井れんたろう)、ちばてつやタッチにあからさまな影響を受けたとおぼしき『おれの行進曲』(ふくしま史朗)等、そのラインナップに一貫性があるとはいえず、赤塚とフジオ・プロ系を除いた諸作品の単行本化の基準において、今だその謎は解明されていない。

趣きの深いところでは、『赤塚不二夫全集』の向こうを張った『大田じろう全集』(全6巻)があり、『げんこつ和尚』や『塚原卜伝』などがそのラインナップとして含まれている。

余談だが、アケボノコミックスの編集部門を統括していたのは、宮川義道なる人物(1941年生まれ)で、元々は曙出版の『ハイティーン』や『ローティーン』といった貸本向けアンソロジー集に漫画を描いていた漫画家であった。

1963年に社員として入社した宮川は、曙出版と、前述の文華書房の二社を股に掛け、数々の貸本漫画の編集、編纂に携わる。

実はアケボノコミックス・レーベルの立ち上げを企画し、実現化させたのも、一説には、宮川であるとの噂もある。

宮川は、1976年まで曙出版に籍を置き、その間、アケボノコミックスの巻末ページにて、「あけぼのに巣食うばけもの 変醜(へんしゅう)のお宮」を名乗り、昔取った杵柄宜しく、漫画入りの読者コーナーを受け持っていた。

アケボノコミックス・ユーザーには馴染み深い御仁だ。

その後、フリーとなり、ペンネームをつがる団平に改名。漫画家、イラストレーターとして再出発を図ることになる。

元々は貸本向け出版社であった曙出版は、このようにコツコツと業績を上げ、赤塚ブームに伴走するかたちで、生き長ら得たわけだが、1977年以降、アケボノコミックスの新刊の刊行を中止せざるを得ないといったアクシデントに見舞われる

理由は単純明快。アケボノコミックス版の『天才バカボン』が、講談社サイドの予想を上回るヒットセラーとなったからであった。

1971年、移籍した「週刊少年サンデー」での連載終了後、赤塚は、テレビアニメ化の土産を持って、講談社サイドに謝罪し、『バカボン』を「週刊ぼくらマガジン」を経て、「週刊少年マガジン」にカムバックさせるが、この後、再び赤塚番として舞い戻った五十嵐隆夫記者に『バカボン』のコミックスを曙出版でも刊行出来るよう懇願したという。

この時の様子を五十嵐はこう振り返る。

「(名和註・赤塚)先生は曙出版で漫画家デビューしました。その曙から『天才バカボン』を出したいと言ってきて、先生はわたしにこう言いました。「分かってくれよ、おれはここからかなり若い時から自分の単行本を出してもらって、それが自分の生活の糧となり今日があるんだ。ヒット作が出たときに、もうお前のところから出さないよ、講談社オンリーだよと言うのは、おれには出来ないんだよ」と。また、こうも言いました。「イガラシ、お前のところは『天才バカボン』をさまざまな形で宣伝すると思う。多くの読者が『天才バカボン』は「マガジン」から出ていると思っている。それに、書店は、曙の品揃えより講談社のKCで揃える方が多い。曙はそういうハンデを持っているんだから、目をつぶってくれ」   わたしは先生の真意が充分わかりました。副編集長の 宮原(照夫)さんに、「先生にこう言われて、わたしは納得がいきました」と話したのです。宮原さんも、自分も納得がいく。営業はうるさいかもしれないけど、事を荒げないでいよう。もしそうなったら自分が一身に受けるからという意味のことをおっしゃって、結果的に、大きな問題にはなりませんでした。」(「傑作をつくる一瞬の快感のために、邁進している人でした」/『SPECTATOR    赤塚不二夫』第38号所収)

因みに、当時の『バカボン』愛読者の間では、同じ値段でありながらも、ページ数の少ないアケボノコミックス版よりも、ボリュームもたっぷりな講談社KCコミックス版を買った方がコストパフォーマンス的にもベストであるとの意見が頻繁に聞かれたという。

事実、「少年マガジン」復帰後、久方ぶりの続刊となった講談社KCコミックス版『バカボン』の第8巻(72年3月10日初版)は、発売から一月程度で、30万部突破とアナウンスされており(「週刊少年マガジン」72年4月5日増刊)、この売れ行きからも、多くの読者がKC版の方を買い求めていたことがよく分かる。

では、何故、アケボノコミックス版『バカボン』は、同レーベルにおける『おそ松くん全集』『赤塚不二夫全集』『もーれつア太郎』『レッツラゴン』等と違ってページ数が少なかったのか。

それは、曙出版側の講談社に対する配慮として、本来の新書判コミックスよりも数十ページを削減し、スリム化した体裁で『バカボン』をシリーズ化したからに他ならない。

そのため、見栄えを考慮し、新書よりも一回り大きいB6判サイズでの刊行となったのだ。

だが、アケボノコミックス版『バカボン』は、ページ数こそ少ないものの、B6判という通常のコミックスよりもワイドサイズで読める点が効を奏し、1976年の時点で420万部近いセールスを記録する。

テレビアニメ『元祖天才バカボン』のオンエアに合わせ、背表紙の著者表記部分に「テレビ放映中!!」の見出しを入れ、存在感をアピールしたことも、販売促進に繋がったと見て取れよう。

このアケボノコミックス版『バカボン』の異常とも言える売り上げは、講談社サイドの神経を逆撫でする結果となった。

講談社営業部は、今後『バカボン』の新刊を出す際には、講談社側に版権使用料の一部を支払うよう、曙側に通告してきたという。

講談社としては、曙の出版形態そのものが、美味しいところだけを持って行く、ある意味において、他人の褌で相撲を取るような行為にも見えたのかも知れない。

赤塚の曙出版に対する厚情にシンパシーを抱いた宮原照夫と五十嵐隆夫の熱意をもってしても、大手出版社のロジックを覆すまでには至らなかったのだ。

奇しくも、漫画雑誌を持つ各版元が自社でコミックス・レーベルを立ち上げ、掲載作品を単行本化する動きが活発化してきた時期とも重なる。

従って、「週刊少年サンデー」連載の『のらガキ』や『母ちゃんNo.1』、「週刊少年マガジン」連載の『B・Cアダム』、「週刊少年チャンピオン」の『ワルワルワールド』、「週刊少年キング」連載の『コングおやじ』などは、それぞれ連載元の出版社より単行本化されており、アケボノコミックスのラインナップには入っていない。

尚、77年当時、現行の連載タイトルであり、曙出版としてもドル箱コンテンツだった『天才バカボン』と『ダメおやじ』であるが、最終巻となる第31巻、第21巻以降のエピソードは、それぞれ「講談社KCコミックス」「少年サンデーコミックス」に限っての収録となった。

そして、これ以降漫画部門に関しては、コミックスが品切れになる都度、1981年まで増刷を重ねるのみに留まったが、1998年、曙文庫レーベルより『ひみつのアッコちゃん』第1巻が、東映動画製作によるアニメ第三作(98年4月5日~99年2月28日、フジテレビ)の放映開始に伴い、リリースされる

曙出版から赤塚の新刊が刊行されるのは、『天才バカボン』第31巻以来、21年ぶりのことであったが、売り上げの不振もあってか、第2巻の刊行中止も余儀なくされず、これをもって、曙出版での赤塚書籍のリリースは終止符を迎えるに至った。

さて、その後の曙出版の動向について駆け足で振り返ってみたい。

筆者は、赤塚マンガに興味を持ち始めた中学生時代の1988年、既に成人式を迎え、大学生となっていた1995年の二回に渡り、練馬区北町に移転していた曙出版を訪れたことがある。

88年当時、前年のテレビ東京での「天才バカボン」「元祖天才バカボン」の再放送が導火線となって、個人的に赤塚熱が頂点に達していた時代だった。

時折しも、「おそ松くん」「ひみつのアッコちゃん」の新作アニメがリバイバルヒットしていた頃である。

この時は、書店では手には入らないマニアックな赤塚単行本があれば、是非お譲り頂きたく思い、来訪したのだが、95年といえば、既に赤塚作品のリバイバル期も遠く過ぎ去り、酩酊した状態で頻繁にテレビ出演を繰り返す赤塚不二夫の姿に触れ、個人的には愛情半ばの憤りと歯痒さを禁じ得なくなっていた時代である。

メディアから伝達されるそんな痛々しい醜態を通し、社会的に抹殺されつつあった赤塚の存在を不憫に感じるようになったのもこの頃で、少なくとも自分だけは、今や評価の対象外となったその作品を個人的に保護しておきたいという想いに駆られるようになったのだ。

そうした上で、前回訪れた際に買いそびれたものがないか、確認するための再訪問であった。

無論、赤塚がこれまで上梓した著作を全てコンプリートするためである。

この時、88年の来訪時に買い漏らした作品が数点あり、70年代初頭から長らく曙出版に勤務されているという女性社員の方から、それらをただ同然の値段で譲って頂く幸運にも恵まれた。

だが、それ以上の収穫は、アケボノコミックスの販売実績を記した帳簿や、北は北海道、南は九州にまで及ぶ曙商品の取り扱い書店の一覧表等、門外不出の資料を見せて頂いたことだ。

また、この時、イラストは印刷されたものであるが、愛読者プレゼントとして書かれた赤塚筆によるサイン色紙なども、私が現在の愛読者であるという理由からプレゼントして下さったりもした。

二度目の来訪の際、最も目から鱗が落ちたのは、アケボノコミックスの奥付に関する衝撃的な裏話である。

アケボノコミックスの奥付といえば、日付や初版、再版の明記が曖昧なケースが多々ある。

その理由は、地方の書店などで売れ残った本が返品された際、小口の汚れ部分を書籍研磨機にかけ、後日、新刊として別の書店に出荷するためとのことで、曙に限らず、当時の貸本向け出版社は、何処も同じようなことをしていたという。

そうした会話の流れから、赤塚らしい、心が綻ぶエピソードを伺ったので、最後にこれを紹介して本エントリーの占めとしたい。

正確な時期は特定出来ないが、恐らく1990年代の前半から半ばに掛けてのことだと思われる。

曙出版の創業者である土屋弘が逝去された時のことだ。

お通夜に真っ先に駆け付けたのが、誰あろう赤塚であった。

赤塚は、荼毘に伏された土屋社長に泣きながら、「今の自分があるのは全て社長のお陰です」と、何度も感謝の意を伝えたという。

他の弔問客らが土屋社長を哀悼する赤塚の姿に貰い泣きした後、赤塚は別の弔問客が履いて来た靴を自分のものと間違えて帰路に就こうとしたそうな。

これは、自らが号泣したことにより、貰い泣きする者も現れたりと、より湿っぽい空気にしてしまった反省から、その空気を変えるべく、敢えて靴を履き間違え、他の弔問客の笑いを誘ったという
、赤塚ならではの粋な計らいであった。

曙出版は、2004年、編集プロダクション「岩尾悟志事務所」が経営に加わり、岩尾悟志自身がオーナーを務める「メディアックス」との業務提携という形で再出発。本社を練馬区北町から新宿区矢来町のメディアックス内に移転し、レディースコミックスやセクシー系のDVDを付録に付けたアダルト雑誌などを刊行したが、12年には出版業務から撤退し、その全てをメディアックスが引き継いだ。

日本図書コード管理センターによると、現在、曙出版は活動停止中とのことである。

曙出版をメディアックスに譲渡した土屋豪造は、2006年、学校法人滋慶学園グループへグループ企業として参加。11年、土屋書店は株式会社滋慶の出版部門を継承し、株式会社滋慶出版へと社名変更するも、18年、分社し、株式会社つちや書店として再興を果たす。

現在は、土屋豪造に代わって佐藤秀が代表取締役を務めている。

曙出版、土屋書店を巡るこうした一連の売却騒動だが、事情に詳しい出版関係者の話によると、土屋一族の親族の方による別事業の失敗が大きく影響しているとのことだ。

尚、現在のつちや書店には、赤塚ブーム時代を知る社員は一人も在籍していないという。

まさに昭和は遠くなりけりである。

しかしながら、昭和40年代〜50年代を過ごした漫画大好きキッズ達、取り分け、コア、ライトを含め、1000万人は存在したと言われる赤塚ファンであった元キッズ達にとって、街の書店の本棚をキラ星の如く彩ったアケボノコミックスの数々は、少年時代に体感した目眩く原風景の一つとして、今尚、その記憶に刻まれているに違いあるまい。

尚、曙出版、文華書房より発行された赤塚不二夫名義の書籍は、全213冊。詳細は下記の通りである。

<赤塚不二夫・曙出版全単行本リスト>

『嵐をこえて』
1956年6月7日発行

『湖上の閃光』
1956年8月25日発行

『嵐の波止場』
1956年12月10日発行

『心の花園』
1957年3月5日発行

『消えた少女』
1957年8月20日発行

『おハナちゃん』
1963年頃 発行月日不明

『おた助くん』全7巻
1964年頃より刊行開始 発行月日不明

『ひみつのアッコちゃん』全6巻
1965年頃より刊行開始 発行月日不明

『カン太郎』
文華書房(発売・曙出版)
1965年頃 発行月日不明

『やったるぜ カン太郎』
文華書房(発売・曙出版)
1965年頃 発行月日不明

『笑い笑い まかせて長太』
文華書房(発売・曙出版)
1965年頃 発行月日不明

『なんでもやるよ まかせて長太』
文華書房(発売・曙出版)
1965年頃 発行月日不明

『レッツゴー そんごくん』
1965年頃 発行月日不明

『はりきり そんごくん』
1965年頃 発行月日不明

『怪物をやっつけろ そんごくん』
文華書房(発売・曙出版)
1965年頃 発行月日不明

『おとぎの世界へ そんごくん』
1965年頃 発行月日不明

『よろずお仕事 まかせて長太』
文華書房(発売・曙出版)
1966年頃 発行月日不明

『コンチまたまた まかせて長太』
文華書房(発売・曙出版)
1966年頃 発行月日不明

『九平とねえちゃん』
文華書房(発売・曙出版)
1966年頃 発行月日不明

『キビママちゃん』全2巻
1966年頃 発行月日不明

『$ちゃんとチビ太』
1967年頃 発行月日不明

『ジャジャ子ちゃん』
1967年頃 発行月日不明

『いじわる一家』
1967年頃 発行月日不明

『モジャモジャおじちゃん』
1967年頃 発行月日不明

『ミータンとおはよう』
文華書房(発売:曙出版)
1967年頃 発行月日不明

『キカンポ元ちゃん』全2巻
1967年頃 発行月日不明

曙コミックス『おそ松くん全集』第4巻「六つ子なんかに負けないぞ」
1968年1月16日発行

曙コミックス『おそ松くん全集』第5巻「チビ太に清き一票を!」
1968年2月29日発行

曙コミックス『おそ松くん全集』第6巻「チビ太のおつむは世界一」
1968年3月30日発行

曙コミックス『おそ松くん全集』第3巻「びっくり六つ子が一ダース」
1968年4月30日発行

曙コミックス『おそ松くん全集』第1巻「六つ子でてこい!」
1968年5月31日発行

曙コミックス『おそ松くん全集』第7巻「おフランスがえりのデザイナー」
1968年6月28日発行

曙コミックス『しびれのスカタン』第1巻 著/赤塚不二夫&長谷邦夫
1968年7月25日発行

曙コミックス『おそ松くん全集』第8巻「チビ太なぜなくの!?」
1968年7月31日発行

曙コミックス『しびれのスカタン』第2巻 著/赤塚不二夫&長谷邦夫
1968年8月26日発行

曙コミックス『おそ松くん全集』第2巻「いかした顔になりたいよ」
1968年8月31日発行

曙コミックス『おそ松くん全集』第9巻「はいけいドロちゃんさま」
1968年9月16日発行

曙コミックス『しびれのスカタン』第3巻 著/赤塚不二夫&長谷邦夫
1968年9月30日発行

曙コミックス『赤塚不二夫全集』第1巻『ナマちゃん』第1巻
1968年10月15日発行

曙コミックス『おそ松くん全集』第10巻「デカパン城の御前試合」
1968年10月31日発行

曙コミックス『赤塚不二夫全集』第2巻『ナマちゃん』第2巻
1968年11月11日発行

曙コミックス『おそ松くん全集』第11巻「ハタ坊も億万長者になれる」
1968年11月15日発行

曙コミックス『赤塚不二夫全集』第3巻「おハナちゃん』
1968年12月9日発行

曙コミックス『おそ松くん全集』第12巻「ビローンと笑って百万円」
1968年12月20日発行

曙コミックス『赤塚不二夫全集』第4巻『おた助くん』第1巻
1969年1月16日発行

曙コミックス『おそ松くん全集』第13巻「ヤニがでるほどふくしゅうするぜ」
1969年1月30日発行

曙コミックス『赤塚不二夫全集』第5巻『おた助くん』第2巻
1969年2月14日発行

曙コミックス『おそ松くん全集』第14巻「イヤミ左膳だ よらば斬るざんす」
1969年2月25日発行

曙コミックス『赤塚不二夫全集』第6巻『おた助くん』第3巻
1969年3月13日発行

曙コミックス『おそ松くん全集』第15巻「ぼくらのクラスは先生が二人」
1969年3月25日発行

曙コミックス『赤塚不二夫全集』第7巻『おた助くん』第4巻
1969年4月10日発行

曙コミックス『おそ松くん全集』第16巻「パロディ版だよ宝島」
1969年4月30日発行

曙コミックス『赤塚不二夫全集』第8巻『まかせて長太』
1969年5月15日発行

曙コミックス『おそ松くん全集』第17巻「テンノースイカばんざいよ」
1969年5月24日発行

曙コミックス『赤塚不二夫全集』第9巻『そんごくん』第1巻
1969年6月10日発行

曙コミックス『おそ松くん全集』第18巻「江戸工城の忠臣蔵だ」
1969年6月25日発行

曙コミックス『赤塚不二夫全集』第10巻『そんごくん』第2巻
1969年7月15日発行

曙コミックス『おそ松くん全集』第19巻「下町のチビ太キッドの物語」
1969年7月30日発行

曙コミックス『赤塚不二夫全集』第11巻『おた助くん』第5巻
1969年 8月11日発行

曙コミックス『おそ松くん全集』第20巻「オトギばなしのデベソ島」
1969年8月25日発行

曙コミックス『赤塚不二夫全集』第12巻『おた助くん』第6巻
1969年9月5日発行

曙コミックス『おそ松くん全集』第21巻「イヤミはひとり風の中」
1969年9月25日発行

曙コミックス『赤塚不二夫全集』第13巻『九平とねえちゃん』
1969年10月6日発行

曙コミックス『おそ松くん全集』第22巻「キャプテンかあちゃん」
1969年10月31日発行

曙コミックス『赤塚不二夫全集』第14巻『キビママちゃん』
1969年11月20日発行

曙コミックス『おそ松くん全集』第23巻「突撃イヤミ小隊」
1969年12月1日発行

曙コミックス『もーれつア太郎』第1巻
1969年12月20日発行

曙コミックス『もーれつア太郎』第2巻
1969年12月20日発行

曙コミックス『おそ松くん全集』第24巻「オメガのジョーを消せ」
1969年12月25日発行

曙コミックス『赤塚不二夫全集』第15巻『いじわる一家』
1970年1月22日発行

曙コミックス『もーれつア太郎』第3巻
1970年1月31日発行

曙コミックス『赤塚不二夫全集』第16巻『ジャジャ子ちゃん』
1970年2月16日発行

曙コミックス『もーれつア太郎』第4巻
1970年3月5日発行

曙コミックス『赤塚不二夫全集』第17巻『まかせて長太』第2巻
1970年3月31日発行

曙コミックス『もーれつア太郎』第5巻
1970年4月20日発行

曙コミックス『赤塚不二夫全集』第18巻『へんな子ちゃん』
1970年4月30日発行

曙コミックス『赤塚不二夫全集』第19巻『ミータンとおはよう』
1970年5月30日発行

曙コミックス『もーれつア太郎』第6巻
1970年6月20日発行

曙コミックス『赤塚不二夫全集』第20巻『モジャモジャおじちゃん』
1970年7月20日発行

曙コミックス『もーれつア太郎』第7巻
1970年8月20日発行

曙コミックス『赤塚不二夫全集』第21巻『男の中に女がひとり 女の中に男がひとり』
1970年8月25日発行

曙コミックス『赤塚不二夫全集』第22巻『新版世界名作まんが全集 ハッピイちゃん』
1970年9月30日発行

曙コミックス『もーれつア太郎』第8巻
1970年10月9日発行

曙コミックス『赤塚不二夫全集』第23巻『まつげちゃん』第1巻
1970年10月30日発行

曙コミックス『もーれつア太郎』第9巻
1970年12月10日発行

曙コミックス『赤塚不二夫全集』第24巻『まつげちゃん』第2巻
1970年12月25日発行

曙コミックス『赤塚不二夫全集』第25巻『スリラー教授 いじわる教授』
1971年1月25日発行

曙コミックス『天才バカボン』第10巻
1971年2月25日発行

曙コミックス『もーれつア太郎』第10巻
1971年2月27日発行

曙コミックス『赤塚不二夫全集』第26巻『われら8プロ』
1971年3月25日発行

曙コミックス『天才バカボン』第1巻
1971年3月31日発行

曙コミックス『天才バカボン』第11巻
1971年4月30日発行

曙コミックス『もーれつア太郎』第11巻
1971年4月30日発行

曙コミックス『赤塚不二夫全集』第27巻『おれはゲバ鉄!』第1巻
1971年5月25日発行

曙コミックス『天才バカボン』第2巻
1971年5月29日発行

曙コミックス『もーれつア太郎』第12巻
1971年6月25日発行

曙コミックス『天才バカボン』第12巻
1971年6月29日発行

曙コミックス『天才バカボン』第3巻
1971年7月30日発行

曙コミックス『赤塚不二夫全集』第28巻『おれはゲバ鉄!』第2巻
1971年8月25日発行

曙コミックス『天才バカボン』第4巻
1971年8月30日発行

曙コミックス『天才バカボン』第5巻
1971年8月31日発行

曙コミックス『天才バカボン』第6巻
1971年9月16日発行

あけぼの入門百科『まんがプロ入門』 1971年9月16日発行

曙コミックス『天才バカボン』第7巻
1971年9月25日発行

曙コミックス『天才バカボン』第8巻
1971年9月30日発行

曙コミックス『天才バカボン』第9巻
1971年10月9日発行

曙コミックス『赤塚不二夫全集』第29巻『死神デース』第1巻
1971年12月10日発行

曙コミックス『ぶッかれダン』第1巻
1972年1月19日発行

曙コミックス『赤塚不二夫全集』第30巻『死神デース』第2巻
1972年3月28日発行

曙コミックス『ぶッかれダン』第2巻
1972年4月19日発行

曙コミックス『ぶッかれダン』第3巻
1972年5月31日発行

曙コミックス『おそ松くん全集別巻』『ハタ坊とワンペイ』第1巻
1972年7月21日発行

曙コミックス『おそ松くん全集』第25巻「シェーのおしうり」
1973年1月10日発行

曙コミックス『おそ松くん全集別巻』『ハタ坊とワンペイ』第2巻
1973年2月16日発行

曙コミックス『狂犬トロッキー』
1973年5月15日発行

曙コミックス『おそ松くん全集』第26巻「イヤミの結婚相談所」
1973年6月30日発行

曙コミックス『おそ松くん全集』第27巻「オンナドブスはバケモノざんす」
1973年6月30日発行

曙コミックス『天才バカボン』第13巻
1973年8月8日発行

曙コミックス『天才バカボン』第14巻
1973年8月17日発行

曙コミックス『天才バカボン』第15巻
1973年8月31日発行

曙コミックス『レッツラゴン』第1巻
1973年11月15日発行

曙コミックス『レッツラゴン』第2巻
1973年11月20日発行

曙コミックス『レッツラゴン』第3巻
1973年11月26日発行

曙コミックス『レッツラゴン』第4巻
1973年11月30日発行

曙コミックス『レッツラゴン』第5巻
1973年11月30日発行

曙コミックス『レッツラゴン』第6巻
1973年12月15日発行

曙コミックス『天才バカボン』第16巻
1974年1月25日発行

曙コミックス『天才バカボン』第17巻
1974年1月30日発行

曙コミックス『おそ松くん全集』第28巻「これがイヤミのテクニック」
1974年1月31日発行

曙コミックス『天才バカボン』第18巻
1974年2月8日発行

曙コミックス『おそ松くん全集』第29巻「念力でヘンシーンざんす」
1974年5月15日発行

曙コミックス『ひみつのアッコちゃん』第1巻
1974年5月20日発行

曙コミックス『鬼警部』
1974年5月30日発行

曙コミックス『天才バカボン』第19巻
1974年6月22日発行

曙コミックス『天才バカボン』第20巻
1974年6月29日発行

曙コミックス『ひみつのアッコちゃん』第3巻
1974年7月10日発行(年月日にミス?)

曙コミックス『ひみつのアッコちゃん』第4巻
1974年7月10日発行(年月日にミス?)

曙コミックス『ひみつのアッコちゃん』第2巻
1974年7月22日発行

曙コミックス『おそ松くん全集』第30巻「死んでもスケベはなおらない!」
1974年9月30日発行

曙コミックス『大バカ探偵 はくち小五郎』第1巻
1974年9月30日発行

曙コミックス『ひみつのアッコちゃん』第5巻
1974年10月25日発行

曙コミックス『大バカ探偵 はくち小五郎』第2巻
1974年10月30日発行

曙コミックス『レッツラゴン』第7巻
1974年10月30日発行

曙コミックス『天才バカボン別巻』第1巻
1974年12月10日発行

曙コミックス『大バカ探偵 はくち小五郎』第3巻
1975年1月10日発行

曙コミックス『天才バカボン別巻』第2巻
1975年2月25日発行

曙コミックス『天才バカボン別巻』第3巻
1975年4月5日発行

曙コミックス『いじわる一家』
1975年4月20日発行

曙コミックス『おそ松くん全集』第31巻「これでオシマイおそ松くん」
1975年4月25日発行

曙コミックス『天才バカボン』第21巻
1975年4月25日発行

曙コミックス『天才バカボン』第22巻
1975年4月30日発行

曙コミックス『少年フライデー』第1巻
1975年5月15日発行

曙コミックス『天才バカボン』第23巻
1975年5月30日発行

曙コミックス『天才バカボン』第24巻
1975年5月30日発行

曙コミックス『天才バカボン』第25巻
1975年6月25日発行

曙コミックス『天才バカボン』第26巻
1975年6月25日発行

曙コミックス『レッツラゴン』第8巻
1975年7月20日発行

曙コミックス『レッツラゴン』第9巻
1975年8月20日発行

曙コミックス『レッツラゴン』第10巻
1975年9月5日発行

曙コミックス『天才バカボン』第27巻
1975年9月16日発行

曙コミックス『天才バカボン』第28巻
1975年9月19日発行

曙コミックス『少年フライデー』第2巻
1975年10月3日発行

曙コミックス『レッツラゴン』第11巻
1975年10月30日発行

曙コミックス『レッツラゴン』第12巻
1975年11月10日発行

曙コミックス『天才バカボン』第29巻
1975年11月14日発行

曙コミックス『オッチャン』第1巻
1975年12月15日発行

曙コミックス『オッチャン』第2巻
1975年12月19日発行

曙コミックス『幕末珍犬組』
1976年1月1日発行

曙コミックス『オッチャン』第3巻
1976年2月25日発行

曙コミックス『ギャグの王様』上巻
1976年2月28日発行

曙コミックス『ギャグの王様』下巻
1976年4月5日発行

曙文庫『天才バカボンのおやじ』第1巻
1976年4月12日発行

曙文庫『天才バカボンのおやじ』第2巻
1976年4月12日発行

曙文庫『天才バカボンのおやじ』第3巻
1976年4月12日発行

曙コミックス『オッチャン』第4巻
1976年4月30日発行

曙コミックス『天才バカボン』第30巻
1976年5月10日発行

曙コミックス『ニャンニャンニャンダ』第1巻
1976年5月24日発行

曙コミックス『オッチャン』第5巻
1976年6月7日発行

曙文庫『モジャモジャおじちゃん』
1976年6月25日発行

曙文庫『Oh!サルばか』
1976年6月25日発行

曙文庫『ミスター・イヤミ』
1976年6月25日発行

曙文庫『名人』
1976年7月20日発行

曙文庫『くそババア!!』
1976年7月20日発行

曙コミックス『風のカラッペ』第1巻
1976年7月30日発行

曙コミックス『風のカラッペ』第2巻
1976年8月20日発行

曙文庫『いじわる一家』
1976年9月14日発行

曙コミックス『ニャンニャンニャンダ』第2巻
1976年9月17日発行

曙コミックス『風のカラッペ』第3巻
1976年10月20日発行

曙文庫『ヒッピーちゃん』
1976年10月22日発行

曙コミックス『風のカラッペ』第4巻
1976年11月12日発行

曙文庫『ジャジャ子ちゃん』
1976年11月15日発行

『まかせて長太』第1巻
1976年12月20日発行

曙コミックス『ぼくはケムゴロ』
1976年12月23日発行

曙コミックス『ギャグゲリラ』第1巻
1977年1月30日発行

曙コミックス『ギャグゲリラ』第2巻
1977年1月30日発行

曙コミックス『ギャグゲリラ』第3巻
1977年1月30日発行

曙コミックス『ギャグゲリラ』第4巻
1977年4月30日発行

曙コミックス『天才バカボン』第31巻
1977年5月10日発行

あけぼの入門百科『まんがプロ入門』1977年5月20日発行 

曙文庫『ひみつのアッコちゃん』第1巻
1998年4月10日発行

描き下ろし単行本 5冊
A5単行本 34冊
1968年 18冊
1969年 25冊
1970年 17冊
1971年 21冊
1972年 5冊
1973年 14冊
1974年 18冊
1975年 23冊
1976年 26冊
1977年 6冊
1998年 1冊
合計 213冊

資料協力・才賀涼太郎氏、のびろべえ氏