恩師のご著書「真理を求める愚か者の独り言」より
第三章 天上界への道
◆完全無欠の神様が私たちの中に命として生きていてくださる◆
先の続き・・・
四行目に示されるのは、姿ある天地自然や万象万物の中でも特に人間のことで、
これも神の表現として形ある肉体を与えられ、地上に生かされております。
三行目の「姿なくては生きとし生けるものを生かさんその生命を見よ」とは、形あるもの
の背後にあって生命の原動力、エネルギーを与えている存在としての神を知りなさいということです。
神というものがなければ、すべてのものには魂も命も宿らぬことになり、ただの物体、
物質ということになってしまいます。
人間も同様です。
だから、四行目、五行目では「汝らを姿あるものとしてこの地上に生じせしめ、
姿なき汝らの神我となりて、我は証せん」というのです。
つまり、あなたたち人間を肉体ある存在として地上に生かしながら、
私の存在を証し示すことにしようということです。
どうやって、証し示すかといったら、
各人の肉体の器の中に神の分け御霊である神の御心の一部が最初から注ぎ入れられ、
それがだんだんと完全に現わされてくるにしたがい、
人間が神そのものの行為をこの地上に現わし、人間がまさしく神の子であり、
神と人間は常にともにあり、
一つであるということがはっきりとしてくるという過程においてなのです。
科学が客観性を重んじるのに対して、宗教は体験を重んじてきました。
科学は証明できないものは真理として認めません。
しかし、神の存在は否定しても、自然のエネルギーを否定できる人はありません。
大宇宙、大自然のエネルギーと呼ぶか、神と呼ぶかの違いだけです。
私たちは、ただ自分たちの心の内奥に、
神様の御心がそのままに分け与えられた神我を見出すことによってのみ、
神様の存在というものを知ることができるのです。
これは一人一人の体験の中でのみわかることですから、
「太陽の心」として前に示したような神の御心にかなう言葉と思いと行いを実行した時に、
それがだんだんと本物の体験になってくるはずです。
これをやるやらないはもちろん各人の自由です。
ただ、真実の生き方というものを求めるのであれば、
どうしても避けて通ることのできない道なのです。
~ 感謝・合掌 ~