文化遺産としての赤塚不二夫論 今明かされる赤塚ワールドの全貌

赤塚不二夫を文化遺産として遺すべく、赤塚ワールド全般について論及したブログです。主著「赤塚不二夫大先生を読む」ほか多数。

赤塚独特の叙情的介入が際立った喜悲劇『おバカさん』 

2021-12-21 19:08:53 | 第5章

第三弾は、芥川賞受賞作家であり、狐狸庵先生の愛称でも親しまれた遠藤周作の同名小説を原作に得た『おバカさん』(78年7号~14号)という短期集中連載作品。

フランスの皇帝・ナポレオン・ボナパルトの血を引くガストンという、一見間の抜けた風にも見える心優しき青年が、信玄袋一つぶらさげてやって来た日本で巻き起こす価値転倒の珍騒動をドラマの骨格に据えた『おバカさん』だが、最大の見処は、ガストンが、肺病に苦しむ殺し屋・遠藤の心を救うべく、憎き仇が住むという遠い山形まで行動を共にし、その復讐を命懸けで阻止しようと臨むクライマックスシーンであろう。

些か常軌を逸しているとも取れないガストンの善意には、得体の知れない奇異さを感じる向きもあろうが、その直向きな博愛の精神は、単なるヒューマニティーでは片付けられない、神々しいまでの尊厳をも纏って見えさえする。

人種間に生じる価値観の相違や微妙な温度差をそのまま笑いに転化していこうと試みたものの、不発に終わってしまったというのは、赤塚の弁だが、泣き笑いを滲透させたその喜悲劇には、本家『おバカさん』とはまた違った、赤塚独自の叙情的介入があり、リズミックなその構成力も含め、充分な読み応えを秘めたシリーズだ。

等身大に近いデザインで設定された、登場人物達のキャラクターメイクや、簡略化されていない細やかな筆致でレイアウトされた背景など、先行する『建師ケン作』、『ハウスジャックナナちゃん』とも趣きを変えた半劇画的なタッチで描かれており、別作家の作品世界に足を踏み入れたかのような、毛色の違った感度を指し示したその劇画的演出の妙は、その後、赤塚の物語作家としての回帰を示唆するかの印象を与えたが、以降、赤塚漫画がストーリー漫画との分極化の道を辿ることがなかったのは、ファンとしては、些か残念なところでもある。

また、これらのタイトル以外にも、『日本亭主図鑑』、『ブンとフン』等、井上ひさしの傑作小説の数々をコミカライゼーションした『ひさし・不二夫の漫画全集』(「週刊小説」76年2月13日号~9月13日号)という連作が、原作付き赤塚漫画にはある。いずれの挿話も、ギャグとパロディーが交錯するどんでん返しの劇構造に、赤塚一流の諧謔性を重ね合わせ、良質のコラボレートに纏め上げた、傑作、怪作の部類に範疇化されて然るべき作品群だ。

余談だが、井上ひさしと赤塚は、お互いの才能を認め合う間柄であり、当時、多忙を極めつつも、井上の著作『井上ひさしコント集』(講談社、75年)の装丁とイラストを担当するなど、本作以外にも、井上との共同作業は少なくない。

『天才バカボン』、そして『もーれつア太郎』のスマッシュヒットは、赤塚にとって、更なる笑いの進化を辿り得る、途方もないビッグバンとなり、その後も、ありとあらゆる出版媒体にて、様々な実験作を世に送り出す。

次章では、『天才バカボン』が「週刊少年マガジン」へと再び返り咲き、『レッツラゴン』で新たなナンセンスの類型を呈示してゆく1971年以降の、即ち、赤塚不二夫第三の黄金期の仕事の流れと、その前後を挟んで発表された諸々のタイトルの分類と検証を中心に、その世界観を掘り下げ、論及してゆきたい。

1970年代前半、赤塚は、『天才バカボン』、『レッツラゴン』の同時連載に、『ギャグゲリラ』を新たに引っ提げ、そのエクスプレッションは、更にアバンギャルドな先鋭性と破壊性を帯びていった。

かつてのギャグ漫画のライバル達が、ストーリー漫画へとシフトチェンジしたり、前線から離脱するなど、事実、ギャグ漫画というジャンルで、赤塚同様の活躍を誇示する作家はおらず、まさに、『バカボン』、『レッツラゴン』、『ギャグゲリラ』の同時連載時期は、赤塚の独り勝ち状態にあった感さえある。

三度目の絶頂期を迎えていたこの時の赤塚の主要作品には、週刊誌メディアの特性を活かし、時代と密接に渡り歩きながらも、漫画というメディアにおける既成の表顕スタイルそのものに真っ向から拮抗してゆく、破格の凄みさえ漂わせていたのだ。

だが、この時代、赤塚が作り出した、多種多様な笑いのメソッドが、その後も決して亜流を生まない、強烈なインパクトを発揮する強靭性とともに、読者の共感的感性から峻別してゆく、ある種の脆弱性を含有する二律背反的構造に支配されていたのも、また事実だった。


『ハウスジャックナナちゃん』 ダークな心理的迫力に貫かれた寒慄の世界 

2021-12-21 19:08:27 | 第5章

第二弾は、「週刊少年マガジン」の創刊1000号を記念した特別企画で、『時をかける少女』や『東海道戦争』等の代表作を持つ日本SF小説の大家・筒井康隆の『家族八景』を『ハウスジャックナナちゃん』(77年50号~52号)と改題しコミカライズ。三週連続に渡って、シリーズ連載された。

ハウスキーパーを職業とする、ナナちゃんこと火田七瀬は、人の心の内面をつぶさに読み取ることが出来る超能力少女だった。

ナナちゃんが、派遣された先々で起こる様々な問題を得意のテレパシーで解決し、次の派遣先へと渡り歩いてゆくというのが、主なストーリーのあらましで、ナナちゃんの怒りや失望といった葛藤とともに、ダークな感情を浮き彫りにしてゆく登場人物達の心理的迫力は、他の赤塚作品では、類例を見ないほどの寒慄に満ちており、全編に渡り、えも言えぬ不気味なムードを湛えている。

取り上げられたエピソードは、ゴミ屋敷に住む大家族の屈折した感情と、その元凶であるグータラ妻との対峙を描いた「澱の呪縛」(77年50号)、淡い恋心と尊敬を抱いていた画家の澱んだ本性が、七瀬のテレパスにより、白日のもとに晒される「日曜画家」(77年51号)、マザコン中年男とその母親の戦慄の別れを、七瀬のシビアな決断とともに綴った「亡母渇仰」(77年52号)の三本だ。

毎回30ページ前後という限られたスペースにおいて、途中、赤塚ギャグ独特のアチャラカ的展開を組み入れつつも、筒井原作のピボットを損なうことなく、その世界観を手堅く纏め上げている点は、流石は物語作家としての出自を思わせる。

瞳に星を宿した黒目がちの主人公・ナナちゃんのキャラクターデザインとその画風は、明らかに赤塚のそれとは異質なもので、その筆致から察するに、当時、作画スタッフを務めていた長岡弘(現・漫画家の原野空丸)か、アリスなるペンネームで在籍していたさる女性スタッフが担当したものではないだろうか……。

このタッチは、同時期に「週刊少年サンデー」に発表された『いたいけ君』(77年、78年)のヒロイン・笠井ヤス子や岡崎麻由といったキャラクターにも流用され、その後定着するには至らなかったものの、この若い作画スタッフとのコラボレーションもまた、赤塚漫画の世界観に新たな血を注入することにひとかどの成果を生んだ好例と言えよう。

また、脇キャラは全て赤塚によって描かれた、『バカボン』、『ギャグゲリラ』同様の二頭身、三頭身のギャグタッチであるため、六頭身美少女キャラクターのナナちゃんとの対比がこの上なくアンバランスであり、作品総体において、一種異様なビジュアル効果を醸し出している本シリーズであるが、第一話では、バカボンのパパが、七瀬が派遣された神波家に、御用聞きとしてゲスト出演するなど、ドラマの重苦しい空気を緩和する、束の間の清涼剤的役割を果たしている点も見逃せない。

 


本邦初となるハウジング漫画『建師ケン作』

2021-12-21 19:07:32 | 第5章

1976年、『元祖天才バカボン』の便乗企画としてスタートしたショートショート版『天才バカボン』の連載が終了。「月刊少年マガジン」掲載の通常版は、そのまま継続連載されるが、「週刊少年マガジン」では、五十嵐記者の発案から、新たな赤塚ワールドの展開を目指し、77年から78年に掛け、新形式の原作付きのストーリー漫画が三本連載される。

その第一弾となったタイトルが、『釘師サブやん』、『包丁人味平』等のヒットで有名な牛次郎原作による、本邦初となるハウジング漫画『建師ケン作』(1977年2号~31号)である。

大工見習いの少年・都建作は、仕事熱心で、どんな逆行をもはね除けてゆく不屈の闘志の持ち主だった。

建作は、周囲からの人望も厚い親方のもとで修行を重ねながら、様々な出会いと勝負を繰り広げ、一流の大工職人への階段を一歩一歩昇ってゆく。

ある日、大仕事を請け負ったことから、親方は、腕の立つ職人である小笠原に助っ人を要請し、建作らを指示する立場として招き入れるが、ここでトラブルが発生してしまう。

小笠原に自身のミスを指摘された建作が、つい感情的になってしまい、小笠原に対し、罵詈雑言を浴びせてしまったのだ。

その後、親方の仲裁により、事なきを得たかに思えたが、先輩職人としてのプライドを傷付けられた小笠原の怒りは、収まり切れなかった。

そんな時、親方に邸宅の施工を依頼していた施主が現れ、建作と小笠原に対し、自らの敷地に、お互いが二〇坪の家を建て、その出来を競い合う、ハウジング対決を提唱する。

勇み立った建作は、その勝負、真っ向から受けて立つが、長年の経験に裏付けされた小笠原の実力は、見習いの建作がとても太刀打ち出来るようなレベルではなかった……。

当初、赤塚もこの新連載には、意気軒昂ぶりを示しており、連載開始にあたっての打ち合わせで、牛次郎に「空が屋根で、地面が畳というように、建物(スケール)のでっかい話を描きたい」と伝えたが、出来上がった原作は、『釘師サブやん』から連綿と続く、牛原作お得意の対決物に終始してしまい、赤塚を辟易させてしまったという。

そんな牛次郎の原作を読み、一気に創作意欲が失せてしまったという赤塚は、第一話を除き、作画をチーフスタッフの斎藤あきらに、ほぼ全般を委ね、自身はあくまで構成のみに徹することになる

また、斎藤の述懐(電子書籍『漫画仕事人参上‼』第3巻・第4巻、18年、『まんだらけZENBU』にて連載の作品をまとめたもの)によれば、都建作をはじめとするキャラクター全般のデザインも、実質斎藤が担当したうえ、牛次郎の原作執筆も遅れがちという、マイナス要因も重なり、連載開始当初から、負け戦必至の勝負だったようだ。

実際、『ケン作』は、ビルドゥングスロマンとしても、盛り上がりに乏しかったため、読者の気受けが一向に高まらず、その結果、連載回数全二八回で最終回を迎え、「マガジン」誌上よりフェードアウトしてゆく。


荘厳なる『旧約聖書』の世界観をパロディー化した 『B.C.アダム』

2021-12-21 19:06:57 | 第5章

1975年、71年よりホームグラウンドである「週刊少年マガジン」にカムバックした『天才バカボン』(第三期)が最終回を迎え、掲載誌をそのままに、新連載作品『B.C.アダム』(75年7号~26号)がスタートする。

遥か遠い永劫の昔、エデンの園には、神前結婚した妻であるおカミさんとともに、恐妻家の神さまが住んでいた。

天地を創造し、全智全能である神さまが、唯一頭の上がらない相手がおカミさんで、炊事洗濯もやらされれば、時には逆DVの餌食になるわで、神の威厳は何処へやら。完全におカミさんの尻に敷かれていた。

ある時、神さまは退屈しのぎにアダムという人間を作り、アダムの寂しさを埋めてやるため、イブというガールフレンドを作ってあげる。

常に欲求不満に駆られ、スケベ根性剥き出しの状態にある神さまは、アダムとイブのラブシーンでも覗いてやろうと、性的な欲望をまだ持ち得ていない二人に、食すとシケべ(スケベ)になるという実を食べさせるよう、ヘビに用命する。

だが、ヘビは、自らがシケべの身を食べ、色情狂になってしまい、アダムとイブには、禁断の果実を食べさせてしまう。

禁断の果実とは、人間の純真無垢さを失わせてしまう林檎の実だった。

そして、裸でいることに羞恥の心が芽生えたアダムとイブは、延び延びと暮らせることを生き物の特権として考えていた神さまの憤慨を招き、アダムには一生働き続ける生活の厳しさを、イブには子供を出産する産みの苦しみを、それぞれ苦役として強いられる。

荘厳なる『旧約聖書』(創世記)の物語にパロディー化を試み、新機軸を打ち立てた意欲的な『B.C.アダム』。

そもそもの着想は、どのような曲折を経て、アウトプットされるに至ったのか……。

赤塚は、『B.C.アダム』を回想し、次のような発言を残している。

「例えば、キリスト教の聖典だっていう『旧約聖書』読んでみなよ。7日間で世界ができたとか、土から人間が作られたとか、おかしいだろ。常識で考えたってあり得ないことがいっぱい出てくる。

~中略~

あれはさ、オレ思うんだけど、ただのギャグ本なんだよ。書いたほうは、誰も考えもしない奇想天外なホラ話をして読者を大笑いさせようとしたら、意外なことにみんな信じちゃったってことなんじゃないの?

聖書がギャグ本だってことを証明したくて、昔、少年マガジンに『B.C.アダム』ってギャグ・マンガを連載したことがあった。」

(『赤塚不二夫の「これでいいのだ‼」人生相談』集英社、95年)

ギャグの鬼・赤塚のフィルターを通せば、聖書でさえ、このようなラディカルな通俗本としての認識がなされてしまう。

やがて、神さまは、アダムとイブ以外にも様々な人間を作り、何故か、イヤミや目ん玉つながり、バカボン一家なども、エデンの園に住み着く。

彼らは、ヒエラルキーの介在しない人間社会で、原始共産的な生活を営んでゆき、それは一見、人類史の最終局面としての一つの理想郷を形成したかに見えたが、自らの欲望の赴くままに生きてゆく人間が増えてきたことから、神さまは、その乱れに乱れたエデンの園を一掃すべく、洪水を起こすことを決意する。

アダムとイブは、避難用の方舟で、二十世紀の現代へとタイムスリップするが、二人を追い掛けてやってきた神さまがそこで見たものは、未来に生きる現代人達の余りにも酷い堕落ぶりだった。

混濁の世の不条理を嘆いた神さまは、人類への更なる罰として、連載の終了を宣言するのだった。

連載回数、僅か二〇回にして、突然の最終回を迎え、「マガジン」編集部より、尻切れトンボのまま、急遽打ち切りを決定された感も否めない『B.C.アダム』であるが、その突然の終了は、同作連載中、日本テレビ系列で、テレビアニメ『元祖天才バカボン』の放映開始が決定したことに起因しているのではないかと思われる。

『B.C.アダム』終了後、同誌においても、『元祖天才バカボン』とのタイアップを狙った原作版『バカボン』の連載が再開されることになるが、その準備期間も考慮し、急遽、取り止めにせざるを得なかったというのが、『B.C.アダム』が短期連載のまま、ファイナルを迎えた真因ではないだろうか……。

『B.C.アダム』は、『バカボン』の世界観とは大きく懸隔する、不条理とメルヘンという不整合な概念が同等の妥当性を備えた作品であり、ユルさの中にも日常からの開放を湛えた、その幸福感漂う世界観に強い魅力を感じていた筆者は、まだまだそのカラーに浸っていたかっただけに、この急転直下の打ち切り劇に対し、胸中晴れない想いがある。

取り分け、本編終盤、現在社会に現れたアダムとイブに強引なやらせ取材を慣行し、テレビ局をクビになったディレクターと、熱烈な芸能ファンである目ん玉つながりとの文字通り軽薄を絵に描いたような痛々しいまでの鳥滸のやり取りは、爆笑必至で、その軽い軽侮を込めたニヒリスティックな落ちも含め、今も変わらぬテレビ業界の腐敗体質の縮図を然り気なく描破した、怜悧なカリカチュールになり得ている。


通説を捉え直した新撰組珍論『幕末珍犬組』

2021-12-21 19:06:21 | 第5章

『幕末珍犬組』は、『狂犬トロッキー』の延長線上に位置する、登場人物達を動物に仮託した「新撰組」のパロディーで、局長の近藤勇以下、土方歳三や沖田総司といった新撰組メンバーらが、犬に置き換えられ、画稿狭しに大暴れするという、「週刊少年マガジン」の創刊十五周年を記念して発表された長編読み切りだ。

江戸末期の幕末の時代、京都において、反幕府勢力の弾圧と治安維持のため、結成された新撰組の巷説は、民間説話の類いも含め、諸説あるが、この『幕末珍犬組』もまた、作劇の都合上、通説を捉え直した異質の展開が堂々と張り巡らされており、その徹底的に様式化された「新撰組」烈伝から背理した珍説は、突拍子のない奇想に溢れ、純然たるギャグ漫画として読んでも、充分な程インタレスティングだ。

尊王攘夷派の長州藩・桂小五郎や土佐潘・海援隊所属の坂本龍馬といった倒幕派の志士達も、各々ワニや馬によってキャラクター化され、その時、実際にはいなかった筈の池田屋で、珍犬組の奇襲を受けたりと、史実無視も甚だしいそのタイムラグに、面喰らうこと必至だが、そんな歴史的事実を吹き飛ばす強引な物語展開は、即興性の妙味とともに、痛快この上ないバイタリティーの噴出となって余りある。

また、前作『狂犬トロッキー』の流れを汲むタイトルでありながらも、ナンセンス面においては、同時期の『レッツラゴン』と同じく、喧騒的なスラップスティックがドラマの定体を次々と解体してゆく、隔絶した飛翔感をみなぎらせている点も瞠目に値し、原作付き作品とはいえ、僅か二年の間に、赤塚の漫画文法が著しい変貌を遂げたことが、この一作からも窺える。

無論、他の作品も同様の経緯を辿って描かれたのであろうが、この『幕末珍犬組』の場合、滝沢が綴った四〇〇字詰め原稿用紙約六〇枚からなる原作に、本稿執筆のため、帝国ホテルで缶詰めとなった赤塚が、赤塚漫画らしいネームと構成による特段のリライトを施したとのことで、『鬼警部』や『狂犬トロッキー』以上に、シュールの気配さえ感じさせる苦心惨憺の跡が、至るシーンにおいて見て取れる。

余談だが、『幕末珍犬組』が掲載された「週刊少年マガジン」(73年17号)では、同時掲載の『天才バカボン』(「バカ塚先生とバカラシ記者」)で、その執筆の苦闘(⁉)の模様をネタにしたフィクショナルなエピソードが綴られ、自虐性たっぷりに製作の裏側を暴露する、クロスオーバーの笑いをプレゼンテーションしたことも、ここに連記しておきたい。