2016/3/17
「歩き旅・ちょっと寄り道して」 旅行記録
3月15日~17日、東海道歩き旅に行ってました。今日帰ってきました。
今回は東海道のコースから少し離れたところに架かっている「世界一長い(897メートルの)木道の橋=蓬莱橋(ほうらいばし)」を訪れ、実際に歩いて往復しました。往復するだけで、約40分かかりました。流石に、世界一の長さなので、時間がかかりました。
こんなすごい木の橋が、まだ日本にあったんだなあ、と感心しました。昔、映画で一度見たことのある橋だったんですが、大井川に架かっている橋だとは知りませんでした。
今回の歩き旅は、島田宿からのスタートだったので、ラッキーだと思い、寄り道したしだいです。
一目見て、感動して、写真を撮りまくって・・・。腹ばいになって撮ったり・・・。
「オドロキ、モモノキ、サンショノキ」でしたね。そういえば、フーテンの寅さんの映画にもこの橋がでてきた場面がありましたね。かなり、昔の映画になりましたが・・・。
奄美旅行や東海道53次歩き旅の記録(まとめ)をしていないのに、とりあえず「蓬莱橋」を紹介したくなりました。旅行の記録は後日に。
今回は東海道のコースから少し離れたところに架かっている「世界一長い(897メートルの)木道の橋=蓬莱橋(ほうらいばし)」を訪れ、実際に歩いて往復しました。往復するだけで、約40分かかりました。流石に、世界一の長さなので、時間がかかりました。
こんなすごい木の橋が、まだ日本にあったんだなあ、と感心しました。昔、映画で一度見たことのある橋だったんですが、大井川に架かっている橋だとは知りませんでした。
今回の歩き旅は、島田宿からのスタートだったので、ラッキーだと思い、寄り道したしだいです。
一目見て、感動して、写真を撮りまくって・・・。腹ばいになって撮ったり・・・。
「オドロキ、モモノキ、サンショノキ」でしたね。そういえば、フーテンの寅さんの映画にもこの橋がでてきた場面がありましたね。かなり、昔の映画になりましたが・・・。
奄美旅行や東海道53次歩き旅の記録(まとめ)をしていないのに、とりあえず「蓬莱橋」を紹介したくなりました。旅行の記録は後日に。
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2016/3/14
「加計呂麻島で考えたこと」 旅行記録
島尾敏雄氏は、第2次世界大戦末期の昭和19年(1944年)11月、この(奄美群島)加計呂麻島・呑之浦基地に特攻部隊の隊長として赴任している。
島尾敏雄氏の小説『死の棘』を深く味わうためにも、加計呂麻島へ死ぬまでに一度は訪れたいと思っていた。その思いが実現した。
「やはり、この島に来てよかったなあ!」と、心が震えた。
特攻部隊(魚雷艇)基地があった島とは思えない島。呑之浦周辺は人が住んでいた気配はなかった。静かな入り江だけの自然環境。しかし、この島のさらに南には「激戦地・沖縄」がある。鹿児島県・知覧基地からは多くの特攻機が出撃して、多くの若者たちは命を落としているのだ。加計呂麻島も知覧と同じ鹿児島県なのだ。
飛行機による特攻部隊があったように、魚雷艇の特攻部隊もあった。その特攻基地のひとつが、加計呂麻島にも存在したのだ。(私は今まで知らなかった・・・。)
小説『死の棘』を読むだけでは、その歴史への関心は少なかった私。今回の旅で、加計呂麻島への関心を深めることができた。
島尾敏雄文学碑が、この島の「呑之浦(のみのうら)」という静かな入り江に建てられている理由も分かった。ここで島尾敏雄氏は特攻魚雷艇隊長として「終戦」を迎えている。
何もない島、自然豊かな島・・・、しかし「特攻基地」のあった島。
死を覚悟して、出撃命令を待っていた彼。しかし、出撃の最終準備を終えて出撃しようと構えていたのに・・・戦争は終わってしまった。出撃しないまま「生き残った」。その苦脳とは・・・。
彼の小説群をさらに読んでみたくなった。
(この続きは、後日に。 気候が良くなってきましたので、急遽、明日から「東海道歩き旅」に出かけることにしました。明日、早朝5時には起床しますので、ブログはしばらく中断します。青春18切符を利用できる期間が限定されていますので、タイミングよく歩き旅をしようと思っています。雨も今日やみましたので。畑作業・夫婦での旅・ボランティア活動・東海道一人歩き旅と、3月は忙しくなりました。)
静かな入り江 「呑之浦」近辺 建物は何もなかった。
島尾敏雄氏の小説『死の棘』を深く味わうためにも、加計呂麻島へ死ぬまでに一度は訪れたいと思っていた。その思いが実現した。
「やはり、この島に来てよかったなあ!」と、心が震えた。
特攻部隊(魚雷艇)基地があった島とは思えない島。呑之浦周辺は人が住んでいた気配はなかった。静かな入り江だけの自然環境。しかし、この島のさらに南には「激戦地・沖縄」がある。鹿児島県・知覧基地からは多くの特攻機が出撃して、多くの若者たちは命を落としているのだ。加計呂麻島も知覧と同じ鹿児島県なのだ。
飛行機による特攻部隊があったように、魚雷艇の特攻部隊もあった。その特攻基地のひとつが、加計呂麻島にも存在したのだ。(私は今まで知らなかった・・・。)
小説『死の棘』を読むだけでは、その歴史への関心は少なかった私。今回の旅で、加計呂麻島への関心を深めることができた。
島尾敏雄文学碑が、この島の「呑之浦(のみのうら)」という静かな入り江に建てられている理由も分かった。ここで島尾敏雄氏は特攻魚雷艇隊長として「終戦」を迎えている。
何もない島、自然豊かな島・・・、しかし「特攻基地」のあった島。
死を覚悟して、出撃命令を待っていた彼。しかし、出撃の最終準備を終えて出撃しようと構えていたのに・・・戦争は終わってしまった。出撃しないまま「生き残った」。その苦脳とは・・・。
彼の小説群をさらに読んでみたくなった。
(この続きは、後日に。 気候が良くなってきましたので、急遽、明日から「東海道歩き旅」に出かけることにしました。明日、早朝5時には起床しますので、ブログはしばらく中断します。青春18切符を利用できる期間が限定されていますので、タイミングよく歩き旅をしようと思っています。雨も今日やみましたので。畑作業・夫婦での旅・ボランティア活動・東海道一人歩き旅と、3月は忙しくなりました。)
静かな入り江 「呑之浦」近辺 建物は何もなかった。
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2016/3/7
「加計呂麻島へ」 旅行記録
3月6日(日)に神戸空港から鹿児島空港へ。スカイラークという格安航空を利用した。ピーチ利用で鹿児島へ行くことを検討したが、午後6時に鹿児島港を出港する奄美大島経由沖縄行きフェリーに乗れないので、断念。神戸空港発鹿児島空港行きのスカイラークなら、沖縄行きフェリーに間に合うことがわかったので、そちらを選択した。
というわけで、今回は、スカイラーク利用となった。難点は、我が家から神戸空港までは「時間がかかる」かつ「空港までの交通費が高くつく」ということ。だから、神戸空港は利用しにくいので、避けることが多い。
奄美大島旅行において、体が一番楽なのは、往復とも直行便のJALを利用することであるが・・・。大阪(伊丹)から奄美大島への便は、あまり割引がない。ちなみに、ANAや格安航空は飛んでいない航空路。
日本の空港で、競争相手が多い航空路は、割引率が大きい。格安便のある航空路なら、ANA・JALともに割引合戦をし始めている気配である。早期購入なら、JALもANAもかなり安くなったようです。それでも、当日や前日のチケットを購入すると、無茶苦茶高い。(私のように資産を持っていない)年金生活者には、手を出しにくい価格である。
神戸空港 → 鹿児島空港 → (フェリー利用・船中泊)奄美大島
奄美大島(名瀬港)に到着したのは、7日(月)午前5時。午前4時に下船準備のアナウンスが船内に流れ、起こされた。ゆっくり寝ていられなかった。
港には、宿泊予定ホテルの車が迎えてくれていた。午前5時に迎えてくれ、ホテルに入ることができた。まだ真っ暗な状態の早朝。
奄美大島のホテル勤務の方々やタクシードライバーの方々、ほんとうにご苦労様。
一年中、鹿児島からの長距離フェリー(沖縄行き)便の名瀬港到着時刻は、午前5時とのこと・・・。名瀬港は午前4時半ごろから、ごった返す日々らしい。今日もごった返していた。年末年始やお盆休みの頃はもっと大変らしい。「各家庭の車」・「ホテルの車」・「タクシー」などが名瀬港に集中することになる。大型フェリーなので、降りてくる人も多い。
「飛行機の時代」とはいえ、まだまだ「フェリー利用」に頼っている人々(特に離島の人々)は多いようである。
今回、奄美大島へフェリーを利用して行く経験をしたおかげで、超早朝に躍動する「港の世界」を知る機会になった。(皆さん、身体を壊さないように、がんばってください。)
おかげさまで、早朝にホテルにチェックインすることができました。それにしても、「島でのホテル勤務」もたいへんですね。その仕事内容、つくづく感心しましたよ。
早朝のホテルで、身体を横にして、休憩することができた。そうこうしているうちに、午前8時になり、レンタカー会社のシャッターが開き、営業開始となった。車を借りる手続きを済ませた。
さあ、いよいよ島尾敏雄氏の過ごした島、「加計呂麻島」を目指すことにした。
というわけで、今回は、スカイラーク利用となった。難点は、我が家から神戸空港までは「時間がかかる」かつ「空港までの交通費が高くつく」ということ。だから、神戸空港は利用しにくいので、避けることが多い。
奄美大島旅行において、体が一番楽なのは、往復とも直行便のJALを利用することであるが・・・。大阪(伊丹)から奄美大島への便は、あまり割引がない。ちなみに、ANAや格安航空は飛んでいない航空路。
日本の空港で、競争相手が多い航空路は、割引率が大きい。格安便のある航空路なら、ANA・JALともに割引合戦をし始めている気配である。早期購入なら、JALもANAもかなり安くなったようです。それでも、当日や前日のチケットを購入すると、無茶苦茶高い。(私のように資産を持っていない)年金生活者には、手を出しにくい価格である。
神戸空港 → 鹿児島空港 → (フェリー利用・船中泊)奄美大島
奄美大島(名瀬港)に到着したのは、7日(月)午前5時。午前4時に下船準備のアナウンスが船内に流れ、起こされた。ゆっくり寝ていられなかった。
港には、宿泊予定ホテルの車が迎えてくれていた。午前5時に迎えてくれ、ホテルに入ることができた。まだ真っ暗な状態の早朝。
奄美大島のホテル勤務の方々やタクシードライバーの方々、ほんとうにご苦労様。
一年中、鹿児島からの長距離フェリー(沖縄行き)便の名瀬港到着時刻は、午前5時とのこと・・・。名瀬港は午前4時半ごろから、ごった返す日々らしい。今日もごった返していた。年末年始やお盆休みの頃はもっと大変らしい。「各家庭の車」・「ホテルの車」・「タクシー」などが名瀬港に集中することになる。大型フェリーなので、降りてくる人も多い。
「飛行機の時代」とはいえ、まだまだ「フェリー利用」に頼っている人々(特に離島の人々)は多いようである。
今回、奄美大島へフェリーを利用して行く経験をしたおかげで、超早朝に躍動する「港の世界」を知る機会になった。(皆さん、身体を壊さないように、がんばってください。)
おかげさまで、早朝にホテルにチェックインすることができました。それにしても、「島でのホテル勤務」もたいへんですね。その仕事内容、つくづく感心しましたよ。
早朝のホテルで、身体を横にして、休憩することができた。そうこうしているうちに、午前8時になり、レンタカー会社のシャッターが開き、営業開始となった。車を借りる手続きを済ませた。
さあ、いよいよ島尾敏雄氏の過ごした島、「加計呂麻島」を目指すことにした。
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2015/12/12
「無事帰宅」 旅行記録
10日早朝に出かけた東海道五十三次歩き旅(続き)、12月12日夜10時頃に何事もなく無事に帰ってきました。
昨日は台風並みの風でしたが、飛ばされることなく、風の中を歩き通していました。静岡県・「白須賀宿」周辺を歩いている時が一番風が強く、太平洋に面した海岸線はものすごい白波が押し寄せていました。白須賀宿から新居宿へ行く途中、道を間違えてしまって、地元の人が「東海道はあっちの道だよ」と親切に教えてくれました。おかげで正しい道に短時間で戻ることができました。
地図を見ながらの一人旅なので、時々間違います。昨日は台風並みの強風の中での間違いだったので、ほんとうに地元の人に感謝、感謝の歩き旅になりました。
(この続きはまた明日書きます。今夜は疲れました。何しろ、3日間で63Kmほど歩きましたから。)
*酸虎さん、ご心配をおかけしました。吹き飛ばされずに無事帰宅しています。
昨日は台風並みの風でしたが、飛ばされることなく、風の中を歩き通していました。静岡県・「白須賀宿」周辺を歩いている時が一番風が強く、太平洋に面した海岸線はものすごい白波が押し寄せていました。白須賀宿から新居宿へ行く途中、道を間違えてしまって、地元の人が「東海道はあっちの道だよ」と親切に教えてくれました。おかげで正しい道に短時間で戻ることができました。
地図を見ながらの一人旅なので、時々間違います。昨日は台風並みの強風の中での間違いだったので、ほんとうに地元の人に感謝、感謝の歩き旅になりました。
(この続きはまた明日書きます。今夜は疲れました。何しろ、3日間で63Kmほど歩きましたから。)
*酸虎さん、ご心配をおかけしました。吹き飛ばされずに無事帰宅しています。
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2015/11/9
「竹内街道ウォーク」 旅行記録
11月6日、 日本最古の官道(国道)=竹内(たけのうち)街道の一部を「日帰り歩き旅」をしてきた。観光ボランティアガイド仲間たち(元ガイドも含め合計5人)が集まって、実施できた。有意義に楽しい「歴史街道ウォーク」を経験できました。
元ボランティアガイドのTさんが道案内をしてくださったので、ややこしい道もスムーズに歩くことができました。「昔の街道を歩く」ことは、それなりに難しいものですが、今回はほとんど迷うことなく歩くことができました。
東海道53次歩き旅を実施中の私。地図を見て歩くのですが、間違ってしまうことがしばしば。(京都三条大橋からスタートし、現在「吉田宿」(愛知県豊橋市)近辺に到達しています。青春18切符が使える12月10日以降に、その続きを江戸に向けて進めて行く予定です。)
久しぶりの歩き旅(約13km歩いた)でしたので、足はパンパンになってしまいました。もう少し足を鍛えておこうと反省したしだいです。約20キロぐらいは歩けるだろうと思っていた(自信過剰だった。ところが、足が快復するのに3日もかかってしまいました。
こんな脚力では「東海道53次歩き旅をする脚力はないなあ!」と、実感。
東海道53次歩き旅の(豊橋から続きの)計画は、2泊3日の予定。3日間で、50km以上は歩きたいと思っています。現在の脚力=13km歩くだけで、足がパンパンになっていたのでは、予定通り進めないなぁ!
東海道53次歩き旅でしっかり歩くために、もっと脚力を鍛えようと思いました。
竹内街道歩き旅は、「自分の脚力を知る」機会になりました。
一人旅には一人旅の楽しみ方があるのですが、「みんなで歩く」楽しさは何ともいえませんね。楽しかったです。
みなさん、ありがとうございました。
竹内街道の起点は堺市(大小路)で、終点は奈良県の長尾神社。約29kmの行程。長尾神社からスタートして堺市のほうへ歩いた。途中、当麻寺に寄り道し、周辺を散策した。
電車に乗り、太子町周辺の竹内街道を歩き、「竹内街道歴史資料館」をめざし、到達。
今回、竹内街道の部分を2箇所歩いたことになった。
以前、古市古墳群散策の時に、竹内街道の一部分を歩いている。細切れに、竹内街道を3箇所歩いたことになりました。「竹内街道歴史資料館」周辺の町並みは歴史を感じさせてくれ、すばらしいところでした。
いつの日にか、堺市からスタートして、全行程(29km)を2日間ぐらいで歩き通したいものだと思った。
みなさん、「歴史街道歩き旅」は楽しいですよ!
元ボランティアガイドのTさんが道案内をしてくださったので、ややこしい道もスムーズに歩くことができました。「昔の街道を歩く」ことは、それなりに難しいものですが、今回はほとんど迷うことなく歩くことができました。
東海道53次歩き旅を実施中の私。地図を見て歩くのですが、間違ってしまうことがしばしば。(京都三条大橋からスタートし、現在「吉田宿」(愛知県豊橋市)近辺に到達しています。青春18切符が使える12月10日以降に、その続きを江戸に向けて進めて行く予定です。)
久しぶりの歩き旅(約13km歩いた)でしたので、足はパンパンになってしまいました。もう少し足を鍛えておこうと反省したしだいです。約20キロぐらいは歩けるだろうと思っていた(自信過剰だった。ところが、足が快復するのに3日もかかってしまいました。
こんな脚力では「東海道53次歩き旅をする脚力はないなあ!」と、実感。
東海道53次歩き旅の(豊橋から続きの)計画は、2泊3日の予定。3日間で、50km以上は歩きたいと思っています。現在の脚力=13km歩くだけで、足がパンパンになっていたのでは、予定通り進めないなぁ!
東海道53次歩き旅でしっかり歩くために、もっと脚力を鍛えようと思いました。
竹内街道歩き旅は、「自分の脚力を知る」機会になりました。
一人旅には一人旅の楽しみ方があるのですが、「みんなで歩く」楽しさは何ともいえませんね。楽しかったです。
みなさん、ありがとうございました。
竹内街道の起点は堺市(大小路)で、終点は奈良県の長尾神社。約29kmの行程。長尾神社からスタートして堺市のほうへ歩いた。途中、当麻寺に寄り道し、周辺を散策した。
電車に乗り、太子町周辺の竹内街道を歩き、「竹内街道歴史資料館」をめざし、到達。
今回、竹内街道の部分を2箇所歩いたことになった。
以前、古市古墳群散策の時に、竹内街道の一部分を歩いている。細切れに、竹内街道を3箇所歩いたことになりました。「竹内街道歴史資料館」周辺の町並みは歴史を感じさせてくれ、すばらしいところでした。
いつの日にか、堺市からスタートして、全行程(29km)を2日間ぐらいで歩き通したいものだと思った。
みなさん、「歴史街道歩き旅」は楽しいですよ!
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2015/11/3
「犬山城の階段は急だった!」 旅行記録
11月1日に愛知県犬山市の国宝・犬山城へ行ってきた。
(石川県に住んでいる)息子夫婦と孫に会う機会にもなった。
孫の成長を見ることができてよかった。息子たちと一緒に犬山城天守閣に登ってみたのだが、階段の勾配が急だったので、驚いた。息子の嫁が孫をしっかり抱きしめて登ってくれた。19メートルの高さがある天守閣。無事に登れ、降りてくることができた。私はカバンや(ビニール袋に入れた)靴を持って登るだけで、(たったそれだけでも)一苦労した。
とにかく、今までにいくつかの城の天守閣に登ったことはあったが、今回のこの犬山城天守閣の階段が一番急勾配だった。急勾配に加えて、段差が大きかった。一段一段がそれぞれ60センチほどあった。(測ったわけではないが、とにかく段差が広かった。)その階段を4階建ての天守まで、(4本のはしごを昇るようなイメージで)ジグザグに登っていった。恐ろしく急勾配な階段で、ほぼ垂直に感じるぐらいきつかった。手すりをしっかりつかんでおかなければ踏み外す危険性があった。
苦労しながら無事に私と息子たち(母親に抱きしめられた孫)が登りきって天守をぐるっと回って、そして、降りてこられてほっとした。
一息ついたとき、「これが国宝『犬山城』だったのか!」と、感動した。
孫をしっかり抱きしめて登ってくれた息子の嫁に感謝した。
孫の記憶には残らないであろうが、「国宝の犬山城に、おじいちゃんと一緒に登ったんだ」ということを「心の思い出」にすることができるかもしれない。大きく成長したら、写真を見て「幼い頃に行った所」という認識はできるであろう。
階段のことを考えると、ひざの悪い人は天守閣に入場しないほうがいいだろう。妻は天守閣に入場しないで待機していたのだが、それが「正解」であった。もし入場していたら、ひざが悪化することになったであろう。
とにかく階段が「今までで一番きつい城」だった!
(石川県に住んでいる)息子夫婦と孫に会う機会にもなった。
孫の成長を見ることができてよかった。息子たちと一緒に犬山城天守閣に登ってみたのだが、階段の勾配が急だったので、驚いた。息子の嫁が孫をしっかり抱きしめて登ってくれた。19メートルの高さがある天守閣。無事に登れ、降りてくることができた。私はカバンや(ビニール袋に入れた)靴を持って登るだけで、(たったそれだけでも)一苦労した。
とにかく、今までにいくつかの城の天守閣に登ったことはあったが、今回のこの犬山城天守閣の階段が一番急勾配だった。急勾配に加えて、段差が大きかった。一段一段がそれぞれ60センチほどあった。(測ったわけではないが、とにかく段差が広かった。)その階段を4階建ての天守まで、(4本のはしごを昇るようなイメージで)ジグザグに登っていった。恐ろしく急勾配な階段で、ほぼ垂直に感じるぐらいきつかった。手すりをしっかりつかんでおかなければ踏み外す危険性があった。
苦労しながら無事に私と息子たち(母親に抱きしめられた孫)が登りきって天守をぐるっと回って、そして、降りてこられてほっとした。
一息ついたとき、「これが国宝『犬山城』だったのか!」と、感動した。
孫をしっかり抱きしめて登ってくれた息子の嫁に感謝した。
孫の記憶には残らないであろうが、「国宝の犬山城に、おじいちゃんと一緒に登ったんだ」ということを「心の思い出」にすることができるかもしれない。大きく成長したら、写真を見て「幼い頃に行った所」という認識はできるであろう。
階段のことを考えると、ひざの悪い人は天守閣に入場しないほうがいいだろう。妻は天守閣に入場しないで待機していたのだが、それが「正解」であった。もし入場していたら、ひざが悪化することになったであろう。
とにかく階段が「今までで一番きつい城」だった!
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2015/5/12
「無事帰宅」 旅行記録
昨夜、石垣島は風速50メートル前後の風が吹き荒れていた。
泊まっていた宿の扉などが、強風でガタガタと音を立てていたので、ぐっすりと眠れなかった。しかし、夜中をすぎると静かになった。
猛スピードで石垣島を通過していったらしい。
その猛スピードのおかげで、関空行き飛行機は予定通り飛ぶことになった。(私には)ラッキーだった。
台風6号がゆっくりしていたら、「もう一泊」しなければならなかったようである。午前中、石垣空港から那覇空港への便はすべて欠航となっていた。沖縄本島(那覇市など)は暴風警報発令中であり、本島のバスはすべて運休で、学校や公立病院なども休みになったとのニュースが流れていた。
夜が明けた石垣島は、強い風は吹いてなかった。石垣島民は、普段どおりの生活に戻っていた。まさに、「台風一過」の様子であった。
私は、午前9時過ぎに石垣空港に行ったのだが、静かでひっそりとした空港だなあと思った。
(その原因は) 一日にJAL・ANA合わせて約20便が那覇へ飛んでいるのだが、(午前中の便すべてが)欠航になっていたからである。
石垣から関空への直行便(この便に私は乗る)と羽田への直行便は飛べるということであった。この2便の利用者たちだけの「静かな空港」だったのである。
台風が予想していたよりも早く通過してくれたので、関空に予定通り到着することができた。「せっかちな(?)台風」に感謝した。
関空に無事に到着したとたん、「おっ、涼しい!」。
今夜はクーラーをつけないで眠れるだろう。
「5月の石垣島」はこりごりだ! やっぱり、石垣島は1月か2月だなあ!
さて、いつの日にか、また石垣島へ行きたくなるときがくるのだろうか・・・。
魅力的なところだから・・・3度も訪れたのだろう。
何年か経てば・・・
また・・・
泊まっていた宿の扉などが、強風でガタガタと音を立てていたので、ぐっすりと眠れなかった。しかし、夜中をすぎると静かになった。
猛スピードで石垣島を通過していったらしい。
その猛スピードのおかげで、関空行き飛行機は予定通り飛ぶことになった。(私には)ラッキーだった。
台風6号がゆっくりしていたら、「もう一泊」しなければならなかったようである。午前中、石垣空港から那覇空港への便はすべて欠航となっていた。沖縄本島(那覇市など)は暴風警報発令中であり、本島のバスはすべて運休で、学校や公立病院なども休みになったとのニュースが流れていた。
夜が明けた石垣島は、強い風は吹いてなかった。石垣島民は、普段どおりの生活に戻っていた。まさに、「台風一過」の様子であった。
私は、午前9時過ぎに石垣空港に行ったのだが、静かでひっそりとした空港だなあと思った。
(その原因は) 一日にJAL・ANA合わせて約20便が那覇へ飛んでいるのだが、(午前中の便すべてが)欠航になっていたからである。
石垣から関空への直行便(この便に私は乗る)と羽田への直行便は飛べるということであった。この2便の利用者たちだけの「静かな空港」だったのである。
台風が予想していたよりも早く通過してくれたので、関空に予定通り到着することができた。「せっかちな(?)台風」に感謝した。
関空に無事に到着したとたん、「おっ、涼しい!」。
今夜はクーラーをつけないで眠れるだろう。
「5月の石垣島」はこりごりだ! やっぱり、石垣島は1月か2月だなあ!
さて、いつの日にか、また石垣島へ行きたくなるときがくるのだろうか・・・。
魅力的なところだから・・・3度も訪れたのだろう。
何年か経てば・・・
また・・・
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2015/5/11
「台風接近中・暴風警報発令中」 旅行記録
現在(5月11日午後4時前)石垣島には暴風雨警報が発令されている。5日間滞在しているが、明日帰ることにした。飛行機が予定通り運航してくれることを望んでいるが、予定が変更になってもかまわない。飛行機の安全運行のためなら文句は言えない。たとえ帰阪が一日遅くなっても、かまわない。(仕事をしていると、こういうわけにはいかないだろうが。)
たぶん、台風は今夜のうちに石垣島を通過して、沖縄本島へ向かうだろう。
今夜が石垣島「ラストナイト」になるだろう。とにかく暑い(連日30℃前後)ので、大阪へ帰りたくなった。(大阪の方が朝晩は快適だろうから。)
計画では、過ごしやすい季節だろうと予想して、10泊ぐらいするつもりで来たのだが、5泊で帰ることにした。関空近くホテルの1泊を入れれば、6泊7日の旅行になる。
飛行機が欠航すれば、さらに+1泊になるかも? その一泊分のホテル代は自己負担になる。飛行機会社に問い合わせて確認済み。欠航した飛行機の「代わりの飛行機」の手配は会社がしてくれるとのことである。
とにかく旅行が「5月の台風」にぶつかるとは・・・。予想だにしなかったこと。6号の次の7号台風が発生している。この調子だと、今年は台風が多そうだ。もっとも、本州への上陸は少ないだろうが・・・。
昨日、空港に近い白保(しらほ)という村を訪れた。白保海岸を見てみたかったから。
昔、白保の海を埋め立てて新石垣空港を建設する案があった。30年余り前のことである。
沖縄県・石垣市が「建設する場所はそこ(白保海岸)しかない」と、白保に新空港建設着工案に固執した。
しかし、白保は美しいサンゴの海だった。当然、「美しいサンゴの海を守ろう」という反対運動が起こった。その反対運動に賛成する住民が多数であった。
新空港建設事業が始まっていたが、10年目にして「白保海岸に新空港を建設する案」は変更になった。住民運動(反対運動)が勝利したわけである。
その結果、白保海上案(海を埋め立てる案)が「陸地のみでの建設」という計画になった。住民の意思を無視して、「役人の案」を無理に通そうとした結果、新石垣空港は「大幅に遅れて完成した」のだった。(2年前にやっと完成・開港)
沖縄本島での「辺野古埋め立て」問題も、住民の意思を無視しての「国側のやり方」、決してうまくいかないだろう。
国は「辺野古建設計画」をアメリカに約束した、そのメンツがあるのだろうが、そのメンツよりも「住民の意思」が何よりも大切なのだ。
辺野古での国の動き・姿勢は「住民無視」・「沖縄無視」の姿勢だ。
国と県とは(憲法上)対等なはずなのに、国は「上から目線」の態度を続けている。
がんばれ沖縄県!
沖縄住民の意思が一番だ!
新石垣空港建設での歴史(10年以上にわたる反対運動の歴史)が、そのことを教えてくれている。
辺野古問題は、政府が「住民の意思が第一」というスタート点に立ち返り、(メンツを捨て)アメリカと再度話し合いを持ち、辺野古問題解決策を図ってほしい。
いろいろな思いを抱きつつ「白保海岸」を散策してきた。
おそらく、白保のサンゴは永遠に守られていくことであろう。
自然を破壊することは簡単だが、守ることは難しい。
白保の海を見た後、村を歩いていると、(評判の)ケーキ屋さんがあった。
宿で待っている妻のためにケーキを購入して帰った。元・有名ホテルのパティシエだった方のケーキ。
(宿の戻って、妻と二人で食べたケーキ、おいしかったですね。ひっそりとした白保の村に、こんなおいしいケーキ屋さんがあったとは!)
白保はダイバーたちに人気の場所とのことである。
シュノーケルやダイビングをしない私だが、美しい海は永遠であってほしいものである。
若い頃、「素潜り」は得意だったのですよ。1分ぐらいは潜っていられましたよ。もう、無理ですが・・・。
さて、明日、堺に帰れるかな?
写真右側の緑部分 昔命がけで掘られた井戸(跡)があった。
井戸の説明書きによると、「江戸時代、津波でこの地域は壊滅した」とのことである。壊滅した白保を復興させるために、波照間島の島民を強制移住させた歴史、そんな歴史があったのだ。「へぇー、そうだったのか!」と驚いた。「白保」とあの最南端の島「波照間島」との関係がわかって、「白保一人散策」に思い出を残す結果になった。感謝。
大きな岩が海岸にいくつも・・・。この岩は江戸時代の「津波」がもたらしたもの。
日本列島、どこへ行っても、津波の跡があった。
堺の街も地下を掘れば、津波の跡が(地層となって)深く刻まれている。津波は、恐ろしい!
たぶん、台風は今夜のうちに石垣島を通過して、沖縄本島へ向かうだろう。
今夜が石垣島「ラストナイト」になるだろう。とにかく暑い(連日30℃前後)ので、大阪へ帰りたくなった。(大阪の方が朝晩は快適だろうから。)
計画では、過ごしやすい季節だろうと予想して、10泊ぐらいするつもりで来たのだが、5泊で帰ることにした。関空近くホテルの1泊を入れれば、6泊7日の旅行になる。
飛行機が欠航すれば、さらに+1泊になるかも? その一泊分のホテル代は自己負担になる。飛行機会社に問い合わせて確認済み。欠航した飛行機の「代わりの飛行機」の手配は会社がしてくれるとのことである。
とにかく旅行が「5月の台風」にぶつかるとは・・・。予想だにしなかったこと。6号の次の7号台風が発生している。この調子だと、今年は台風が多そうだ。もっとも、本州への上陸は少ないだろうが・・・。
昨日、空港に近い白保(しらほ)という村を訪れた。白保海岸を見てみたかったから。
昔、白保の海を埋め立てて新石垣空港を建設する案があった。30年余り前のことである。
沖縄県・石垣市が「建設する場所はそこ(白保海岸)しかない」と、白保に新空港建設着工案に固執した。
しかし、白保は美しいサンゴの海だった。当然、「美しいサンゴの海を守ろう」という反対運動が起こった。その反対運動に賛成する住民が多数であった。
新空港建設事業が始まっていたが、10年目にして「白保海岸に新空港を建設する案」は変更になった。住民運動(反対運動)が勝利したわけである。
その結果、白保海上案(海を埋め立てる案)が「陸地のみでの建設」という計画になった。住民の意思を無視して、「役人の案」を無理に通そうとした結果、新石垣空港は「大幅に遅れて完成した」のだった。(2年前にやっと完成・開港)
沖縄本島での「辺野古埋め立て」問題も、住民の意思を無視しての「国側のやり方」、決してうまくいかないだろう。
国は「辺野古建設計画」をアメリカに約束した、そのメンツがあるのだろうが、そのメンツよりも「住民の意思」が何よりも大切なのだ。
辺野古での国の動き・姿勢は「住民無視」・「沖縄無視」の姿勢だ。
国と県とは(憲法上)対等なはずなのに、国は「上から目線」の態度を続けている。
がんばれ沖縄県!
沖縄住民の意思が一番だ!
新石垣空港建設での歴史(10年以上にわたる反対運動の歴史)が、そのことを教えてくれている。
辺野古問題は、政府が「住民の意思が第一」というスタート点に立ち返り、(メンツを捨て)アメリカと再度話し合いを持ち、辺野古問題解決策を図ってほしい。
いろいろな思いを抱きつつ「白保海岸」を散策してきた。
おそらく、白保のサンゴは永遠に守られていくことであろう。
自然を破壊することは簡単だが、守ることは難しい。
白保の海を見た後、村を歩いていると、(評判の)ケーキ屋さんがあった。
宿で待っている妻のためにケーキを購入して帰った。元・有名ホテルのパティシエだった方のケーキ。
(宿の戻って、妻と二人で食べたケーキ、おいしかったですね。ひっそりとした白保の村に、こんなおいしいケーキ屋さんがあったとは!)
白保はダイバーたちに人気の場所とのことである。
シュノーケルやダイビングをしない私だが、美しい海は永遠であってほしいものである。
若い頃、「素潜り」は得意だったのですよ。1分ぐらいは潜っていられましたよ。もう、無理ですが・・・。
さて、明日、堺に帰れるかな?
写真右側の緑部分 昔命がけで掘られた井戸(跡)があった。
井戸の説明書きによると、「江戸時代、津波でこの地域は壊滅した」とのことである。壊滅した白保を復興させるために、波照間島の島民を強制移住させた歴史、そんな歴史があったのだ。「へぇー、そうだったのか!」と驚いた。「白保」とあの最南端の島「波照間島」との関係がわかって、「白保一人散策」に思い出を残す結果になった。感謝。
大きな岩が海岸にいくつも・・・。この岩は江戸時代の「津波」がもたらしたもの。
日本列島、どこへ行っても、津波の跡があった。
堺の街も地下を掘れば、津波の跡が(地層となって)深く刻まれている。津波は、恐ろしい!
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