2016/12/17
「渡嘉敷(とかしき)島へ」 旅行記録
12月17日、慶良間(ケラマ)諸島の一つ、渡嘉敷島へ行ってきた。昨日(16日)の沖縄は寒くて最高気温が18度だった。沖縄の人は「今日は寒い、寒い」と言っていた。私は「適温」に感じていたのだが、夜は風が強くて「やや寒かった」。
昨日は、強風注意報が出ていたので、慶良間諸島への高速艇はすべて欠航になっていた。フェリーは欠航していなかったが、出航(約3時間)を遅らせていた。少し風がおさまってきたから、出航したらしい。
沖縄本島に近い慶良間諸島は、近年国立公園になっていた。「ケラマブルー」と言われ、たいへん海が美しいとのうわさ。そのうわさにつられて、今回日帰りで行ってみたいと思った。
昨日(16日)は風が強く、計画を取りやめた。取りやめる判断を早めにしてよかった。フェリーの出航時刻が遅くなっていたらしく、無理して行っていれば、日帰りできないところであった。渡嘉敷島へのフェリーは、一日1往復しかない。高速艇は一日2便あるのだが、波が高くて欠航することが時々あるようだ。まさに、昨日は高速艇は「全便欠航」であった。
今日(18日)は天気も良く、風もゆるやかで、予定時刻にフェリー・高速艇どちらもも出航するとの確認が取れた。(今朝、フェリー会社に電話で確認をした。)
離島への移動はフェリーや高速艇であることが多い。計画しても、「欠航」によって、計画が崩される。(ちなみに石垣島旅行においても「波照間島」へ行く便は、欠航となることが多いようだ。)
慶良間諸島への便は、波照間島ほど欠航はしないようだが、それでも「天気しだい」というところがある。台風シーズンや冬の海は荒れやすい。
今日は調子よく、予定通り渡嘉敷島へ行くことができた。
午前10時那覇・泊港(とまりこう)出航のフェリーに乗ることができた。渡嘉敷島到着予定は、11時10分だったが、海のうねりが大きく、到着は10分ほど遅れた。到着後、早速レンタカーで島巡りをした。
午後3時30分に那覇・泊港行きのフェリーが出るので、島滞在は約4時間。それ以上いたら、今日中には那覇に戻れないことになってしまう。
「まあ、4時間ほど島に滞在できるのだから、島の景色を楽しもう!」
というしだいで、島の風景を楽しんできた。島のあちらこちらにビューポイントがあり、展望所があった。海の色がブルー。「これが、ケラマブルーの海なのだ」と満足できた。
島の「西展望所」からの眺めが一番良かった。海峡を隔てた西側の海には、慶良間諸島の座間味島が身近に見えた。瀬戸内海の島々を(岡山県の)鷲羽山から眺めているような感覚になった。渡嘉敷島(西展望所)から座間味島を眺めると、瀬戸内海を連想してしまう。海の色は「ケラマブルー」だったが・・・。
ケラマブルーの魅力は、ダイビングする人なら十分に味わえるのだろう。私はダイビングをしないが、展望所からの眺めだけでも、十分にそのブルーが目にしみた。
渡嘉敷島には「何もなかった」が、ケラマブルーの海はたっぷりとあった。
(酸虎さんへ。ノートパソコン持参のショートステイですので、那覇のホテルでブログを書いています。19日には帰宅します。)

すぐ前方のフェリーは「座間味島フェリー」 ほぼ同じ時刻に出航した。泊港をまたぐ大きな橋(アーチ橋)がかかっていた。。

約80分で渡嘉敷港に到着。10分遅れだった。

島の南端近くの海岸 土曜日だったが、車が1台だけ。ひっそりとしていた。夏は大勢の観光客が来るようだ。ひっそりとしている海岸が好きな私にとっては、満足、満足。

渡嘉敷港近くの無人島が眼下に見える。

島の北端近くの「東展望所」からの眺め。無料の望遠鏡が設置されていた。

「西展望所」からの眺めが最高だった。まるで、瀬戸内海の島々を見るような・・・。

同じ場所から、座間味島などが身近に見えた。渡嘉敷島・座間味島などの島々=慶良間諸島が、2014年3月5日(珊瑚の日)に31番目の国立公園に指定されている。たぶん、一番新しい国立公園であろう。

透明な海 岸辺の海を見れば分かる。

レンタカー利用だったので、3時間あれば、ゆっくりと回りきれた。

慶良間諸島国立公園 標識がところどころにあった。

渡嘉敷フェリーは乗り心地よかった。すこし揺れたが、安定した運航だった。
昨日は、強風注意報が出ていたので、慶良間諸島への高速艇はすべて欠航になっていた。フェリーは欠航していなかったが、出航(約3時間)を遅らせていた。少し風がおさまってきたから、出航したらしい。
沖縄本島に近い慶良間諸島は、近年国立公園になっていた。「ケラマブルー」と言われ、たいへん海が美しいとのうわさ。そのうわさにつられて、今回日帰りで行ってみたいと思った。
昨日(16日)は風が強く、計画を取りやめた。取りやめる判断を早めにしてよかった。フェリーの出航時刻が遅くなっていたらしく、無理して行っていれば、日帰りできないところであった。渡嘉敷島へのフェリーは、一日1往復しかない。高速艇は一日2便あるのだが、波が高くて欠航することが時々あるようだ。まさに、昨日は高速艇は「全便欠航」であった。
今日(18日)は天気も良く、風もゆるやかで、予定時刻にフェリー・高速艇どちらもも出航するとの確認が取れた。(今朝、フェリー会社に電話で確認をした。)
離島への移動はフェリーや高速艇であることが多い。計画しても、「欠航」によって、計画が崩される。(ちなみに石垣島旅行においても「波照間島」へ行く便は、欠航となることが多いようだ。)
慶良間諸島への便は、波照間島ほど欠航はしないようだが、それでも「天気しだい」というところがある。台風シーズンや冬の海は荒れやすい。
今日は調子よく、予定通り渡嘉敷島へ行くことができた。
午前10時那覇・泊港(とまりこう)出航のフェリーに乗ることができた。渡嘉敷島到着予定は、11時10分だったが、海のうねりが大きく、到着は10分ほど遅れた。到着後、早速レンタカーで島巡りをした。
午後3時30分に那覇・泊港行きのフェリーが出るので、島滞在は約4時間。それ以上いたら、今日中には那覇に戻れないことになってしまう。
「まあ、4時間ほど島に滞在できるのだから、島の景色を楽しもう!」
というしだいで、島の風景を楽しんできた。島のあちらこちらにビューポイントがあり、展望所があった。海の色がブルー。「これが、ケラマブルーの海なのだ」と満足できた。
島の「西展望所」からの眺めが一番良かった。海峡を隔てた西側の海には、慶良間諸島の座間味島が身近に見えた。瀬戸内海の島々を(岡山県の)鷲羽山から眺めているような感覚になった。渡嘉敷島(西展望所)から座間味島を眺めると、瀬戸内海を連想してしまう。海の色は「ケラマブルー」だったが・・・。
ケラマブルーの魅力は、ダイビングする人なら十分に味わえるのだろう。私はダイビングをしないが、展望所からの眺めだけでも、十分にそのブルーが目にしみた。
渡嘉敷島には「何もなかった」が、ケラマブルーの海はたっぷりとあった。
(酸虎さんへ。ノートパソコン持参のショートステイですので、那覇のホテルでブログを書いています。19日には帰宅します。)

すぐ前方のフェリーは「座間味島フェリー」 ほぼ同じ時刻に出航した。泊港をまたぐ大きな橋(アーチ橋)がかかっていた。。

約80分で渡嘉敷港に到着。10分遅れだった。

島の南端近くの海岸 土曜日だったが、車が1台だけ。ひっそりとしていた。夏は大勢の観光客が来るようだ。ひっそりとしている海岸が好きな私にとっては、満足、満足。

渡嘉敷港近くの無人島が眼下に見える。

島の北端近くの「東展望所」からの眺め。無料の望遠鏡が設置されていた。

「西展望所」からの眺めが最高だった。まるで、瀬戸内海の島々を見るような・・・。

同じ場所から、座間味島などが身近に見えた。渡嘉敷島・座間味島などの島々=慶良間諸島が、2014年3月5日(珊瑚の日)に31番目の国立公園に指定されている。たぶん、一番新しい国立公園であろう。

透明な海 岸辺の海を見れば分かる。

レンタカー利用だったので、3時間あれば、ゆっくりと回りきれた。

慶良間諸島国立公園 標識がところどころにあった。

渡嘉敷フェリーは乗り心地よかった。すこし揺れたが、安定した運航だった。
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3

2016/12/15
「南大東島の「大東寿司」を食す」 旅行記録
南大東島から空輸されたマグロやサワラをつかった「大東島漬け寿司」を食することができた。那覇・泊港の近くの寿司店『喜作(きさく)』でのみ食することができる寿司だと、観光雑誌に紹介されていた。
妻が一年ほど前にある雑誌から切り抜いて大切にしてくれていた「お店情報」だった。ぜひ行ってみたい店だと思ったので、必死で探しまわった。昼間、私一人で探した。探し当てた時間には、店は閉まっていた。こういう店は夕方からの営業であることが多い。
冬至が近づき、日没も早くなってきた。初めて行く店を暗くなってから探すと見つけにくい。那覇市内中心部は飲食店や居酒屋が無茶苦茶多い。
スマホを持って探せば簡単かもしれないが、私はスマホを持っていない。あくまでも「地図」が頼り。地図を頼りに「行くべきところ」にたどり着くことは、(夜は結構)難しい。今まで失敗を何度もしてきている。昼間に「目的の店」を下見しておくことが、「迷わない方法」である。
(東海道歩き旅でも明るい時間帯に目的のホテルに到着するようにしている。暗い時間にホテルを探しまわって、何度も苦労している。夜になると、地図そのものが見にくい。やっぱりスマホの時代ですかね? いや、もう少しガラケーでがんばるぞ!)
時間がたっぷりある者(私)にとって、ぶらぶらするのも楽しい。
目的の寿司店『喜作』への行き方を下見しておいた。
そのおかげで、午後6時ごろ、ひざ・体調が悪い妻を連れまわすという失態をすることもなく『喜作』に到着できた。
妻が見つけてくれた「大東島漬け寿司」は評判どおりの「しっかりと味がしみこんだ漬け寿司」であった。普通よりもスリムな形=細長い形のにぎり寿司だった。マグロとサワラを秘伝のタレで漬け込んで、それをにぎり寿司(2種類のみ)にしていた。醤油やわさびは一切つけずに、そのままいただいた。
「秘伝のタレ」がまねできない味を出していた。(これが大東島の漬け寿司なんだ! うまい!)
『喜作』店主は、南大東島出身の方であった。
次から次へと、客が入ってきていた。リピーターがほとんどらしく、繁盛している店だと感じた。
「おいしかったです。ありがとうございました。」と、妻ともどもお礼を言って店を出た。
「思い出に残る郷土料理」の一つになった。(12月14日食)
今まで「遥か南の島=大東島」であったが、「大東寿司」を食したことによって、「親しみを感じる島」になった。そういう親しみもあるものです。
妻が一年ほど前にある雑誌から切り抜いて大切にしてくれていた「お店情報」だった。ぜひ行ってみたい店だと思ったので、必死で探しまわった。昼間、私一人で探した。探し当てた時間には、店は閉まっていた。こういう店は夕方からの営業であることが多い。
冬至が近づき、日没も早くなってきた。初めて行く店を暗くなってから探すと見つけにくい。那覇市内中心部は飲食店や居酒屋が無茶苦茶多い。
スマホを持って探せば簡単かもしれないが、私はスマホを持っていない。あくまでも「地図」が頼り。地図を頼りに「行くべきところ」にたどり着くことは、(夜は結構)難しい。今まで失敗を何度もしてきている。昼間に「目的の店」を下見しておくことが、「迷わない方法」である。
(東海道歩き旅でも明るい時間帯に目的のホテルに到着するようにしている。暗い時間にホテルを探しまわって、何度も苦労している。夜になると、地図そのものが見にくい。やっぱりスマホの時代ですかね? いや、もう少しガラケーでがんばるぞ!)
時間がたっぷりある者(私)にとって、ぶらぶらするのも楽しい。
目的の寿司店『喜作』への行き方を下見しておいた。
そのおかげで、午後6時ごろ、ひざ・体調が悪い妻を連れまわすという失態をすることもなく『喜作』に到着できた。
妻が見つけてくれた「大東島漬け寿司」は評判どおりの「しっかりと味がしみこんだ漬け寿司」であった。普通よりもスリムな形=細長い形のにぎり寿司だった。マグロとサワラを秘伝のタレで漬け込んで、それをにぎり寿司(2種類のみ)にしていた。醤油やわさびは一切つけずに、そのままいただいた。
「秘伝のタレ」がまねできない味を出していた。(これが大東島の漬け寿司なんだ! うまい!)
『喜作』店主は、南大東島出身の方であった。
次から次へと、客が入ってきていた。リピーターがほとんどらしく、繁盛している店だと感じた。
「おいしかったです。ありがとうございました。」と、妻ともどもお礼を言って店を出た。
「思い出に残る郷土料理」の一つになった。(12月14日食)
今まで「遥か南の島=大東島」であったが、「大東寿司」を食したことによって、「親しみを感じる島」になった。そういう親しみもあるものです。
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3

2016/12/14
「那覇でショートステイ」 旅行記録
11日から那覇市内でショートステイしている。
那覇周辺でのショートステイは3回目になるだろうか? 沖縄本島における観光地は(過去に)ほとんど見て回っている。「観光地」というところ、(一般的に)繰り返し訪れたくなる場所は少ないものですね。
岬が好きで、北端の辺戸岬(へどみさき)や南端の喜屋武岬(きゃんみさき)にも行ったことがある。一度訪れたことがあるので、今回の旅行では「どうしてももう一度訪れたい」という場所ではない。首里城や金城石畳道もすでに2度以上行っているので・・・。今回、足が向きそうではない。
「それで、どうして沖縄へ出かけたの?」と質問されそうだが・・・。
まあ一言で言えば、「気分転換」のためでしょうか? それと、冬の沖縄は暖かい。暖かさが血圧や血流には良いらしい。「脳梗塞再発防止にもなるかな?」と、個人的には思っている。短期間では効果はないだろうが・・・。
ぶらぶら散歩したり、レンタカーを借りて魚市場に出かけたり、まだ行ったことがない城跡へいってみたり・・・。(勝連城跡は今まで二度行っています。この城跡は魅力的ですが、二度で満足しました。) 市場やスーパーマーケットで「沖縄らしきもの」を探してみるのも楽しみです。これといった目的もなく、のんびりと過ごしています。
那覇市内にも(私が気に入っている)ジュンク堂書店がありました。昨日(12月13日)はその書店で、本の立ち読みじゃなくて「椅子に座り読み」をして長時間過ごしていました。ジュンク堂は(大阪でもそうなのだが)椅子を用意してくれている。那覇のジュンク堂も椅子がたくさんあった。大きなビルの1階・2階・3階がジュンク堂でした。(4階が100円ショップのダイソー。)
沖縄に関する本などがものすごく多く並んでいた。図書館にいるような気分になりましたね。新しい本ばかりなので、浮き浮きしながら過ごしていました。
那覇周辺でのショートステイは3回目になるだろうか? 沖縄本島における観光地は(過去に)ほとんど見て回っている。「観光地」というところ、(一般的に)繰り返し訪れたくなる場所は少ないものですね。
岬が好きで、北端の辺戸岬(へどみさき)や南端の喜屋武岬(きゃんみさき)にも行ったことがある。一度訪れたことがあるので、今回の旅行では「どうしてももう一度訪れたい」という場所ではない。首里城や金城石畳道もすでに2度以上行っているので・・・。今回、足が向きそうではない。
「それで、どうして沖縄へ出かけたの?」と質問されそうだが・・・。
まあ一言で言えば、「気分転換」のためでしょうか? それと、冬の沖縄は暖かい。暖かさが血圧や血流には良いらしい。「脳梗塞再発防止にもなるかな?」と、個人的には思っている。短期間では効果はないだろうが・・・。
ぶらぶら散歩したり、レンタカーを借りて魚市場に出かけたり、まだ行ったことがない城跡へいってみたり・・・。(勝連城跡は今まで二度行っています。この城跡は魅力的ですが、二度で満足しました。) 市場やスーパーマーケットで「沖縄らしきもの」を探してみるのも楽しみです。これといった目的もなく、のんびりと過ごしています。
那覇市内にも(私が気に入っている)ジュンク堂書店がありました。昨日(12月13日)はその書店で、本の立ち読みじゃなくて「椅子に座り読み」をして長時間過ごしていました。ジュンク堂は(大阪でもそうなのだが)椅子を用意してくれている。那覇のジュンク堂も椅子がたくさんあった。大きなビルの1階・2階・3階がジュンク堂でした。(4階が100円ショップのダイソー。)
沖縄に関する本などがものすごく多く並んでいた。図書館にいるような気分になりましたね。新しい本ばかりなので、浮き浮きしながら過ごしていました。
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2

2016/6/4
「襟裳岬への旅」 旅行記録
(帯広のビジネスホテルのパソコンで記入したものを再録)
5月31日は旭川市近くの「塩狩峠」へ行くことができた。明治42年、この峠での列車事故(一部車両離脱による逆走行)を乗客の一人が体を線路に投げ出して(ブレーキとなり)止めた。その人のとっさの判断・行動のおかげで、列車は脱線しないで、大惨事にならなかった。しかし、その人は帰らぬ人となった。命と引き換えに多くの人の命を救ったのだ。そんな行動をとった人がいたのだ。その「塩狩峠」。その峠にあるJR塩狩駅(=現在も使われている。無人駅だが。)を初めて訪れた。この事故・自己犠牲の人を描いた作品が、三浦綾子氏の『塩狩峠』である。名作である。実際の塩狩峠を訪れることができて、「もう一度読み直してみよう!」と強く思った。帰宅したら、読みなおすぞ!
小説の舞台を旅することは、意義あることだなあ・・・。
以上、6月1日 帯広市のビジネスホテルのパソコン利用で、記述した文章です。
ここからは帰宅後、自宅にて記述。
昨夜(6月3日)、新千歳空港より無事に帰宅しました。関空まで1時間ほどで行くことができる住民(私もその一人)にとって、格安航空便が適度に利用できるので、大助かりです。今回の飛行機代(関空・新千歳空港往復)は妻と二人で約2万円でした。片道一人約5000円でした。(格安航空会社といえども、夏休み期間はこの4倍はするでしょうが・・・。) 格安航空会社でなければ、片道一人4万円ほどかかりますので、年金生活者にはきつい交通費です。格安航空のおかげで経済的に旅ができています。感謝。
お金の話はさておいて。
今回、念願の「襟裳岬」を行くことができて、たいへん感激・満足しました。
襟裳岬突端部まで、ゆっくりゆっくり存分に味わいながら、行ってきました。
岬・灯台へは駐車場から遠いところが多く、襟裳岬「突端部」へは私一人だけの行動になりました。
襟裳岬の展望所は断崖絶壁の上にあり、灯台もすぐ近くにあった。襟裳岬展望所は『風の館』という建物(地下建物)の屋外部にあり、屋内部は絶壁部分がガラス張りになっていた。そのガラス張りの部屋には望遠鏡が設置され、襟裳岬突端部およびその先に連なる岩の列を見ることができた。また、突端部岩礁部分に群がっている海鳥やアザラシの様子を観察できるようになっていた。設置されている望遠鏡を覗いて、岩の上に寝そべっているアザラシにピントを合わせてみた。
(おっ、いるいる! 実際に見えるんだ!)
よーく見ると、あっちにもこっちにも・・・。
(フーン、こんなにたくさんいるんだ・・・)
『風の館』を出てから、お腹がすいていたので昼食をとった。昼食後、一人で突端部へ行ってみた。なだらかな階段を下りて突端部への遊歩道を歩いていった。約10分ほどで突端部に到着した。さらに下っていける道があったので、突端部より先まで行ってみた。
(岬好きな男にとって、行けるところまで行ってみたいものだ。)
これ以上は行けそうではない崖の下を覗くと、一人の男が海の中で作業をしていた。昆布の収穫をしていたのだ。「日高昆布」の収穫であった。
襟裳岬の最先端まで、今日は来ることができた。
最先端から見たものは、「海鳥」「アザラシ」「昆布漁の男一人」。
日高山脈は襟裳岬で終わり、その先は岩の連なりとなって、「太平洋へ潜り込むように」続いている。その景色は圧巻であった。
一年で110日以上は霧が発生する岬である。年間で、約3分の1は「霧の岬」なのだ。今回、旅行前の天気予報でも、北海道・日高地方の「週間天気予報」において、5月31日・6月1日ともに「曇り時々雨」であった。
(天気予報が当たる確率は高いしなあ・・・6月1日は雨らしい・・・。ウーン、困った。) と、悩んだ。
3泊4日の計画のコースを逆に回ってみようか・・・と、考えた。飛行機は変更できないチケットを購入していた。晴れた日に襟裳岬を見ることができる方法として、最初の計画コースとは逆のコースにした。急な変更だったので、ホテルが取れるかどうか・・・と迷ったが、ホテルに電話を入れてみたら、OKだったので、逆コースに変えたのだった。
つまり、最初の予定は「新千歳 → 日高方面(一泊目) → 襟裳岬 → 帯広(2泊目) → 旭川(3泊目) → 新千歳」というコースであった。
週間天気予報を頼りに、逆コースにしたしだいである。
そこで、新千歳から、まず旭川を目指すことにした。
一日目の行程で時間的に余裕が出てきたので、三浦綾子氏の代表作の一つ『塩狩峠』の舞台、「塩狩峠」に行ってみたくなった。まだ、行っていないところだったから。
ちなみに、旭川といえば、旅行ガイド本によると、動物園が有名である。何年か前に行ったことがあり、「2回も行って見たい場所」ではなかった。動物園として、「演出のうまい、楽しく見せる」園ではあったが、動物の数は少ない。天王寺動物園のほうが規模・動物数ともに上回っている。私は、天王寺動物園のほうが魅力的だと思っている。ただし、演出は旭山動物園のほうがうまい。
旅行コースを逆にしたおかげで、旅行3日目(6月2日)は、「晴」でした。逆コース作戦が見事に成功。襟裳岬は突端も含め、すばらしい眺めを見ることができました。
岬の先端にて、ジーンとしたものを感じることができました。
襟裳岬(神威岬同様に)最高でした!

旭川市の北、約30km付近に塩狩峠がある。

塩狩駅 宗谷本線の無人駅。特急は止まらない。

下りホームが見えている。この峠付近で、明治42年、列車の最後部車両がはずれて逆送し始める事故があった。命を投げ出して、大惨事になるのを食い止めた男(鉄道員)がいた。その人の碑がこの駅の近くに建てられていた。

『三浦綾子記念文学館』で、夫の「三浦光世展・ほほ笑みの向こう側」が展示されている。この展示を見ることが、妻の第一希望であった。私も楽しみにしていた。こんなにすばらしい人が三浦綾子文学を支えていたことがよくわかった。「文学記念館」は、全国的に時代の変化につれて運営が難しくなるようである。赤字の文学記念館が多い。しかし、『三浦綾子文学記念館』の運営は、ボランティアの人たちによってなりたっているそうである。多くの旭川市民たちがボランティア活動をしておられた。たぶん赤字になることのない「文学記念館」であろう。

三浦綾子文学記念館周辺の「樹木種見本林」
この樹木種見本林は、代表作『氷点』の舞台である。『氷点』は1000万円懸賞小説になった。当時としては、文学賞としては法外な賞金で、世の中を驚かせた作品でもあった。当時の1000万円は、現在の2億円ぐらいであろうか? もっとも、税金を45%も取られ、実際に手にしたのは550万円ぐらいだったようである。ちなみに、芥川賞は30万円の時代であった。1000万円を贈られた『氷点』は、私も2回ほど読んでいる。さすがに名作である。
まだ読んでおられない方には、お薦めしたい小説です。今では、「古い作品」になっているかもしれませんが、『塩狩峠』同様、ぜひ読んでいただきたい。

見本林が連なっている。

帯広から(襟裳岬方面へ)広尾線が走っていた。今は廃線になり、「愛国駅」「幸福駅」はない。愛国駅は記念館として保存されていた。昔は、この駅発売の「幸福駅行き切符」が大ブームとなり、観光客が押し寄せていた。テレビの宣伝などでも繰り返し取り上げられていた。愛国駅から幸福駅へ・・・という切符を手に入れえることで、幸せな気分になったようである。私は、今回が初めての訪問。「若い頃を思い出すなあ・・・」と、独り言。

愛国駅構内展示 数々の切符が壁に貼り付けてあった。

帯広→広尾へ 広尾から襟裳岬への道路は(江戸時代からずっと)難工事の場所であった。明治、大正、昭和の時代へ難工事の連続であった。道路工事費用は、「道路に黄金を敷くぐらいかかった」ということから、「黄金道路」と名付けられたそうである。江戸時代から、道路を作りにくい地形だったようである。日高山脈が海にたどり着く地点が、襟裳岬である。寒流と暖流とが襟裳岬地点でぶつかり合い、霧が発生しやすい。そのうえ、風速10メートル以上の風が年中吹いている。住んでいる人も少ない。
「襟裳の春は、何もない春です・・・」と、森進一が歌い、大ヒット。まさに、何もない岬であった。

襟裳岬 「風の館」 この館は襟裳岬の断崖に建てられていた。海に面した部屋はガラス張りで、屋上は展望所であった。「襟裳岬」の表示板がある。

「風の館」室内より、岬先端部や連なる岩群が見えた。望遠鏡も設置してあり、海鳥やアザラシの様子が、バッチリ見える。(入場料300円)

襟裳岬灯台 「風の館」の隣 どちらも断崖絶壁の上に立っている。

「襟裳岬」歌の歌詞

襟裳岬突端へ 遊歩道がつけられている

『風の館』屋上=展望所

襟裳岬突端への遊歩道

突端部から先には 岩の連なりが見える。この岩の繋がりが、「日高山脈の終焉=太平洋への潜行」を連想させる。
私なら、「この地で日高山脈が太平洋へ潜行す」と標示板を掲げておくだろう。
実際はごらんのように「襟裳岬突端」と、しょぼい標示板があるだけであった。

突端部から「風の館・ガラス張りの部屋」と灯台がみえた。約70メートルの断崖絶壁である。
5月31日は旭川市近くの「塩狩峠」へ行くことができた。明治42年、この峠での列車事故(一部車両離脱による逆走行)を乗客の一人が体を線路に投げ出して(ブレーキとなり)止めた。その人のとっさの判断・行動のおかげで、列車は脱線しないで、大惨事にならなかった。しかし、その人は帰らぬ人となった。命と引き換えに多くの人の命を救ったのだ。そんな行動をとった人がいたのだ。その「塩狩峠」。その峠にあるJR塩狩駅(=現在も使われている。無人駅だが。)を初めて訪れた。この事故・自己犠牲の人を描いた作品が、三浦綾子氏の『塩狩峠』である。名作である。実際の塩狩峠を訪れることができて、「もう一度読み直してみよう!」と強く思った。帰宅したら、読みなおすぞ!
小説の舞台を旅することは、意義あることだなあ・・・。
以上、6月1日 帯広市のビジネスホテルのパソコン利用で、記述した文章です。
ここからは帰宅後、自宅にて記述。
昨夜(6月3日)、新千歳空港より無事に帰宅しました。関空まで1時間ほどで行くことができる住民(私もその一人)にとって、格安航空便が適度に利用できるので、大助かりです。今回の飛行機代(関空・新千歳空港往復)は妻と二人で約2万円でした。片道一人約5000円でした。(格安航空会社といえども、夏休み期間はこの4倍はするでしょうが・・・。) 格安航空会社でなければ、片道一人4万円ほどかかりますので、年金生活者にはきつい交通費です。格安航空のおかげで経済的に旅ができています。感謝。
お金の話はさておいて。
今回、念願の「襟裳岬」を行くことができて、たいへん感激・満足しました。
襟裳岬突端部まで、ゆっくりゆっくり存分に味わいながら、行ってきました。
岬・灯台へは駐車場から遠いところが多く、襟裳岬「突端部」へは私一人だけの行動になりました。
襟裳岬の展望所は断崖絶壁の上にあり、灯台もすぐ近くにあった。襟裳岬展望所は『風の館』という建物(地下建物)の屋外部にあり、屋内部は絶壁部分がガラス張りになっていた。そのガラス張りの部屋には望遠鏡が設置され、襟裳岬突端部およびその先に連なる岩の列を見ることができた。また、突端部岩礁部分に群がっている海鳥やアザラシの様子を観察できるようになっていた。設置されている望遠鏡を覗いて、岩の上に寝そべっているアザラシにピントを合わせてみた。
(おっ、いるいる! 実際に見えるんだ!)
よーく見ると、あっちにもこっちにも・・・。
(フーン、こんなにたくさんいるんだ・・・)
『風の館』を出てから、お腹がすいていたので昼食をとった。昼食後、一人で突端部へ行ってみた。なだらかな階段を下りて突端部への遊歩道を歩いていった。約10分ほどで突端部に到着した。さらに下っていける道があったので、突端部より先まで行ってみた。
(岬好きな男にとって、行けるところまで行ってみたいものだ。)
これ以上は行けそうではない崖の下を覗くと、一人の男が海の中で作業をしていた。昆布の収穫をしていたのだ。「日高昆布」の収穫であった。
襟裳岬の最先端まで、今日は来ることができた。
最先端から見たものは、「海鳥」「アザラシ」「昆布漁の男一人」。
日高山脈は襟裳岬で終わり、その先は岩の連なりとなって、「太平洋へ潜り込むように」続いている。その景色は圧巻であった。
一年で110日以上は霧が発生する岬である。年間で、約3分の1は「霧の岬」なのだ。今回、旅行前の天気予報でも、北海道・日高地方の「週間天気予報」において、5月31日・6月1日ともに「曇り時々雨」であった。
(天気予報が当たる確率は高いしなあ・・・6月1日は雨らしい・・・。ウーン、困った。) と、悩んだ。
3泊4日の計画のコースを逆に回ってみようか・・・と、考えた。飛行機は変更できないチケットを購入していた。晴れた日に襟裳岬を見ることができる方法として、最初の計画コースとは逆のコースにした。急な変更だったので、ホテルが取れるかどうか・・・と迷ったが、ホテルに電話を入れてみたら、OKだったので、逆コースに変えたのだった。
つまり、最初の予定は「新千歳 → 日高方面(一泊目) → 襟裳岬 → 帯広(2泊目) → 旭川(3泊目) → 新千歳」というコースであった。
週間天気予報を頼りに、逆コースにしたしだいである。
そこで、新千歳から、まず旭川を目指すことにした。
一日目の行程で時間的に余裕が出てきたので、三浦綾子氏の代表作の一つ『塩狩峠』の舞台、「塩狩峠」に行ってみたくなった。まだ、行っていないところだったから。
ちなみに、旭川といえば、旅行ガイド本によると、動物園が有名である。何年か前に行ったことがあり、「2回も行って見たい場所」ではなかった。動物園として、「演出のうまい、楽しく見せる」園ではあったが、動物の数は少ない。天王寺動物園のほうが規模・動物数ともに上回っている。私は、天王寺動物園のほうが魅力的だと思っている。ただし、演出は旭山動物園のほうがうまい。
旅行コースを逆にしたおかげで、旅行3日目(6月2日)は、「晴」でした。逆コース作戦が見事に成功。襟裳岬は突端も含め、すばらしい眺めを見ることができました。
岬の先端にて、ジーンとしたものを感じることができました。
襟裳岬(神威岬同様に)最高でした!

旭川市の北、約30km付近に塩狩峠がある。

塩狩駅 宗谷本線の無人駅。特急は止まらない。

下りホームが見えている。この峠付近で、明治42年、列車の最後部車両がはずれて逆送し始める事故があった。命を投げ出して、大惨事になるのを食い止めた男(鉄道員)がいた。その人の碑がこの駅の近くに建てられていた。

『三浦綾子記念文学館』で、夫の「三浦光世展・ほほ笑みの向こう側」が展示されている。この展示を見ることが、妻の第一希望であった。私も楽しみにしていた。こんなにすばらしい人が三浦綾子文学を支えていたことがよくわかった。「文学記念館」は、全国的に時代の変化につれて運営が難しくなるようである。赤字の文学記念館が多い。しかし、『三浦綾子文学記念館』の運営は、ボランティアの人たちによってなりたっているそうである。多くの旭川市民たちがボランティア活動をしておられた。たぶん赤字になることのない「文学記念館」であろう。

三浦綾子文学記念館周辺の「樹木種見本林」
この樹木種見本林は、代表作『氷点』の舞台である。『氷点』は1000万円懸賞小説になった。当時としては、文学賞としては法外な賞金で、世の中を驚かせた作品でもあった。当時の1000万円は、現在の2億円ぐらいであろうか? もっとも、税金を45%も取られ、実際に手にしたのは550万円ぐらいだったようである。ちなみに、芥川賞は30万円の時代であった。1000万円を贈られた『氷点』は、私も2回ほど読んでいる。さすがに名作である。
まだ読んでおられない方には、お薦めしたい小説です。今では、「古い作品」になっているかもしれませんが、『塩狩峠』同様、ぜひ読んでいただきたい。

見本林が連なっている。

帯広から(襟裳岬方面へ)広尾線が走っていた。今は廃線になり、「愛国駅」「幸福駅」はない。愛国駅は記念館として保存されていた。昔は、この駅発売の「幸福駅行き切符」が大ブームとなり、観光客が押し寄せていた。テレビの宣伝などでも繰り返し取り上げられていた。愛国駅から幸福駅へ・・・という切符を手に入れえることで、幸せな気分になったようである。私は、今回が初めての訪問。「若い頃を思い出すなあ・・・」と、独り言。

愛国駅構内展示 数々の切符が壁に貼り付けてあった。

帯広→広尾へ 広尾から襟裳岬への道路は(江戸時代からずっと)難工事の場所であった。明治、大正、昭和の時代へ難工事の連続であった。道路工事費用は、「道路に黄金を敷くぐらいかかった」ということから、「黄金道路」と名付けられたそうである。江戸時代から、道路を作りにくい地形だったようである。日高山脈が海にたどり着く地点が、襟裳岬である。寒流と暖流とが襟裳岬地点でぶつかり合い、霧が発生しやすい。そのうえ、風速10メートル以上の風が年中吹いている。住んでいる人も少ない。
「襟裳の春は、何もない春です・・・」と、森進一が歌い、大ヒット。まさに、何もない岬であった。

襟裳岬 「風の館」 この館は襟裳岬の断崖に建てられていた。海に面した部屋はガラス張りで、屋上は展望所であった。「襟裳岬」の表示板がある。

「風の館」室内より、岬先端部や連なる岩群が見えた。望遠鏡も設置してあり、海鳥やアザラシの様子が、バッチリ見える。(入場料300円)

襟裳岬灯台 「風の館」の隣 どちらも断崖絶壁の上に立っている。

「襟裳岬」歌の歌詞

襟裳岬突端へ 遊歩道がつけられている

『風の館』屋上=展望所

襟裳岬突端への遊歩道

突端部から先には 岩の連なりが見える。この岩の繋がりが、「日高山脈の終焉=太平洋への潜行」を連想させる。
私なら、「この地で日高山脈が太平洋へ潜行す」と標示板を掲げておくだろう。
実際はごらんのように「襟裳岬突端」と、しょぼい標示板があるだけであった。

突端部から「風の館・ガラス張りの部屋」と灯台がみえた。約70メートルの断崖絶壁である。
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2016/5/8
「島尾敏雄と加計呂麻島」 旅行記録
島尾敏雄氏について考えること。
島尾敏雄氏は1917年(大正6年)神奈川県生まれの小説家である。1986年(昭和61年)鹿児島で亡くなった。私の好きな小説家・椎名麟三氏と同時代に活躍した人で、戦後文学を代表する作家の一人である。
島尾敏雄氏の代表作として『死の棘(とげ)』がある。この作品は読むのに疲れるが、ひきこまれていく。人間の心の複雑さや苦しさ、夫婦関係の重みなどを意識させられる作品である。
若い人はほとんど知らない作家だろうから、島尾敏雄氏について、少し経歴を紹介しておこう。
1943年(太平洋戦争の終戦は1945年)学徒出陣のため在学中だった九州帝国大学(現・九州大学)を繰り上げ卒業。海軍予備学生となり、その後1944年「魚雷艇・特攻隊隊長」として奄美群島・加計呂麻島に駐屯。特攻隊指揮官として出撃命令を受けた2日後、終戦となった。(魚雷艇による)特攻出撃の待機していたが、とうとう出発は訪れなかった。その緊張・苦しみ・戦争体験が多くの(初期)小説の題材になっている。
一方、この島で出会った「長田ミホ」さんと恋愛、後に(1946年)この恋人と結婚した。
終戦後は、神戸や東京で教職に就きながら、執筆活動を行っている。しかし、島尾自身の不貞が原因で、妻ミホは心が病んでしまった。心が病んで(心因性疾患)しまったミホとの交渉を描いた『死の棘』で数々の文学賞が与えられている。島尾敏雄文学の代表作でもある。
転居の多い作家であったが、最期は鹿児島県で亡くなった。69歳。
島尾敏雄没後、2歳年下の妻ミホは亡くなる(87歳で死去)まで喪服姿のままで過ごしたとのことである。
(この続きは後日に)
島尾敏雄氏は1917年(大正6年)神奈川県生まれの小説家である。1986年(昭和61年)鹿児島で亡くなった。私の好きな小説家・椎名麟三氏と同時代に活躍した人で、戦後文学を代表する作家の一人である。
島尾敏雄氏の代表作として『死の棘(とげ)』がある。この作品は読むのに疲れるが、ひきこまれていく。人間の心の複雑さや苦しさ、夫婦関係の重みなどを意識させられる作品である。
若い人はほとんど知らない作家だろうから、島尾敏雄氏について、少し経歴を紹介しておこう。
1943年(太平洋戦争の終戦は1945年)学徒出陣のため在学中だった九州帝国大学(現・九州大学)を繰り上げ卒業。海軍予備学生となり、その後1944年「魚雷艇・特攻隊隊長」として奄美群島・加計呂麻島に駐屯。特攻隊指揮官として出撃命令を受けた2日後、終戦となった。(魚雷艇による)特攻出撃の待機していたが、とうとう出発は訪れなかった。その緊張・苦しみ・戦争体験が多くの(初期)小説の題材になっている。
一方、この島で出会った「長田ミホ」さんと恋愛、後に(1946年)この恋人と結婚した。
終戦後は、神戸や東京で教職に就きながら、執筆活動を行っている。しかし、島尾自身の不貞が原因で、妻ミホは心が病んでしまった。心が病んで(心因性疾患)しまったミホとの交渉を描いた『死の棘』で数々の文学賞が与えられている。島尾敏雄文学の代表作でもある。
転居の多い作家であったが、最期は鹿児島県で亡くなった。69歳。
島尾敏雄没後、2歳年下の妻ミホは亡くなる(87歳で死去)まで喪服姿のままで過ごしたとのことである。
(この続きは後日に)