「好きになった人の幸せをどうしても『願えない』」と
失恋した彼女は悩みを語った。
それは*『至極当然』人には両親、家族を含めて
☆☆☆『「願うべき幸せ」など「本当はない」』のだから。
『相手の「幸せを祈らなくてはならない」という「強い思い込み」』がある。
ハートにとって唯一の願いは、自他の幸せを『「願う※心を持つことではなく「あらゆる執着を離れた」ニュートラルな本源(空・真我)に還ること』。
※「自分の考え」で相手の『幸せを祈る☆「行為」は、
実は『大いなる存在(自然、宇宙、神様、阿弥陀如来ほか)の導きにとっては「不自然な」おせっかい』。
☆☆☆ただ『溢れる感謝の「想いに祈りを合わせる」』
※「なら」別次元の行為だが。
至福の幸せとは『「思うもの」でも「願う行為」でもない』。☆☆☆積木遊びをする幼子のような
『無我の歓びのなかにある、
※『それ』の「体感を想い起こし」感じる』のが
A M S 内観瞑想。
あなたは、感謝と祈りの感覚を瞑想の翼に、
『「自分を忘れ」ハートのなかの「光の国(真我)に
目覚め帰還する」』だけでいい。
『それ』は『一万円を内ポケットに入れていたことを忘れ「お金をもっていない」と☆☆☆勘違いしていた』ようなもの。
誰しものハートに「幸せ感覚」はいつも眠っているのに。
ハートの中に「減ることのない貯金がある」ことを、あなたは忘れているだけ。
だから、愛する存在に『感謝が湧き上がり、両手を合掌する祈りが自然に起きる』なら、『それ』に自然に身を委ねればいい。
あなたのハートが『愛と感謝に包まれた永遠の大河』に
※「浮かんだら」すぐに泳ぎなさい。
至福と出逢うには、自分の力で「ジタバタと泳ごうとする」
☆☆行為も願いもいらない。
『それ』は自分を超え『「愛に昇る」
光の道』への☆『約束された歩み』だから。
☆☆☆『「もう叶っている」救い、
「失恋のない完璧な想い」を識って
いる』愛の錬金術とともにあるから。
合掌
叡空