文化遺産としての赤塚不二夫論 今明かされる赤塚ワールドの全貌

赤塚不二夫を文化遺産として遺すべく、赤塚ワールド全般について論及したブログです。主著「赤塚不二夫大先生を読む」ほか多数。

「週刊少年キング」版と「週刊少年サンデー」連載版との相違

2020-01-24 14:45:35 | 第2章

「週刊少年キング」版の『おそ松くん』とオリジナルバージョンの「週刊少年サンデー」連載版における、両作品の決定的な差異を挙げると、「少年キング」版『おそ松くん』では、イヤミが実質的な主役と化し、チビ太ですらもチョイ役扱い。そして、何よりも顕著であるのが、主人公のおそ松兄弟が全くと言って良い程登場しない点であろう。

冒頭、おそ松がイヤミに「ぼくがさっぱりでないのに おそ松くんなんてひどいよ‼」と抗議をしたり(「デスカバー8ミリ」/72年33号)、イヤミが作品タイトルをジャックし、「イヤミくん」(72年34号)と変更してしまったりと、主人公が全く登場しない漫画としての特性すらも、笑いに転化してしまっている。

ストーリーも、貧乏で常に空腹に苛まれているイヤミが様々なトラブルに巻き込まれる悪状況の中、ニャロメ、目ん玉つながり、オカマのカオルちゃん、ウナギイヌ等、同時期の『天才バカボン』を中心とする他の赤塚作品からゲスト出演したキャラクター達が、ドラマの盛り立て役として絡むというのが、一つの定番であり、イヤミが凶暴なエイリアンに襲撃されたり(「エッチの報酬」/72年40号)、タコやワニといった異形の生物に姿を変えられたり(「南の島でしあわせに」/72年26号、「こわくてかなワニいざんす」/73年34号)、はたまた殺されて地獄に堕ちたり(「イヤミ医院」/72年37・38号)と、倒錯極まりない、シュールでドラッギーな内容が毎回の如く展開された。

また、イヤミに色魔的なキャラクターが付与され、女性の体に迫るなどの下ネタギャグや喫驚や怒髪天を表す表現として、大ゴマを使用したグロテスクな劇画タッチの顔面クローズアップ等の作画が多用されているのも「週刊少年キング」版の特徴である。

この二つの『おそ松くん』の機軸を、赤塚作品のバックボーンとなった喜劇映画に例えるなら、「週刊少年サンデー」版がチャーリー・チャップリンのウェットな人情喜劇の世界観を、「週刊少年キング」版がバスター・キートンのドライなアンリーゾナブルな世界観をそれぞれ踏襲し、作品総体のトーンを構成していると言えなくはないだろうか。

勿論、両作品の作風の違いには、時代の変化というのも、その背景に大きく横たわっているのだろう。

「週刊少年サンデー」掲載時は、高度経済成長が最高潮の時期であり、システム化された現代社会で、子供らしい活発さを失った現代っ子と呼ばれる軟弱な児童が増え始めた最初の時代であったが、当時の子供達は、まだまだ食べ物に対する貪欲な飢餓感があり、チビ太のおでんを六つ子達が奪い合ったり、登場人物が全員、金銭欲の塊だったりと、そういった子供のストレートな欲望がそのままテーマとして成り立っていた。

だが、「週刊少年キング」で連載が始まった70年代に突入すると、当時テレビで爆発的な大ヒットとなった『仮面ライダー』の怪人、戦闘の名場面をプリントしたカードをおまけに付けて売り出した『仮面ライダースナック』を、カード目当ての子供達がカードだけを抜き取り、スナック菓子の方は全て破棄してしまうという事態が全国的に波及するようになり、やがてそれは、教育委員会をも巻き込む社会問題へと発展してゆくことになる。

そう、列島改造ブームに湧く建設需要の盛り上がりと、オイルショックを契機とするインフレ傾向が急激に加速してゆく直前のこの時期、経済発展の捻れの構造は、更に深まり、子供の生活圏内においても、飽食の時代を迎えつつあったのだ。

また、都市の急激な過密によって、都会の子供達の遊びの空間が喪失していったのもこの頃だった。

「週刊少年サンデー」誌上にて『おそ松くん』の連載が終了して、僅か数年しか経過していないにも拘わらず、子供達を取り巻く生活環境には、隔世の感を禁じ得ない。


ナンセンス路線へと変貌したリバイバル・シリーズ

2020-01-23 21:27:36 | 第2章

「週刊少年サンデー」での掲載終了以降に描かれたリバイバル版『おそ松くん』についても、纏めて本章にて言及しておこう。

ブタ松薬品の研究所の所長のデカパンと助手のチビ太が開発した、食あたりも一発で治るという新薬をモルモット代わりのココロのボスに投入したことにより、薬の異常性が発覚。次々と予期せぬトラブルが勃発する中、ボスが死んでしまうことを会社ぐるみで隠蔽しようと企てる、赤塚キャラのオールスターキャストによる異色超大作『最後の休日』(「週刊少年サンデー」70年12号、『もーれつア太郎』の単行本への収録時に「まっ黒しっぽを東京でなおせ」と改題)をラストに、おそ松ファミリーは小学館系各児童誌より撤退する。

その後、学年誌掲載版の『もーれつア太郎』にイヤミやチビ太がゲスト出演するが、『おそ松くん』が本格的な復活を遂げるのは、連載終了から三年、舞台を「週刊少年キング」に移してのことだった。

数ある『おそ松くん』のエピソードの中でも、赤塚自身、一番のお気に入りだという「チビ太の金庫やぶり」に大幅な加筆を加え、リライトした読み切りが『新おそ松くん』(単行本への収録時に「リバイバル・チビ太の金庫やぶり」と改題)のタイトルで、1972年5号に掲載される。

1988年にスタートしたテレビシリーズでは、こちらの「週刊少年キング」版をベースに同エピソードが作られたことからも窺えるように、リライト作品とはいえ、背景のディテールやドラマの時間的経過における緊迫性に神経を注ぐなど、作品総体の完成度は前作を凌ぐ結果となった。

ストーリー構成もまた、人物描写に重きを置くことで、高い純度と哀切に満ちた深みが表出され、その演出の完璧性は、膨大な赤塚作品の中でも無類と言っても良いだろう。

同号には、60年代、「少年画報」、「週刊少年キング」の看板作品だった藤子不二雄Ⓐの『怪物くん』がリメイクされた以外にも、時同じくして、「週刊少年サンデー」で、武内つなよしの『赤胴鈴之助』や、川内康範、桑田次郎の『月光仮面』、水木しげるの『ゲゲゲの鬼太郎』といった作品が、短期連載でリバイバルされ、かつて一世を風靡した懐かしの名作漫画を復活させる試みが、この時期、少年漫画各誌で次々と展開された。

この『新おそ松くん』もそうした時代の要請から描かれた単発の企画物であったが、読者と編集部からの熱烈なラブコールを受け、同年13号より新連載として本格的に復活。翌73年53号まで、約二年に渡りシリーズ化されることになる。

しかし、リメイク版「チビ太の金庫やぶり」のイメージから、「週刊少年サンデー」時代の『おそ松くん』に原点回帰した良質のストーリーギャグ路線が展開されるのかと思いきや、13号より再び『おそ松くん』のタイトルで再々開したシリーズは、毎回ドラマティックな盛り上がりもなく、荒れ果てたギャグが濁流する、まさに「週刊少年サンデー」版とは同名異作とも言うべき支離滅裂なナンセンス路線へとシフトチェンジされていた。

ナンセンス路線を指標としつつも、同時期に連載されていた『天才バカボン』や『レッツラゴン』における先鋭的なギャグ感覚と比較すると、明らかに質の劣る展開を見せ、読者を置き去りにしかねないダーティーテイストとユルユルな脱力ムードを共存させた笑いは、当時危機的状況に喘いでいた「週刊少年キング」を盛り返すまでの人気を得るまでには至らなかった。

また、後半になると、『ギャグゲリラ』の連載開始と重なり、更にスケジュールがタイトを極めてきたせいか、精彩を欠く、手抜き加減の作品がその大半を占めるようになる。


長編作のヒューマニティーと若きセンスの噴出 『おそ松くん』のハードボイルド路線

2020-01-23 13:49:01 | 第2章

このように、ロングバージョンで描かれた『おそ松くん』は、巨視的且つ細やかな視点から紡いだ雄渾なドラマ性やリリックな文学性を物語に取り込む赤塚の作家として膂力も相俟り、思惑通り大好評を得るに至った。

また、死や不幸に彩られた悲劇性を纏ったドラマにおいても、作中、諦観や絶望といった悲痛なエモーションではなく、生への希望を語り掛けているその真意が読み取れ、そうしたヒューマニティーの顕揚にも繋がる視座の設定も、『おそ松くん』が単なる児童向けギャグ漫画として捕捉出来ない、決定的な要因の一つとして評価されるべきであろう。

『おそ松くん』のワールドビューからは、一見遠く掛け離れているように思われがちのジャンルだが、週刊連載終了後以降のファイナルラップ突入時には、アクション、ハードボイルド路線の秀作も何本か生み出された。

その血湧き肉踊る緩急自在な劇構成には、エネルギッシュな赤塚の若きセンスの噴出が眩しく記録されているかのようで、物語世界にグイグイと引き込む淀みないストーリー運びと、スピード、スリル、ダイナミズムが渾然一体となって拡散される見せ場の続出は、どれも切れ味鋭い映像的ページを作り出し、息つく暇もない怒涛の迫力を余すところなく堪能出来る。

先にも触れた「六つ子対大ニッポンギャング」(67年37号)は、暫くぶりに六つ子が物語の主導権を握った、後期『おそ松くん』にあっては、極めて珍しい一編だ。

ギャングの国際シンジケートの秘密会議の場で、その犯罪計画を垣間見たことにより、デカパンやイヤミ等のギャング団から命を狙われる羽目になった六つ子が、スポーツカーや飛行機、船や新幹線といった乗り物を乗り継ぎながら、阿鼻叫喚に包まれた逃亡劇を追いつ追われつのテンションで繰り広げる娯楽アクションであり、二転三転する先の読めないサスペンスフルな展開と興奮度満点の格闘シーンのミクスチャーが、縦横無尽なアングルで切り取られた秀抜な画面上で激しく加速し、最後まで読者の目を釘付けにする。

『おそ松くん』のスラップスティック度全開の笑いは、読者の想像を絶するアドレナリン大放出のストーリーが奔流として鳴り響く中、過剰なまでにラディカル&ポップな魅力が炸裂する本作によって、まさしく頂点に達した感さえあるのだ。

同系譜のアクション、ハードボイルド路線で、「六つ子対大ニッポンギャング団」とは対照的なイメージに変性した作品が「オメガのジョーを消せ」(68年46号)であろう。  

この作品では、かつてのギャング仲間のイヤミに裏切られ、辛酸を舐めたハタ坊が、今や出世し、大企業の社長にまで成り上がったイヤミを暗殺するという、復讐の鬼と化したコールドハンターをクールな佇まいで、しかし、不敵な笑みとともに、胸に秘めたる怒りの情念を表情に滲ませた、凄みのあるアクトを発露し、ファンの度肝を抜いた。

オメガのジョーことハタ坊から暗殺予告を受けたイヤミは、デカパン率いるギャング団(六つ子、チビ太、ダヨーン)に用心棒を依頼するものの、屋敷に時限爆弾が仕掛けられたと知ったギャング団は、イヤミを裏切り、金だけ持ってずらかろうとする。

「フフフッ、やくそくもまもれないやつは、生きてる資格がないジョー。」

ギャング団を撃ち殺したハタ坊は、遂にイヤミと対峙する。

コルトの銃口を向けられ、撃たれる覚悟を決めるイヤミ。

「どうせ、地獄であうだろう。一足さきにいって、まってるざんす。」

ハタ坊がコルトのトリガーを引こうとした瞬間、執事とともに可愛らしい一人息子が旅行先より帰って来る。

イヤミは、執事に息子を連れて、外に逃げるように叫ぶが、その直後、ハタ坊が仕掛けた時限爆弾が爆発した。

屋敷は一瞬にして吹っ飛び、イヤミとハタ坊は瓦礫の下敷きになるが、イヤミは死んではいなかった。

ハタ坊がイヤミを助けたのだ。

イヤミを爆破の残骸から守り、瀕死の重傷を負ったハタ坊は、朦朧とする意識の中、イヤミにこうを言い残す。

「イヤミ……子どものために、やりなおすんだジョ……」

廃墟となったイヤミ邸で、枯れ葉に包まれながら、ハタ坊は息を引き取る。

感情を押し殺した冷淡なプロフィールに孤独と憂いを色濃く落とした男の寂寥が、この上なく哀しく、リアリティーを存分に肉付けした心理描写が、死と裏切りに彩られたカタストロフを重々しく、弥増しに底光りさせている。

加えて、ハタ坊の銃弾に倒れ、二階から落下し、奪った金が風に舞うシーンでの断末魔の如き呟くチビ太の寒々しさは、決して表層だけではない、ピカレスクな人間像の奥底にある背徳の闇を冷徹な視線でえぐり出した屈指の名場面といえ、これら、ディテールに拘った端正な演出の数々は、意識化した映画的手法の単なる模倣ではなく、児童漫画の類型を破る表顕スタイルとして、そのテリトリーを大きく広げた。

このように、長編版『おそ松くん』は、明晰な劇構造を併せ持ちながら、従来のギャグ漫画にはなかった数々のエポックメーキングを確立。ドラマに前衛性と娯楽性を同時共存させた前人未到の奇跡を結晶化し、赤塚ワールドに新たな展望を与えた。

そして、これらの作品は、かつての愛読者からも、もう一度読みたい良質のスタンダードとして、今も尚、リスペクトされている。


反戦漫画の秀作「イヤミ小隊突撃せよ」

2020-01-22 19:23:16 | 第2章

数ある長編版『おそ松』の中で異色と言えるのが戦記物で、「イヤミ小隊突撃せよ」(68年38号)は、戦時下にある南太平洋沿いの小さな離島という閉鎖的な環境を舞台に、戦争に運命を委ねられた兵士達との慟哭と深い傷痕を鮮烈に、そして篤実な筆致で描き切った反戦漫画の秀作だ。

イヤミ隊長率いる小隊が駐屯している小島に、米軍機が墜落したところからドラマは始まる。

米軍機から降り立った兵士は、まだあどけなさの残る少年兵で、重傷を負った彼は、従軍看護婦のトト子の治療を受け、その命を助けられる。

優しい心を持つ彼は、おそ松、チビ太、ハタ坊ら小隊の日本兵達とも次第に仲良くなってゆくが、軍人としての誇りと反米意識の強いダヨーンだけは、その輪に打ち解けられずにいた。

しかし、ある時、少年兵が肌身離さず持っている最愛の母親の写真を見たダヨーンは、情に絆され、彼もまた、交戦国間における軍人としての立場やナショナリズムの相克を超え、少年兵の辛い身の上を理解し、受容を示してゆく。

だが、そんな穏やかな安らぎは長くは続かなかった。

アメリカ軍は、日本本土に進撃して行く中、南太平洋上の島々を次々と攻略し、やがてイヤミ小隊が駐屯するこの島も、戦場の惨禍と化していった……。

太平洋戦争末期、日本軍が駐屯する孤島を舞台に日米双方の兵士達の葛藤を描いたこのエピソードは、前年(1967年)、コーネル・ワイルドによる企画、監督、主演で製作されたアメリカ映画『ビーチレッド戦記』を下敷きにしたものと思われる。

取り分け、爆雷を受け、島が米軍の駆逐艦に陥落されてゆくクライマックスは、読者に鬼気迫る緊迫感を陰影の深いリアリズムによってダイレクトに突き付けると同時に、重苦しい無情感を誘い、歴史の犯した過ちを痛ましいまでに浮き彫りにする出色のハイライトシーンと言えるだろう。

『おそ松くん』で描かれた戦記物は本作品一編のみだが、戦記映画は、赤塚にとって嗜好するジャンルの一つで、『第十七捕虜収容所』(監督・ビリー・ワイルダー/主演・ウィリアム・ホールデン)等、フェイバリットは枚挙に暇がない。

このような傑作を世に問えるのなら、他のジャンル同様、戦記をモチーフとしたエピソードを、『おそ松くん』においても、もっと描かれるべきであったと、返す返すも残念に思えてならない。


SF版『おそ松くん』

2020-01-18 13:47:33 | 第2章

森羅万象あらゆるジャンルから、笑いへと繋がる有効素材を引き出し、独自のドラマトゥルギーを形成し得た長編版『おそ松くん』であるが、意外にも、科学空想的なテーマを打ち出した奇想天外なストーリーも幾つか描かれ、SFというキーワードもまた、『おそ松』ワールドを語る上で、無視出来ない存在だ。

しかし、そのいずれもが、ミュータントとの熾烈な戦いを軸に展開するスペクタルシーンと、常に死と隣り合わせのハラハラドキドキの冒険シーンが連続して織り交ぜられるヒロイックなスペースオペラや、高度な科学文明の発達が人類のカタストロフを示唆する終末論的イマジネーションを身上とした本来のサイエンスフィクションとは対極に立つ、非リアリスティックな悪夢的程合いが濃厚なサイエンスファンタジーであり、形而上学的なSFのドラマ領域を基盤としつつも、直球ギャグで笑いを誘発する、刺激的興奮に満ちたクレージーコメディーとでも形容したい異形の作品ばかりである。

比較的初期に描かれた作品で、タイムトラベルをテーマとした「おそ松くん 石器時代へいく」(「別冊少年サンデー 秋季号」64年10月1日発行)なるタイトルがある。

おそ松達六つ子が、老科学者が開発したタイムマシンに乗って、一〇〇万年前の石器時代にタイムスリップし、驚異の大自然と現代的な文明社会が融合した世にも不思議な原始世界で遭遇するスリリングな異文化体験を、解放感溢れるナンセンスで紡いだ一編で、これはこれで、深い個性を纏った捨て難い作品ではあるが、取り分け、傑作が集中しているのは、地球侵略を企む知的生命体が、おそ松ファミリーが住む街を襲来し、おそ松らが各々結集した叡智(?)で、その侵襲を阻止すべく、エイリアンとの攻防を繰り広げるという一連のフォーマットに導かれし作品群だ。

「テンノースイカばんざいよ」(「週刊少年サンデー増刊 夏休みまんが大特集号」66年7月27日発行)は、日照り続きによる人口増加に悩み、地球を第二の故郷にしようと侵略を企てたスイカ星人達が、種を口にした者をマインドコントロール出来るという不思議なスイカを地球人達に与え、地球を意のままに動かそうとするパニック大作。

「またまたインベーダー来襲」(68年20号)は、やはり地球侵攻を企むエイリアン達が、言葉巧みにおそ松とチョロ松を誘拐し、知的生命体としての地球人の種族レベルを計るべく、彼らに化け、松野家に潜入するものの、松野家の超常ぶりに恐れおののき、地球から退散するという、エイリアンのヘタレっぷりが何とも可笑しい、如何にも赤塚ギャグな秀作だ。

いずれのエピソードも、天文的フィールドを持ち住む知的生命体が、地球人種を取り込み、また研究対象とした際、オーバーテクノロジーに立脚した想像次元など、如何に偏狭で釈然としないものであるかという、行動基準や文化的価値観のズレを然り気無くテーマとして扱っている。

多種多様な価値観こそが社会を支える歯車であり、価値基準の画一化こそが人間文化に破壊を促すクライシスだという明徹な箴言を、SFというジャンルを隠れ蓑にメタファーとして示した最良のエグザンプルと言えるだろう。

「らくがきインベーダー出現」(「週刊少年サンデー増刊 お正月大長編よみきりまんが号」68年1月5日発行)は、不思議なクレパスを譲り受けた六つ子達によって描かれた壁の落書きが、突然生命を宿して壁から飛び出し、六つ子にクレパスを与えた謎の男(実は宇宙人)の指示により、落書き達が地球人を襲うという、『天才バカボン』の左手で描いた漫画(「説明つき左手漫画なのだ」/「週刊少年マガジン」73年48号)や、複数の赤塚番記者に漫画を描かせた『天才ヘタボン』(「ビックリハウスSUPER」77年1月10日創刊号)等、後に迎えるヘタウマギャグにも通ずる、シュールな先鋭的触感と馬鹿馬鹿しいまでの手抜きぶりがクロスオーバーした快作。

『おそ松』ワールドのリアルな住民達と、壁から飛び出して人間を襲う落書き軍団のタッチが全く同一であるというのはご愛敬だが、ドラマ全体を覆う、微妙な味わいを纏ったビジュアル造型が、当時の読者の脳裏に強烈なアフターイメージを残したであろうことは想像に難くない。

精度の高い科学的知見をバックボーンにして試みる未来への外挿や、ドラマティックな悲劇的着想に根差して展開する複雑な物語構成といったジャンル本来のこの上ない趣とは一線を画する『おそ松』版SFであるが、同系種の翻訳パニック小説に有りがちなシンプルなストーリー構造にプロットを委ねつつ、ルーティン化したあらゆるSFの表出概念をメタフィジカルな領域において徹底的に相対化し、シニカルな笑いへと置換してゆくあたりは、反理性、反知性を標榜とするオートマティスムと、ギャグ漫画特有のブラックな遊撃性が相互作用したフットワークの軽さがあり、そこに赤塚ギャグの更なる進化のプロセスを垣間見ることが出来る。

また、おそ松達と極めてナンセンス性の強いエイリアンという『未知との遭遇』そのものが、総体的に明るく乾いた祝祭的スペースを醸成し、落語的な烏滸の笑いから遠く隔たれた『おそ松』ワールドの独壇場である非日常的趣向を、その枠組みの中でよりクリアに露顕させるなど、これらの作品がそれまで描かれた『おそ松くん』のどの傑作エピソードよりも、アンチユーモア漫画の風格を一層漂わせているようでならない。

そういった意味でも、『おそ松くん』にとってSFは、その相乗効果により、作品世界に予想を超えたボルテージを生み出すとともに、独特の世界観を差し迫って深めてゆく極めて相性の良いジャンルであったと言えるだろう。

因みに、「テンノースイカばんざいよ」は、その後タイトルを「スイカの星からこんにちはザンス!」と改題され、1989年の『東映まんが祭り』にて、リメイク版『ひみつのアッコちゃん』を含む当時の人気アニメ、人気特撮とともに劇場公開アニメとして映画化される。

オリジナルには全く描かれなかった、ウルトラマン宜しく巨大化したニャロメとスイカ星人が搭乗する巨大ロボットとの戦闘シーンも登場し、劇場公開アニメならではの迫真的な映像が堪能出来る所謂「原作超え」した密度の濃い二次媒体作品となったことも、この場を借りて記しておく。