ひととアート
コロナの時期を過ごし、今、必要なのでは、と思うことをやってきました。自分を超えた大きな変化がある時には、次に進む道がなかなか見えないことがあります。3.11の時にも同じことを体験しました。
そういう時は、計画をする、というよりは、耳を澄まして、次なる兆しを感じ、それを捉えたらやってみることが大事だと思っています。
3.11の後は真っ暗闇の中の小さい光としてとらえられたものですが、このコロナ期間においては、真っ暗闇ではなく、普通の日常の風景があり、しかしその背後に、小さな兆しが見えてくるような感じがあります。だから、今まで通り、普通にやっていると、見過ごしてしまうぐらいのものだったりします。
静かな混乱期の中で、多くの人は、自分の生きる方向性を今まで以上に模索しているように思います。昨日、満月の瞑想会をおこないましたが、獅子座と「自分自身」について思いを巡らす瞑想でした。外側に合わせるのではない、本当の自分、それをひたすら探求していく力とつながりました。
自分はいつも獅子座的なエネルギーにひっぱられて、生きてきたようにも思います。そこではボディワーカーとして身体を通した探求をしてきたし、アロマを入口に植物を通した人と自然のつながりの探求につながっていきました。3.11後は、すべてを統合するスピリチュアリティについての学びを余儀なくされました。
そして思うのは、スピリチュアルなことは非日常的な逃避の場所ではなく、生きるために人間に最も必要なものでリアリティのあるものだということ。
講座やワークショップ、個人セッションなどを行う時に、必要な人に情報が届くようにと考え、使う言葉にはとてもこだわってしまいます。
星と植物の関係性をみる講座をしていますが、占星術、占星学という言葉を使いたくなかった。それと同様に、もっとも伝えなければいけないスピリチュアリティやスピリチュアルなことに関しても、言葉そのものに色がついていて、いつも悩むところです。
占星術やスピリチュアルという言葉自体がダメというわけではありませんが、自分らしくないなと思うので。
魂とつながるということは、キーワードとしては、気づきや創造性という言葉が、私にとっては大事になってきます。
人間は霊的な高次世界からくるものに反応し、それをうけとり、現実化していくという能力があり、その道具として自分自身を鍛錬することが、ある意味、霊的修行であり成長につながります。
世界の在り方を誰のせいにするでもなく、自分か感じる世界を創っていく、つまり、天界を地に降ろしていくということ。
高次領域のものをキャッチしたにもかからわず、歪ませるのは自分の中にある曇りや濁りであるから、それをよりクリアにしていくことが、人間としての責務でもあります。
そうしたときに、私の中ではスピリチュアルという言葉よりも、「アート」という言葉の方がしっくりくると思いました。私にとってのスピリチュアルやスピリチュアリティは、人間について学び・考えるだけではなく、それを自分で体現してみるというアートとしてのアウトプットまでセットです。
そして、アートとは、霊的な世界とのつながりを失った人間に神が与えた贈り物であると、ルドルフシュタイナーは述べています。アートとは芸術とも技術とも訳されます。芸術とは、秘教的には二極の葛藤を通して調和を生み出す力でもあります。
そもそも「ひと」とは何なのか?「アート」の本来の意味は?ということも含めて、これからやっていく中核には「ひととアート」というコンセプトを据えたいと思っている今日このごろです。
もりとアートの学校
コロナの時期を過ごし、今、必要なのでは、と思うことをやってきました。自分を超えた大きな変化がある時には、次に進む道がなかなか見えないことがあります。3.11の時にも同じことを体験しました。
そういう時は、計画をする、というよりは、耳を澄まして、次なる兆しを感じ、それを捉えたらやってみることが大事だと思っています。
3.11の後は真っ暗闇の中の小さい光としてとらえられたものですが、このコロナ期間においては、真っ暗闇ではなく、普通の日常の風景があり、しかしその背後に、小さな兆しが見えてくるような感じがあります。だから、今まで通り、普通にやっていると、見過ごしてしまうぐらいのものだったりします。
静かな混乱期の中で、多くの人は、自分の生きる方向性を今まで以上に模索しているように思います。昨日、満月の瞑想会をおこないましたが、獅子座と「自分自身」について思いを巡らす瞑想でした。外側に合わせるのではない、本当の自分、それをひたすら探求していく力とつながりました。
自分はいつも獅子座的なエネルギーにひっぱられて、生きてきたようにも思います。そこではボディワーカーとして身体を通した探求をしてきたし、アロマを入口に植物を通した人と自然のつながりの探求につながっていきました。3.11後は、すべてを統合するスピリチュアリティについての学びを余儀なくされました。
そして思うのは、スピリチュアルなことは非日常的な逃避の場所ではなく、生きるために人間に最も必要なものでリアリティのあるものだということ。
講座やワークショップ、個人セッションなどを行う時に、必要な人に情報が届くようにと考え、使う言葉にはとてもこだわってしまいます。
星と植物の関係性をみる講座をしていますが、占星術、占星学という言葉を使いたくなかった。それと同様に、もっとも伝えなければいけないスピリチュアリティやスピリチュアルなことに関しても、言葉そのものに色がついていて、いつも悩むところです。
占星術やスピリチュアルという言葉自体がダメというわけではありませんが、自分らしくないなと思うので。
魂とつながるということは、キーワードとしては、気づきや創造性という言葉が、私にとっては大事になってきます。
人間は霊的な高次世界からくるものに反応し、それをうけとり、現実化していくという能力があり、その道具として自分自身を鍛錬することが、ある意味、霊的修行であり成長につながります。
世界の在り方を誰のせいにするでもなく、自分か感じる世界を創っていく、つまり、天界を地に降ろしていくということ。
高次領域のものをキャッチしたにもかからわず、歪ませるのは自分の中にある曇りや濁りであるから、それをよりクリアにしていくことが、人間としての責務でもあります。
そうしたときに、私の中ではスピリチュアルという言葉よりも、「アート」という言葉の方がしっくりくると思いました。私にとってのスピリチュアルやスピリチュアリティは、人間について学び・考えるだけではなく、それを自分で体現してみるというアートとしてのアウトプットまでセットです。
そして、アートとは、霊的な世界とのつながりを失った人間に神が与えた贈り物であると、ルドルフシュタイナーは述べています。アートとは芸術とも技術とも訳されます。芸術とは、秘教的には二極の葛藤を通して調和を生み出す力でもあります。
そもそも「ひと」とは何なのか?「アート」の本来の意味は?ということも含めて、これからやっていく中核には「ひととアート」というコンセプトを据えたいと思っている今日このごろです。
もりとアートの学校