「シェー‼」の国民的大流行、原作漫画とテレビアニメのストーリー媒体の爆発的人気で、『おそ松くん』は、名実共に現代漫画を代表する大ヒット作品となり、一躍時代の最前線に躍り出た赤塚のもとに、テレビ、新聞、雑誌等、各マスコミからの取材が殺到する。
『おそ松くん』関連のサイン会やイベント、各界の著名人との対談にも駆り出され、遂には、テレビのバラエティー番組(『まんが海賊クイズ』/NETテレビ(現・テレビ朝日)、66年3月25日~68年4月5日、共演・黒柳徹子、森田拳次)にレギュラー出演するなど、熱狂的な人気に支えられながら、赤塚は時代の渦中へと巻き込まれてゆく。
マスメディアの露出に加え、一躍大人気漫画家となった赤塚に、出版各社から連載、読み切り等、更なる原稿の依頼が舞い込むようになる。
正に、一日一本の作品を消化しなければ、締め切りに追い付かないという執筆量を抱えることになった赤塚は、物理的な理由から、制作にあたり、作業の合理化を図るべく完全な分業体制を敷き、作品の大量生産をキープしてゆくプロダクションシステムを、ギャグ漫画家としてこの時初めて導入。1965年4月2日、前述した株式会社「フジオ・プロダクション」を設立する。
もともとフジオ・プロは、1962年頃、党員が増え過ぎたことによるトラブルが災いし、自然消滅した東日本漫画研究会の灯を絶やしたくないという想いから、当時既に売れっ子になりつつあった赤塚を中心に、長谷邦夫、横山孝雄、高井研一郎、よこたとくお、山内ジョージといったその残党と、この時、赤塚の最初の妻であった稲生登茂子らによって結成された「まんが七福人・プロダクション」を母体とした漫画製作システムである。
まんが七福人・プロは、その頃、忙しくなりつつあった赤塚の執筆をサポートする赤塚主体のプロダクションというよりも、それぞれ独立した漫画家達が、お互いを刺激し合いながら、新しい漫画を創造してゆこうという高邁な理念のもとに組織された、謂わば、新漫画党のスタイルや規模を矮小化したイメージの強いファクトリーであり、実際、千代田区神田の雑居ビルにオフィスを構え、赤塚を除く東日本漫画研究会の元メンバー達が、曙出版の『まんがクレイジィ』なる貸本向けの雑誌単行本に、作品を競作で発表するなどしていたが(9号まで刊行)、多忙による赤塚のチームそのものへの不参加と、神田に構えた事務所が安普請で南京虫の巣窟と化した衛生上の問題もあり、結局、その活動は不活発のまま、終止符を打つこととなった。
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連載開始から一年目を迎えた1963年、遂に断トツの人気を誇るようになり、『おそ松くん』をもっと読みたいというファンからの要望が強まってきた状況に呼応するかのように、『おそ松くん』のページ数を増大させようという企画提案が「週刊少年サンデー」編集部より立ち上がる。
だが、当時のアシスタントは、妻の登茂子のほか、イレギュラーで助っ人に来ていた高井研一郎ぐらいしかおらず、赤塚としても、アシスタントを増やさないことには、それ以上のページ数の増加など、物理的に乗り切れるレベルではなかった。
そうした流れのなか、担当の樺島記者がアシスタントにと赤塚に紹介してきたのが、この時、少女漫画を中心に活動していた新進漫画家で、かつては手塚治虫のアシスタントを務めていたという古谷三敏であった。
当時、ストーリー漫画志望で、ギャグ漫画など漫画の範疇ではないといったある種の排他的感情を抱いていた古谷は、赤塚のアシスタントになることを固辞していたものの、樺島記者に半ば強制的に赤塚の仕事場に連れて来られ、なし崩し的にその仕事を手伝わされる羽目になったという。
その頃の心情を古谷はこう述懐する。
「僕はもともと手塚治虫のアシスタントですからね。あの人(名和註・手塚)は言ってみれば将軍さまみたいな感じなわけですよね。赤塚不二夫は大名としますよね。だから、そこのアシスタントですから直参の旗本なわけですよ、感覚的に。だから、当時、赤塚不二夫は「おそ松くん」ですごい売れていたんですけど、それがなんぼのもんじゃという感じがあるわけですよね。」
(『バカは死んでもバカなのだ・赤塚不二夫対談集』毎日新聞社、01年)
当初は、意に沿わない仕事を押し付けられ、気乗りしなかった古谷だったが、赤塚の謙虚で、尚且つフレンドリーな人柄に接しているうちに、次第にその人間的魅力に惹かれ、赤塚が日々格闘しているギャグ漫画というフィールドそのものにも興味を持ち始めてゆく。
また、赤塚は、掬い上げたギャグの良し悪しをモニタリングする客観的基準を設けることで、アイデアのレベルアップを目指そうと、樺島記者とのブレーンストーミングに、毎回古谷を同席させるようになる。
だが、この何気ない展開が、予期せぬ効を奏し、古谷の潜在していたギャグの天分を引き出すこととなったのだ。
赤塚と樺島記者の白熱するディスカッションも、最初は横目で見ていた古谷だったが、より気脈が通じ合い、興に乗じるようになると、古谷も時折、自らの意見を挟むようになり、赤塚のセンスさえも凌駕しかねない奇抜で斬新なギャグをいくつも発想し、いつしか、作品のテーマに対し、エフェクティブなアイデアを打ち出すまでになった。
そう、古谷が赤塚漫画の重要なパートと密接に連係することにより、作品世界に新たな血が注入され、ギャグ漫画という特質上、様式化されたアイデアを手に変え品を変え、繰り返さざるを得ない作劇上の限界を高い次元で乗り越えるとともに、笑いの構造領域を一層広げるいくつものメソッドが生まれたのだ。
尚、この時の古谷との奇妙な邂逅から、その後アシスタントとしての才気溢れる仕事ぶり、代表作の『ダメおやじ』のヒットにより、人気ギャグ漫画家への華麗なる転身を遂げてゆく道程を、赤塚の回想ダイジェスト『古谷三敏伝』(「少年サンデー 春休み増刊号」75年4月15日発行)で描かれているので、興味のある方は是非一読して頂きたい。
古谷が赤塚のチーフアシスタントとして、作画面からアイデア出しに至るまで、オールマイティーに機能するようになった頃、更に仕事の守備範囲も広がり、収入も一気に増えたことから、赤塚はもう一人のアシスタントを招き入れる。
漫画家志望の若者で、多摩美術大学付属芸術学園で写真技術を学び、その後、自ら写真館を営んでいたという異色の経歴を持つ北見けんいちだ。
元々手塚治虫の熱烈なファンだった北見は、特に赤塚作品が好きというわけではなく、「週刊少年サンデー」編集部に原稿を持ち込んだ際、たまたま北見と面会をしたのが赤塚担当の樺島記者で、その時、赤塚を紹介され、今、アシスタントを募集しているから、手伝ってみないかという誘いを受けたのがそもそもの始まりであった。
少しでも漫画の仕事に携わることが出来ればという心情から、その誘いを一もなく二もなく引き受け、藁をも掴む想いで、赤塚のアシスタントになったと語る北見だが、実はこの時、本命として、手塚治虫の虫プロのアニメーター募集にも、ちゃっかり履歴書を送っていた。
その時のことを北見はこう振り返る。
「ちょうどそのころ、虫プロでもアニメーターを募集してて、僕はそっちにも応募していたんですよ。で、三月に採用通知が来たんだけど、僕は一月(名和註・1964年)から赤塚先生のところに通っていて、もう三ヶ月もなじんじゃっていたから、そっち(名和註・漫画家)の道に進むことになったんです。運命ってわからないよねえ。今となっては、向こうに行っていなくてよかったと思うよ。」
(『総特集・赤塚不二夫』河出書房新社、08年)
当初は二、三年で見切りを付けて独立するつもりだったとのことだが、親分肌でありながらも、気さくで親しみやすい赤塚の傍らがこの上なく居心地良く、その後ブレイクする『釣りバカ日誌』(原作/やまさき十三)の作画を受け持つまで、実に十五年の長きに渡り、時には、赤塚のモラルの枠を超えた奔放な私生活に、多少ならずとも自身のプライベートを犠牲にされつつも、主に作画スタッフとして、また、その後長期連載することになる『赤塚不二夫のギャグ・ゲリラ』のアイデアブレーンとして、誠心誠意を尽くし、赤塚作品をフォローしてゆく。
但し、厳密に言えば、1964年当時、まだフジオ・プロという組織はなく、その制作工程も不定形で、アシスタントもそれほど多くなかったせいか、完全分業によって作業の合理化を図るシステムも確立されてはいなかった。