文化遺産としての赤塚不二夫論 今明かされる赤塚ワールドの全貌

赤塚不二夫を文化遺産として遺すべく、赤塚ワールド全般について論及したブログです。主著「赤塚不二夫大先生を読む」ほか多数。

神様手塚治虫宅を訪問

2017-11-11 19:44:00 | 序章

そして、8月10日、高校最後の夏休みを利用し、宮城県から上京して来た石ノ森章太郎と念願の初対面を果たす。

初対面で意気投合した彼らは、早速その日、同じく「東日本漫画研究会」のメンバーである長谷邦夫を連れだち、当時雑司ヶ谷鬼子母神近くのモルタル式アパート「並木ハウス」に住居を構えていた手塚治虫のもとを訪問する。

締め切り間際という状況にも拘わらず、三人の少年の突然の来訪を快く迎え入れた手塚治虫は、彼らに対し、キャロル・リードの『第三の男』のテーマ音楽(『ハリー・ライムのテーマ』)をピアノ演奏で披露したり、三人の似顔絵を描いてあげたりと、手厚い持て成しをもって歓待したという。

赤塚自身、この日の手塚との出会いを「胸が張り裂けんばかりの緊張と天にも昇るくらいの夢心地が一体となった瞬間」と、後に述懐しており、赤塚少年が体感したその濃密且つ目眩くひと時は、まさに推して知るべしといったところだろう。

この時、神様は赤塚少年にこんなアドバイスをしたという。

「漫画家になりたいのなら、一流の映画を観なさい。一流の本を読みなさい。一流の音楽を聴きなさい」

漠然としたアドバイスではあるが、メディアを問わず、良質の作品には、テーマがあり、感動があり、メッセージがある。

そこから自らの感性を刺激するものを抽出し、自分独自の世界観を作り出すことが大切であって、漫画から漫画を学ぶだけではいけないという意味なのだろうと、朧気ながら悟った赤塚少年は、神の啓示としてこの言葉を噛み締めた。

神様、手塚治虫の薫陶を受けた赤塚少年は、以降食費を最小限までに削り、映画館通いに加えて、クラシックのコンサートにも足繁く通い、世界中のSFミステリーを翻訳した叢書「ハヤカワ・ポケット・ミステリ」を乱読するなど、新たな感性を蓄積した。

後に有名になってからのインタビューで、赤塚は「食事からは全く栄養を取れなかったが、感性を磨く心の栄養はたっぷり取ることが出来た」と、当時のことを振り返った。

憧れの手塚治虫との歴史的邂逅から、約一ヶ月ほど経った9月26日、既に二十歳を迎え、少年から大人への階段を昇りきったばかりの赤塚青年のもとに衝撃的なニュースが転がり込む。

赤塚青年にとって、唯一作品の発表舞台であり、上京して以来、心の拠り処だった「漫画少年」が廃刊に追い込まれてしまったのだ。

複数の雑誌を掛け持ちし、締め切りに追われる人気漫画家の多くが、他の版元に比べ、原稿料が圧倒的に安い「漫画少年」に掲載する作品を全て後回しにしていたため、晩年は人気作品の休載が目立ち、終焉期ともなると、絶頂期に比べ、売り上げ、発行部数ともに大幅に激減するなど、版元の学童社は、赤字経営が続いていたという。

いつか「漫画少年」に連載を持つことを目指して、漫画家修行に励んでいた赤塚青年にとって、それは我が身を削られる以上に辛い出来事だったに違いない。

失意のどん底に突き落とされ、途方に暮れる中、既に単行本デビューし、怪奇スリラーもので高い評価を得ていた漫画家仲間のつげ義春(代表作『ねじ式』、『紅い花』)が、赤塚青年の心に希望の灯を点すような話を持ち掛けてきた。

貸本屋用の単行本を一冊描き、出版社へ持ち込めば、三五〇〇〇円の稿料になるという。 

三五〇〇〇円は、赤塚青年が働くエビス化学工業所の月給の四倍近くもの大金である。

「漫画少年」廃刊後間もなくのこと、同誌の編集長が「漫画研究」というマニア向けの専門誌を発刊する際の座談会で、赤塚青年は、横田徳男(後のよこたとくお、代表作『マーガレットちゃん』、『タマオキくん』)という青年と知り合った。

横田も漫画家志望で、福島から集団就職で上京し、この時小松川より程近い平井のプラスチック加工の工場に勤務しながら、持ち込み用の漫画を描いていた。

因みに、「漫画研究」の編集部は、並木ハウスの手塚治虫の仕事場の隣部屋にあり、また、馬場のぼるといった大物漫画家をはじめ、後にトキワ荘で共同生活を送る、当時新進気鋭の若手漫画家だった寺田ヒロオや藤子不二雄の両人と初めて顔を合わせたのも、この座談会の席でのことだった。

赤塚、横田の両青年は、将来の夢を語り合ううちに、いても立ってもいられず、今の仕事を辞め、漫画家としての独立を決意する。

二人は荒川の土手のそばの西荒川という都電の終着駅の真ん前に位置する五畳半一間の貸部屋で共同生活をスタートさせた。

そして、1956年6月、遂に、赤塚青年は曙出版より処女作を刊行する。

タイトルは『嵐をこえて』。

当時の貸本漫画の時流の一つだった悲しい少女メロドラマである。

赤塚不二夫、二十歳の夏であった……。


石ノ森章太郎と「東日本漫画研究会」

2017-11-10 19:08:56 | 序章

「東日本漫画研究会」では、正岡子規の随筆集にあやかった『墨汁一滴』というタイトルの肉筆回覧誌を定期的に製作していた。

石ノ森のもとに、日本各地の会員が原稿を送り、それらの原稿を石ノ森が綴じ本にして製本するという、機関誌としては、至って原始的な体裁ではあったが、そのレベルは、後にこの本を目の当たりにした藤子不二雄Ⓐが、自伝的漫画『まんが道』の中で、「とても地方の同人まんが誌とは思えない、斬新なまんがが、パッと花ひらいていたのだ!」と語るほど、高水準のものだった。

赤塚が驚愕したのは、漫画への卓抜したセンス以上に、当時まだ高校生だった石ノ森の教養の深さだった。

後に、NHKの『ドラマ新銀河』枠で連続ドラマ化された自伝『これでいいのだ』(NHK出版、93年)では、石ノ森と文通を始めたばかりの頃の偽わざる心境をこう述懐している。

「ぼくは学歴もなく、漫画と映画のほかは何にも知らないから、手紙を書くにも常套句なんてまるで知らない。

《今日は。お元気ですか。ぼくも元気です》

くらいしか書く言葉がない。それに対して石森(名和註・石ノ森)から返事が届く。開けてみると、

《貴兄のお手紙拝見しました……》

なんて書いてある。貴兄という言葉すらぼくは知らなかった。こんなもので驚くくらいだから石森が、

《美辞麗句じゃありませんが……》

などと書いてくると、外国語を見る思いだった。ぼくは辞書を1冊買って、わからない言葉にぶつかるたびに、辞書を引いて読み方を覚えることにした。

~中略~

ぼくの頭のなかの部屋はガラ空きだったから、新しく覚える知識や言葉は次々と貯蔵することができた。ちょうど赤ん坊が言葉を一つ一つ覚えていくように、知らないことや言葉を身につけていった。」

その後、石ノ森章太郎は、「漫画少年」の1955年1月号より、羽のない落ちこぼれの天使が下界で善行を重ね、一級の天使を目指し、天使修行の旅に出るという、軽妙洒脱且つファンタジックなアイデアが新鮮な『二級天使』の連載を開始。投稿家から寄稿家へとなり、そのきらびやかな才能を一気に噴出させた。

そして、赤塚不二夫もまた、少し遅れて、同年夏の臨時増刊号(8月30日発行)に『小包とリンゴ』という3ページの短編を寄稿する。

誤着したリンゴの小包を巡る三人兄弟のほのぼのとした失敗譚をユーモラスに描いた良質の家庭漫画だ。

同じ志を持つ仲間との出会い……。この出会いと連帯こそが、赤塚少年の夢を燃え立たせ、逆境の中をもがき苦しみながら、漫画業界という光ある世界へ、少しずつだが、踏み込ませていった。


「漫画少年」への投稿 漫画家デビューの夜明け前

2017-11-09 22:38:32 | 序章

藤雄が「漫画少年」(学童社刊)の入選常連になったのも、ちょうどこの頃だった。

戦前、「少年倶楽部」(講談社刊)の名編集長として活躍し、終戦後、GHQの指令による公職追放処分を受け、講談社の退職を迫られた加藤謙一が自ら起業し、創刊した月刊誌「漫画少年」は、手塚治虫の名作『ジャングル大帝』や後にライフワークとなる『火の鳥』といった良質の作品をプロデュースするだけではなく、漫画家志望者のために多くのページを割き、手塚治虫を選者に迎えた大規模な読者投稿欄を設けるなど、プロ漫画家への登竜門として大きな役割を果たした。

投稿規定は、いずれも一コマや四コマなどのコマ漫画であったが、歴代の入選常連の投稿家には、その後漫画家として功なり名を遂げた者が多く、寺田ヒロオ(代表作『背番号0』、『スポーツマン金太郎』)、藤子・F・不二雄(『ドラえもん』、『パーマン』)、藤子不二雄Ⓐ(『忍者ハットリくん』、『怪物くん』)、石ノ森章太郎(『サイボーグ009』、『仮面ライダー』) 、松本零士、高井研一郎(『総務部総務課 山口六平太』、『プロゴルファー織部金次郎』)、石川球太(『原人ビビ』、『牙王』)、森田拳次(『丸出だめ夫』、『ロボタン』)、板井れんたろう(『ポテト大将』、『おらぁグズラだど』)と枚挙に暇がない。

また、惜しくも入選を逃したものの、毎回熱心に自作漫画を投稿していた者の中には、イラストレーターの横尾忠則や和田誠、黒田征太郎、写真家の篠山紀信、作家の筒井康隆や平井和正、眉村卓といった、その後、漫画以外のフィールドで、戦後カルチャーを牽引する一流クリエーター達の顔が並び、当時の感性豊かな少年達に「漫画少年」が与えた影響力の大きさを改めて痛感させられる。

藤雄の初入選は、1954年5月号で、この時初めて、自作の漫画とともに「赤塚不二夫」の名が活字となって大きく踊った。 

以降、藤雄(以後、赤塚少年)は「漫画少年」の入選常連となり、投稿家の通信欄で会員募集をしていた、同じく入選常連の横綱であり、その華麗なペンタッチと奇抜なアイデアで既に天才少年の名を欲しいままにしていた石ノ森章太郎が主宰する「東日本漫画研究会」に入会する。

その後、自らの漫画製作プロダクション「フジオ・プロ」を設立した際、アイデアブレーン、作画スタッフ、マネージャーとして赤塚不二夫を支える長谷邦夫、高井研一郎、横山孝雄といった同会の会員達と文通を通じ、知遇を得たのも、入会して間もなくのことであった。


赤塚不二夫18歳、不安と期待が入り交じっての上京

2017-11-08 11:49:36 | 序章

1953年の夏、藤雄のもとに、東京の化学工場の役員をしているという父親の友人から、工員を二名探しているという話が舞い込む。

その工場は、江戸川区小松川にあるエビス化学工業所といい、硫酸鉄や硫酸銅、亜鉛華といった化学薬品を製造する会社だった。

元来性格が義理堅かった父親は、友人の頼みを断り切れず、また、月給も小熊塗装店よりも遥かに高いという算段もあり、切迫した家計の遣り繰りをなんとか凌げればという想いから、藤雄に上京し、工員として就職することを要請した。

右も左もわからない地方の一少年が、見知らぬ大都会で一人で生きていかねばならないという不安が去来する反面、大手出版社が密集し、手塚治虫がいるであろう花の都、東京に漠然とした憧れを頂いた藤雄は、住み慣れた新潟を離れ、東京行きを決意する。

藤雄が十八歳の誕生日を迎えた初秋の季節であった。

エビス化学工業所での労働は、腕白な子供時代を過ごし、若く、人並み外れた体力を備えているであろう藤雄でさえも、苛酷極まりないものだった。

早朝六時から夜九時までの十五時間労働。仕事の内容は、硫酸と鉄を溶かした液の入った大樽があり、その液を全て抜いた後、樽の内壁に付着した硫酸鉄の結晶を鉄のバールで叩き落としたり、硫酸と塩酸が詰まった六〇キロもある麻袋を、四〇〇袋になったところで、トラックの荷台に積み込むというものだった。

とてもではないが、漫画を描くどころの状況ではなく、夜は疲れたその身体をひたすら休ませるだけの日々が何ヶ月も続くことになる。

しかし、初志貫徹。藤雄には溢れんばかりの若さとバイタリティがあった。

社長に労働作業の効率化を提案し、それが採用されると、一日のノルマを早々とこなし、作業の時間以外は、執筆やアイデア作り、映画鑑賞に全てを当てるなど、漫画に没頭する時間を少しでも確保した。

そして、この時の苛酷な生活体験によって、後に超売れっ子の漫画家として多忙な生活を送るようになった際に、どんな不規則な生活や徹夜仕事にも耐え得るだけの気力と体力が育まれ、逆境をものともしない精神力が涵養されたという。


新潟で過ごした灰色の青春 甘美な総天然色の世界への憧憬

2017-11-08 10:39:56 | 序章

引き揚げ後、大和郡山へと移り住んだ赤塚家は、母親のりよ、藤雄、藤雄にとって実の妹である長女の寿満子、実弟で三男になる宜洋との四人暮らしであった。

赤塚家の家族構成は、本来であるなら、次女の綾子、次男の義大、そして、この時まだ生後六ヶ月であった三女を含め、八人家族である筈だった。

だが、引き揚げ前に、次女の綾子がジフテリアによって死去。義大はやんごとなき事情により、既に外地で、他家へと養子に出されていた。

綾子の死後、その名を授けられた三女は、引き揚げの際、無慈悲にも税関でミルクを取り上げられ、その結果、栄養失調となり、大和郡山にある、りよの実家に着いたとたん、即、息を引き取ったという。 

そうした苛辣な境遇の中、藤雄十四歳の時、中国大陸の辺境を転々とし、抗日共産勢力の壊滅と現地の定着宣撫を任務とする特務警察官を務め、第二次世界大戦後、ソ連赤軍によってシベリアに抑留されていた父、藤七が帰国。これを機に、りよを除く、藤雄、寿満子、宣洋の三人は、父方の故郷、新潟県四ッ合村大字井随へと移り住む。

元々、関東軍の憲兵として満州に渡った藤七は、国際連盟のリットン調査団の護衛を務めていた経歴からもわかるように、屈強にして厳格な人物であったため、藤七に対し、常に畏怖の念を抱いていた藤雄だったが、シベリアでの過酷な抑留生活による栄養失調から、すっかり痩せこけ、水疱を患ったその風貌は、威厳を湛えた、かつての重々しいまでの雰囲気とは真逆とも言うべきもので、藤七の憔悴しきった姿を目の当たりにした際、ショックを隠せなかったという。 

終戦後、父、藤七が過ごした波乱に満ちた時期については、赤塚が出版費用を受け持ち、フジオ・プロより上梓した藤七自筆による自叙伝『星霜の記憶』(72年)に詳しい。

経済的な事情により高校進学を断念した藤雄は、後に田舎者の発想だと自虐的に笑うが、少しでも絵の描ける仕事をすれば、漫画の勉強になるだろうという想いから、四ッ合中学卒業後、新潟市内にあった小熊塗装店に就職し、社会人としての第一歩を踏み出した。

しかし、現実は、ドラム缶の錆止めのペンキ塗りや進駐軍の軍用地にある飛行場の滑走路のライン引きといった、安月給の上、危険を伴う重労働ばかりで、好奇心旺盛な、当時十六歳だった藤雄にとって八方塞がりな毎日だった。

だが、この塗装店での生活は、その後の赤塚不二夫の漫画家人生において、重要な糧となって余りある大きなプラスアルファがあった。

小熊塗装店は、市内の映画館の看板の塗装も引き受けていたので、上映作品を無料で観られるという役得があったのだ。

困窮と敗戦のコンプレックスの中で喘いでいた藤雄の灰色の青春を満たしてくれたものが、ハリウッド製の総天然色映画をはじめとする、西部劇、冒険活劇、恋愛物、ギャング物といった数多の外国映画だった。

知的好奇心を満たし、尚且つ目眩く甘美な夢の世界へと誘ってくれる映画の魅力に、藤雄は夢中になった。

ジョン・フォードの『駅馬車』、ビリー・ワイルダーの『第十七捕虜収容所』、キャロル・リードの『第三の男』、マイケル・カーティスの『カサブランカ』、サム・ウッドの『誰かの為に鐘は鳴る』、ラオール・ウォルシュの『遠い太鼓』といった名作映画、そして、アボット&コステロの凸凹コンビ、ジェリールイス&ディーン・マーチン、ダニー・ケイ、 チャーリー・チャップリンの諸作品……。

その後、赤塚ギャグの根っ子となるこれらのスラップスティックコメディもまた、この新潟時代に出会っており、物語のリズム、プロットの展開、演出、カット割り、構図等、後に漫画を描くうえで、この時の映画体験がたいへん参考になったという。

そして、この時期、『モヒカン族の最後』や『弾丸トミー』、『アップルジャム君』といった杉浦茂作品にも出会い、そのシュールで垢抜けたナンセンスな絵柄と独特の言語センスが横溢する先鋭的な笑いに、藤雄は魅了されてゆく。

エッセイ『変態しながら生きてみないか』(PHP研究所、84年)で、杉浦作品との邂逅をこのように語っている。

「手塚マンガとは対称的なタッチだが、妙に気になるマンガに出会ったのもこの頃だ。手塚治虫が洗練の極致だとしたら、そのマンガは〝ヘタウマ〟の元祖であった。一見ヘタクソでリアルなペン画が入っていたかと思うと、極端なディフォルメをしたマンガ的、あまりにマンガ的な絵が描かれていた。そのマンガの作者の名前は杉浦茂という。杉浦マンガの特徴は奇抜なナンセンスにあった。例えば、こうだ。白人を乗せた馬がインディアンに襲われる。インディアンの矢が雨のように飛び、その中の一本が馬の尻に刺さる。そうすると、馬はストーリーと関係なく口をきいてしまうのである。「痛えな、もう……」このナンセンスさ加減にはひっくり返って笑ってしまった。

~中略~

とにかく、手塚治虫しかいなかったぼくの頭の片隅に〝杉浦茂〟が入り込んできたのだ。」

読書に勤しむようになったのもこの頃だった。

フェイバリットは、その後ストーリーを頂いて、いくつかの漫画を描いたという『二十年後』や『よみがえった改心』、『賢者の贈り物』に代表される掌編小説の粋を集めた『O・ヘンリー短編集』や、『あなたに似た人』、『南から来た男』等、ブラックユーモアを身上とした奇妙な味わいの短編小説を得意としていたロアルド・ダールの諸作品で、特にロアルド・ダールの作品は、後のプロット作りにおいて、大いにヒントになったようだ。

キャラクターの性格付けにおいて、大きな影響を及ぼしたのが、イタリアの漫画家、ジョバンニ・グアレスキが書いた短編小説『陽気なドン・カミロ』だ。

あるイタリアの片田舎の教会の牧師、ドン・カミロと、彼とは全く主義主張の違う、同じ教区に住むコミュニストの村長、ペポネの衝突が、隠しきれない男と男の粋な友情として、濃厚な情感を込めて書かれている。

いがみ合っていても、決して一人では生きて行けず、その根底では深い友情と絆で結ばれているという、後に描くことになる『おそ松くん』や『もーれつア太郎』等に登場するキャラクター達の人間関係は、まさにこの作品の系譜と言えるだろう。