2013/1/26
「新都心「おもろまち」散歩」 旅行記録
那覇市郊外に広がる広大なエリアに「新しい街」ができていっている。高層ビルが建設中で、若さを感じさせる地域である。
ゆいレール(モノレール)に、2日間乗り放題のチケット(1000円)を購入して「おもろまち」へ出かけた。
駅前には世界の一流ブランド(ブルガリ・ディオール・グッチ・シャネル・ヴィトンなど80以上)が集結している「DFSギャラリア・沖縄」(免税店)の建物があった。1万㎡の広さだからすごい免税店である。
しかし、私はまったく関心がないので、素通り。
広大な建物を素通りして、次の建物へ。こちらもものすごく大きい。「サンエー那覇」というスーパーマーケットと専門店が合体した「ショッピングモール」であった。
とにかくショッピングモールは全国的にどこも広いのだが、沖縄のショッピングモールも広かった。ショッピングモール内で、どこを歩いているのかわからなくなって、2度も教えてもらった。警備の方が親切に行き先を案内してくれた。困っている人に対して親切にしてくれる雰囲気がありがたかった。
売り場は1階と2階だけ(3階から6階はすべて駐車場になっていた)だったが、とにかく平面面積が広かった。建物内で、東西に2本、南北にも2本の道が走っているような構造になっており、(正確には違っているかもしれないが)初めての訪問者には「複雑で、まいったなあ!」であった。
今日はここだけの散歩で疲れてしまったので、早々と引き上げて、ゆいレールに乗って宿泊場所に帰ってきた。あー疲れた。
明日は「建物の中」には入らずに、「公園や町並み」を散歩するつもり。
今日の感想。那覇市新都心「おもろまち」は若い! 私には疲れる場所だった。
新都心「おもろまち」改札を出ると、すぐにDFSの建物
背後には、ツインのタワービルが建設中
モノレール(ゆいレール) 車両は2両編成
おもろまち駅前の公園(すっきりと直線的だった)
公園の一部に、霧状の噴水があった。
子どもたちは大喜びで、走り回っていた。
ゆいレール(モノレール)に、2日間乗り放題のチケット(1000円)を購入して「おもろまち」へ出かけた。
駅前には世界の一流ブランド(ブルガリ・ディオール・グッチ・シャネル・ヴィトンなど80以上)が集結している「DFSギャラリア・沖縄」(免税店)の建物があった。1万㎡の広さだからすごい免税店である。
しかし、私はまったく関心がないので、素通り。
広大な建物を素通りして、次の建物へ。こちらもものすごく大きい。「サンエー那覇」というスーパーマーケットと専門店が合体した「ショッピングモール」であった。
とにかくショッピングモールは全国的にどこも広いのだが、沖縄のショッピングモールも広かった。ショッピングモール内で、どこを歩いているのかわからなくなって、2度も教えてもらった。警備の方が親切に行き先を案内してくれた。困っている人に対して親切にしてくれる雰囲気がありがたかった。
売り場は1階と2階だけ(3階から6階はすべて駐車場になっていた)だったが、とにかく平面面積が広かった。建物内で、東西に2本、南北にも2本の道が走っているような構造になっており、(正確には違っているかもしれないが)初めての訪問者には「複雑で、まいったなあ!」であった。
今日はここだけの散歩で疲れてしまったので、早々と引き上げて、ゆいレールに乗って宿泊場所に帰ってきた。あー疲れた。
明日は「建物の中」には入らずに、「公園や町並み」を散歩するつもり。
今日の感想。那覇市新都心「おもろまち」は若い! 私には疲れる場所だった。
新都心「おもろまち」改札を出ると、すぐにDFSの建物
背後には、ツインのタワービルが建設中
モノレール(ゆいレール) 車両は2両編成
おもろまち駅前の公園(すっきりと直線的だった)
公園の一部に、霧状の噴水があった。
子どもたちは大喜びで、走り回っていた。
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2013/1/25
「那覇到着」 旅行記録
雪のちらつく関空から、温暖な那覇に無事到着した。那覇の気温は19度。ちょうど適温である。夏日(25度以上)まではいかないが、やはり暖かい。着ていたジャンバーを脱いだ。
今回はウイークリーマンションを利用する。ショートステイ生活がスタートした。いよいよ、散歩中心の生活が始まった。
ちなみに、ANA便は予定通り運航し、予定時刻に到着した。
私は窓際の席が好きである。風景を楽しめるからである。
子どもの時から地図を見るのが好きだった。県庁所在地や世界の国々の首都を覚えたりすることが好きになり、中学生のころから、地理に関してはいい点を取るようになった。「好きこそものの上手なれ」のパターン。
45年ほど前のこと(浪人中のこと)だが、模擬試験での「成績優秀者」ということで、(予備校の建物の壁に)氏名を貼り出されたことがあった。(今はどうか知らないが、昔は名前を貼り出していた。)総合成績ではさっぱりであったが、「地理」だけは別であった。工業系の高校(電波高校)を卒業してから、大学受験勉強をしたので、苦労した。電波に関する(電子工学など)授業が中心の学校だったので、大学受験となると「さっぱり」であった。
私立大学は入学金や授業料が高いので、(経済的に)行くことができないので、浪人生活はそれなりに必死であった。1年浪人して国公立がだめだったら、働くつもりをしていた。 一浪しての受験結果は、1期校(昔は今とは違って、全国の大学が1期校と2期校に分かれていて、国公立大学の受験機会が2度あった。)の大学受験は大阪市立大学文学部(二部)に合格できた。「二部」つまり夜間大学である。夜間部の大学とはいえ、とにかく国公立大学に合格できたことがうれしかった。受験番号を今でも覚えている。8番。
合格者番号を書いた巻紙が掲示されていくとき、「八」が早々と目に入った。瞬間、感激した。うれしかった。「やったー! これで大学生になれるぞ!」と。
「大学生になれるんだ」という明るい気分で、2期校を受験した。こちらは昼間の大学。大阪教育大学(国語科)。予備校でのデータでは、合格確率は「ほとんど可能性はない」とのことであった。予備校でのデータの予想は「はずれた」。意外や意外、「合格」したのだ。たぶん、(夜間部とはいえ)1期校に合格して、気をよくして受験したことが「実力以上の点数につながったのだ」と思った。
とにかく、昼間の国公立大学にも合格できたことがうれしかった。
大阪市立大学、大阪教育大学どちらにしようかと迷った。どちらも授業料が月1000円だったので、月に2000円だったら、二大学(夜と昼で)どちらも通えるかな・・・と思った。
大阪市立大学へ行き、手続きの相談をしてみたら、「二つの大学に所属はできません。どちらか一つにしてください。」と言われた。
ちょっと迷ったが、やはり「昼間の大学の方がいいだろう」と思い、大阪教育大学を選んだ。そして、36年間教師をし、退職して約5年。晴耕雨読の人生を楽しんでいる。
つい、昔の話を長々と書いてしまった。
以前にもこのブログで同じようなことを書いているので、「また同じようなことを書いている」と思われた方には、陳腐な内容で申し訳ない。すみません。
話は完全に脱線してしまった。
飛行機の窓際に座るのが好きな私。私は「窓から見える地形・風景」を(頭の中にある)地図と照らし合わせて味わうことに、「無上の喜び」を感じるタイプ。
上空から見る景色は退屈しない。関空から沖縄まで、少年のようにずっと景色を見ていた。今回は進行方向右側の席で、前から3列目で、景色が見やすかった。
天気も良く、窓からの下の地形・風景がはっきりと見えた。雲が少しあったが、雲間から地形や橋などをはっきりと確認できた。
飛行機は淡路島を横断し、四国山地上空を飛んでいた。明石大橋、小豆島、屋島や高松市を見ることができた。瀬戸大橋を確認してから、しばらくすると私の出身高校(現在は高専)のある荘内半島(先端は三崎)が見えてきた。瀬戸内海に浮かぶ(荘内半島に近い)粟島は飛行機から見下ろすとスクリュウの形をしているので、見間違いをしていないはずである。スクリュウの形の島=粟島。昔はこの島に船員養成の「国立海員学校」があったが、今はなくなっている。
(参考までの話だが、香川県の「詫間町」に、昔は国立の学校が2校もあったのだ。)
飛行機から母校の建物やグラウンドは見えなかったが、(近いコースを飛んでいたら見えたのだが)過去に一度だけ見たことがある。大分空港からの帰りだった。(意外にも、飛行機から下に見える建物が識別できるものですね。)
粟島を見た後、しばらくすると四国の西に突き出した日本一細長い半島=佐田岬半島が見えだした。その先は関サバ・関アジが捕れる豊後海峡。もうすぐ大分県である。
飛行機は都井岬方面へ。九州・鹿児島県の海岸線を右手に見て、種子島・屋久島上空を通過。屋久島の山々がはっきりと見えた。
それから後は、海・波・雲とその影ばかりになった。
そうこうしているうちに沖縄が見えてきた。
天気がよく、海岸線がはっきりと見えていた。伊計島(沖縄の東側の島)並びに島へつながっている「海中道路」も見えてきた。
沖縄戦の激戦の地「摩文仁の丘」に整備された「平和祈念公園」や喜屋武岬(きゃんみさき)近くの平和之塔も見えていた。
喜屋武岬は、戦争で米兵に追い詰められた住民の多くが崖から飛び下りた「悲劇の岬」である。
戦争につながる動きには断固反対したい!(何年か前に、この岬を実際に訪れた。その時、合掌せずにいられなかった。戦争は人間の理性を奪ってしまう。私のようなものが戦場に駆り出されることはないだろうが、若者たちのために、戦争への動きに断固反対していくつもりである。自衛隊から国防軍への動きには反対!)
喜屋武岬上空で右旋回した飛行機は、糸満市を右に見ながら那覇空港に到着した。
まったく退屈しない「2時間20分」であった。
今回はウイークリーマンションを利用する。ショートステイ生活がスタートした。いよいよ、散歩中心の生活が始まった。
ちなみに、ANA便は予定通り運航し、予定時刻に到着した。
私は窓際の席が好きである。風景を楽しめるからである。
子どもの時から地図を見るのが好きだった。県庁所在地や世界の国々の首都を覚えたりすることが好きになり、中学生のころから、地理に関してはいい点を取るようになった。「好きこそものの上手なれ」のパターン。
45年ほど前のこと(浪人中のこと)だが、模擬試験での「成績優秀者」ということで、(予備校の建物の壁に)氏名を貼り出されたことがあった。(今はどうか知らないが、昔は名前を貼り出していた。)総合成績ではさっぱりであったが、「地理」だけは別であった。工業系の高校(電波高校)を卒業してから、大学受験勉強をしたので、苦労した。電波に関する(電子工学など)授業が中心の学校だったので、大学受験となると「さっぱり」であった。
私立大学は入学金や授業料が高いので、(経済的に)行くことができないので、浪人生活はそれなりに必死であった。1年浪人して国公立がだめだったら、働くつもりをしていた。 一浪しての受験結果は、1期校(昔は今とは違って、全国の大学が1期校と2期校に分かれていて、国公立大学の受験機会が2度あった。)の大学受験は大阪市立大学文学部(二部)に合格できた。「二部」つまり夜間大学である。夜間部の大学とはいえ、とにかく国公立大学に合格できたことがうれしかった。受験番号を今でも覚えている。8番。
合格者番号を書いた巻紙が掲示されていくとき、「八」が早々と目に入った。瞬間、感激した。うれしかった。「やったー! これで大学生になれるぞ!」と。
「大学生になれるんだ」という明るい気分で、2期校を受験した。こちらは昼間の大学。大阪教育大学(国語科)。予備校でのデータでは、合格確率は「ほとんど可能性はない」とのことであった。予備校でのデータの予想は「はずれた」。意外や意外、「合格」したのだ。たぶん、(夜間部とはいえ)1期校に合格して、気をよくして受験したことが「実力以上の点数につながったのだ」と思った。
とにかく、昼間の国公立大学にも合格できたことがうれしかった。
大阪市立大学、大阪教育大学どちらにしようかと迷った。どちらも授業料が月1000円だったので、月に2000円だったら、二大学(夜と昼で)どちらも通えるかな・・・と思った。
大阪市立大学へ行き、手続きの相談をしてみたら、「二つの大学に所属はできません。どちらか一つにしてください。」と言われた。
ちょっと迷ったが、やはり「昼間の大学の方がいいだろう」と思い、大阪教育大学を選んだ。そして、36年間教師をし、退職して約5年。晴耕雨読の人生を楽しんでいる。
つい、昔の話を長々と書いてしまった。
以前にもこのブログで同じようなことを書いているので、「また同じようなことを書いている」と思われた方には、陳腐な内容で申し訳ない。すみません。
話は完全に脱線してしまった。
飛行機の窓際に座るのが好きな私。私は「窓から見える地形・風景」を(頭の中にある)地図と照らし合わせて味わうことに、「無上の喜び」を感じるタイプ。
上空から見る景色は退屈しない。関空から沖縄まで、少年のようにずっと景色を見ていた。今回は進行方向右側の席で、前から3列目で、景色が見やすかった。
天気も良く、窓からの下の地形・風景がはっきりと見えた。雲が少しあったが、雲間から地形や橋などをはっきりと確認できた。
飛行機は淡路島を横断し、四国山地上空を飛んでいた。明石大橋、小豆島、屋島や高松市を見ることができた。瀬戸大橋を確認してから、しばらくすると私の出身高校(現在は高専)のある荘内半島(先端は三崎)が見えてきた。瀬戸内海に浮かぶ(荘内半島に近い)粟島は飛行機から見下ろすとスクリュウの形をしているので、見間違いをしていないはずである。スクリュウの形の島=粟島。昔はこの島に船員養成の「国立海員学校」があったが、今はなくなっている。
(参考までの話だが、香川県の「詫間町」に、昔は国立の学校が2校もあったのだ。)
飛行機から母校の建物やグラウンドは見えなかったが、(近いコースを飛んでいたら見えたのだが)過去に一度だけ見たことがある。大分空港からの帰りだった。(意外にも、飛行機から下に見える建物が識別できるものですね。)
粟島を見た後、しばらくすると四国の西に突き出した日本一細長い半島=佐田岬半島が見えだした。その先は関サバ・関アジが捕れる豊後海峡。もうすぐ大分県である。
飛行機は都井岬方面へ。九州・鹿児島県の海岸線を右手に見て、種子島・屋久島上空を通過。屋久島の山々がはっきりと見えた。
それから後は、海・波・雲とその影ばかりになった。
そうこうしているうちに沖縄が見えてきた。
天気がよく、海岸線がはっきりと見えていた。伊計島(沖縄の東側の島)並びに島へつながっている「海中道路」も見えてきた。
沖縄戦の激戦の地「摩文仁の丘」に整備された「平和祈念公園」や喜屋武岬(きゃんみさき)近くの平和之塔も見えていた。
喜屋武岬は、戦争で米兵に追い詰められた住民の多くが崖から飛び下りた「悲劇の岬」である。
戦争につながる動きには断固反対したい!(何年か前に、この岬を実際に訪れた。その時、合掌せずにいられなかった。戦争は人間の理性を奪ってしまう。私のようなものが戦場に駆り出されることはないだろうが、若者たちのために、戦争への動きに断固反対していくつもりである。自衛隊から国防軍への動きには反対!)
喜屋武岬上空で右旋回した飛行機は、糸満市を右に見ながら那覇空港に到着した。
まったく退屈しない「2時間20分」であった。
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2012/6/23
「ドイツ旅行の思い出」 旅行記録
ドイツ・ロマンチック街道及びアルプス・パリ旅行をしたのは、10年ぐらい前だった気がする。もうかなり前のことになってしまったので、記憶があいまいだ。(後日、アルバムなどで調べてみることにした。結果は、なんと、15年前であった! 10年前も15年前も同じように感じるのだから、記憶力の劣化かな? 困ったものだ。)
一番印象に残った町は「ローテンブルク」。ロマンチック街道のハイライトで「中世の宝石箱」と称されるローテンブルク。 中世の街並みがそのまま残る「メルヘンの世界」へタイムスリップしてしまう町である。
(私が参加したのは)団体ツアー旅であったが、ローテンブルクの街中のホテルが宿泊場所だったので、(ラッキーなことに)夜の散歩と早朝の散歩ができた。
街は分厚い石壁の城壁に囲まれていた。その城壁の2階部分には幅80センチぐらいの通路があり、通路には外敵へ銃口が向けられるように小さな窓が点々と連続して作られていた。その窓(穴)からローテンブルクの「街の外」が見える。その城壁の狭い通路を伝って歩くと、街の「城壁」をぐるっと一周散歩できるようになっていた。(城壁の全部を歩くのにどれぐらいかかるのだろうか? 時間がない私には無理であった。それでも、4分の1ぐらいは歩けたように思っている。無茶苦茶広い街ではなかったから。
団体ツアー旅といえども、バスの出発時刻までは自由時間。早朝(5時頃だったかな?)に起きて、城壁の通路を時間の許される限り歩いた。早朝ゆえに、観光客は誰も歩いていなかった。それがよかった。静まり返った「ローテンブルク」の散歩は忘れられない思い出である。
もっとも、夜の散歩中、公園での地元市民らしい男性一人によるヴァイオリンの生演奏を聴いたことも印象深い。
静かな夜の公園で、城壁をバックに眼下に広がる森や川を見下ろしながら、男一人がヴァイオリンを奏でている……。日本では見たことのない風景であった。
(私にとって)ローテンブルクは最高に「ロマンチックな街」だった!
9日間の駆け足の旅であったが、流石に団体ツアー旅行は効率よくいろいろなところへ連れて行ってくれた。有名な観光地を連絡よく見学させてくれた。
ドイツでは、ローテンブルク・ライン川遊覧・ハイデルベルク・ノイシュバンシュタイン城(白鳥城)など。スイスでは登山鉄道で、ユングフラウヨッホまで行くことができたし、アルプスのホテルにも宿泊できた。ホテルの部屋からの眺めは素晴らしかった。
フランス・パリの街を散歩する時間があり、ルーブル美術館で「世界的名画」をたくさん見ることができた。ベルサイユ宮殿にも連れて行ってくれたし、待ち時間なしで入場もできた。団体ツアーならではの効率の良さである。
しかし、何と言っても思い出に残っているのは、自由時間の「散歩」である。
もう二度とヨーロッパの街を散歩することはないであろうが、せめて夢の中では散歩したいものである。
今夜は、いい夢が見られるかな・・・?
(15年前の写真を参考までに載せておきます。
ローテンブルクの町並み
街は一周すべてを城壁で囲んでいる。右写真は2階部分の通路
有名なノイシュバンシュタイン城(展望所より写す)
アルプスのホテルの部屋からの眺め
ロマンチック街道と古城街道が交わる地点がローテンブルク
一番印象に残った町は「ローテンブルク」。ロマンチック街道のハイライトで「中世の宝石箱」と称されるローテンブルク。 中世の街並みがそのまま残る「メルヘンの世界」へタイムスリップしてしまう町である。
(私が参加したのは)団体ツアー旅であったが、ローテンブルクの街中のホテルが宿泊場所だったので、(ラッキーなことに)夜の散歩と早朝の散歩ができた。
街は分厚い石壁の城壁に囲まれていた。その城壁の2階部分には幅80センチぐらいの通路があり、通路には外敵へ銃口が向けられるように小さな窓が点々と連続して作られていた。その窓(穴)からローテンブルクの「街の外」が見える。その城壁の狭い通路を伝って歩くと、街の「城壁」をぐるっと一周散歩できるようになっていた。(城壁の全部を歩くのにどれぐらいかかるのだろうか? 時間がない私には無理であった。それでも、4分の1ぐらいは歩けたように思っている。無茶苦茶広い街ではなかったから。
団体ツアー旅といえども、バスの出発時刻までは自由時間。早朝(5時頃だったかな?)に起きて、城壁の通路を時間の許される限り歩いた。早朝ゆえに、観光客は誰も歩いていなかった。それがよかった。静まり返った「ローテンブルク」の散歩は忘れられない思い出である。
もっとも、夜の散歩中、公園での地元市民らしい男性一人によるヴァイオリンの生演奏を聴いたことも印象深い。
静かな夜の公園で、城壁をバックに眼下に広がる森や川を見下ろしながら、男一人がヴァイオリンを奏でている……。日本では見たことのない風景であった。
(私にとって)ローテンブルクは最高に「ロマンチックな街」だった!
9日間の駆け足の旅であったが、流石に団体ツアー旅行は効率よくいろいろなところへ連れて行ってくれた。有名な観光地を連絡よく見学させてくれた。
ドイツでは、ローテンブルク・ライン川遊覧・ハイデルベルク・ノイシュバンシュタイン城(白鳥城)など。スイスでは登山鉄道で、ユングフラウヨッホまで行くことができたし、アルプスのホテルにも宿泊できた。ホテルの部屋からの眺めは素晴らしかった。
フランス・パリの街を散歩する時間があり、ルーブル美術館で「世界的名画」をたくさん見ることができた。ベルサイユ宮殿にも連れて行ってくれたし、待ち時間なしで入場もできた。団体ツアーならではの効率の良さである。
しかし、何と言っても思い出に残っているのは、自由時間の「散歩」である。
もう二度とヨーロッパの街を散歩することはないであろうが、せめて夢の中では散歩したいものである。
今夜は、いい夢が見られるかな・・・?
(15年前の写真を参考までに載せておきます。
ローテンブルクの町並み
街は一周すべてを城壁で囲んでいる。右写真は2階部分の通路
有名なノイシュバンシュタイン城(展望所より写す)
アルプスのホテルの部屋からの眺め
ロマンチック街道と古城街道が交わる地点がローテンブルク
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タグ: 思い出
2012/3/9
「人生は旅」 旅行記録
「一ヶ月が過ぎ去るのは早いなあ!」と感じるようになった。一日が過ぎゆく時間はゆっくりだが、一ヶ月・一年は早いものである。もう、若くはないからであろうか?
59歳の時は現役だったので、一年を長く感じていたが、60歳になってからは「一年が早い、早い!」。もう3か月余りすれば、64歳になる。あっという間だ。この調子だと、70歳に至るまでも「あっという間」なのかもしれない。
70歳まで生きているかどうかはわからないが・・・・
人生は旅。
旅に生き、旅に死ぬ。
毎日が旅。
一日一日が旅。
いつ死んでもいいように「覚悟」だけはしておかなければならないが・・・・
さて・・・・
59歳の時は現役だったので、一年を長く感じていたが、60歳になってからは「一年が早い、早い!」。もう3か月余りすれば、64歳になる。あっという間だ。この調子だと、70歳に至るまでも「あっという間」なのかもしれない。
70歳まで生きているかどうかはわからないが・・・・
人生は旅。
旅に生き、旅に死ぬ。
毎日が旅。
一日一日が旅。
いつ死んでもいいように「覚悟」だけはしておかなければならないが・・・・
さて・・・・
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2012/2/12
「石垣島旅行 その3」 旅行記録
旅行5日目(2月12日)
昨日は曇天のため、石垣市内を散歩した。多くの家の庭には桜(ヒカンサクラ)の花。どの家の木もちょうど満開であった。(2月に満開になるのだなあ)。桜の花とハイビスカスの花が咲き乱れ、各家庭を明るい雰囲気につつんでいた。
真冬なのに、桜とハイビスカス。亜熱帯気候の地であることを実感させてくれた。
本日(12日)、予定していた波照間島行を決行。(明日は帰るので、本日が最後のチャンスだった。)
朝、少し曇っていたが、朝一番の高速艇(石垣港8時30分発)で波照間島へ向かった。今回の旅の主たる目的地「波照間島」へ。
直行便であったはずなのに、急に西表島経由便になった。団体ツアー客(約60人ぐらいか?)が西表島まで、波照間島行の高速船に同乗することになった。西表島に着くと、ツアー客たちは下船した。波照間島まで行く客は20人余りに減ってしまった。船内はガラガラになった。やはり八重山諸島で一番人気は、(西表島から浅瀬の海を水牛で渡る)由布(ゆぶ)島らしい。あの海の中を水牛が行く風景は八重山諸島めぐりの中では、断トツ。
波照間島には(経由便になったために)80分ほどかかったが、到着して空を見上げたら、真っ青な空に変わっていた。雲がなくなっていたのだ。晴天になった。
港近くでレンタル自転車店を見つけたので、(電動ではなく乗り慣れている)普通の自転車を借りた。
旅行地図を片手に自転車をこぎだした。交差点に来たら、(全国どこでも)標識があるだろうと気楽に考えて(予想して)いたのだが、この島の交差点にはほとんどなかったのだ。(さて、ここで、曲がるのかな? まっすぐ行くのかな? 標識がない! どっちだ、どっちだ?)
そうこうしているうちに、今自分がどこを走っているのか、さっぱりわからなくなってしまった。
ほとんど人にも会わない。(観光案内の本を読んで、人が少ない島だと予想をしていた。)自転車を借りて走りだしたまでは一応順調(?)であったが・・・・。
道路の交差点に(ほとんど)標識がない島なのだ。交差している道路が意外に多いのに、標識がない! 標識があって当然の生活をしてきた者にとっては、不安だった。地図を持っていても、自分のいる場所が不明になってしまう不安。(狭い島とはいえ、自分の現在地がわからなくなってしまうと不安なものである。)
(約3時間後には波照間港へ戻らねばならないのに・・・、今、自分はどこを走っているのだろうか?)
自分のいる位置が不明になってしまうと、精神的にあせるものである。
やはり、(次の船が出航する時刻までに)日本最南端の岬(崎)へ行きたい!
(あせりながら)そうこうしているうちに灯台が目に入ってきた。地図で波照間島灯台の位置を確認した。灯台は島のほぼ真ん中であった。
(「高那崎」は海辺のはずだ。さて? どっちの方角かな? 太陽はほぼ真上の時間帯だ、太陽をたよりに方角をきめられないし・・・磁石も持っていないし・・・困ったなあ・・・)
迷った挙句、「勘」で方向を決めて自転車を走らせた。
汗がたらたらと流れてきた。真夏のような天気になっていたのだった。妻は疲れて、坂道になるとどんどん遅れ始めていた。(疲れているのだろう…)
人生で、初めての岬(崎)を見ることに無上の喜びを感じる私。だが、妻にとっては感動をよぶ場所ではない。それでも、よくつきあってくれている。今回は、(波照間島内)自転車利用による高那崎(日本最南端の地)行きにつきあってくれたのだ。
(レンタカー利用ではなく)自転車利用をしたために、目的地への方角を失って焦っているうえに、妻にも申し訳ないという気持ちもあって、よけいに焦っていた。
24度(その時はわからなかったが、石垣港到着で知った)の夏日に近い気温の中、自転車利用でくたくた。二人とも汗がたらたら・・・。
二人が疲れ切ったころ、「あった!」。
波照間空港があったのだ。
現在使われていない空港であったが、滑走路が「あった!」のだ。波照間空港を地図で確認できたので、自分のいる位置が分かった。ほっとした。
「もうすぐ目的地にちがいない! 先に行って道を確認しておくから、ゆっくりついてきて」と、遅れる妻に声をかけてから、「日本最南端の碑」への道を探した。見つかった。
標識のない交差点に何度も苦労したが、なんとか目的地に着くことができた。疲れ切っていた妻も遅れながらも到着した。
断崖絶壁に打ち寄せる波、波、波。酒が飲めない私であるが、日本最南端の断崖絶壁に立ち、心の中で「一献」。人生に乾杯した。
日本最南端の岬よ、ありがとう!
妻にも感謝。
今日、「死ぬまでに一度は行きたい岬」に行くことができた。
実質、今回の旅は終わった。
明日は午前の便で(那覇乗継)関空へ。
人口4万8千人の石垣市。中心部にも昔ながらの瓦屋根の家がかなり点在していた。
桜の花(写真右手の木)が満開。門から先の正面の壁は魔よけ(悪魔はまっすぐにしか進めないらしい。)のためのもの。人間なら壁にぶつかりそうになれば、左右どちらかに曲がって家に入れるのに、悪魔はそういうことが出来ないらしい。(ふーん、と思って説明を聞いた私。) つまり、泥棒除けではない壁とのことである。地元に人に説明を聞く機会があって、教えていただいた。
(日本各地の建造物にも、それぞれにいろいろ意味があるんだろうなあ・・・。いい勉強になりました。聞いてみないとわからないことが、世の中にはいっぱいあるものですね。)
道(の交差点)にほとんど標識はない。どこまでも道が続いている。
岬に立っているのではなく、島の中央部(写真手前は幼いサトウキビの畑)に波照間島灯台があった。
高那崎(たかなざき)の近くに「日本最南端の碑」があった。
日本最南端の岬=高那崎
風景の迫力に圧倒されて緊張しながら見つめていた、断崖絶壁の「波・海・空」
高那崎付近は1km近く断崖絶壁が続いている。その先に太平洋の大海原。
ここが日本の南の果てである。
昨日は曇天のため、石垣市内を散歩した。多くの家の庭には桜(ヒカンサクラ)の花。どの家の木もちょうど満開であった。(2月に満開になるのだなあ)。桜の花とハイビスカスの花が咲き乱れ、各家庭を明るい雰囲気につつんでいた。
真冬なのに、桜とハイビスカス。亜熱帯気候の地であることを実感させてくれた。
本日(12日)、予定していた波照間島行を決行。(明日は帰るので、本日が最後のチャンスだった。)
朝、少し曇っていたが、朝一番の高速艇(石垣港8時30分発)で波照間島へ向かった。今回の旅の主たる目的地「波照間島」へ。
直行便であったはずなのに、急に西表島経由便になった。団体ツアー客(約60人ぐらいか?)が西表島まで、波照間島行の高速船に同乗することになった。西表島に着くと、ツアー客たちは下船した。波照間島まで行く客は20人余りに減ってしまった。船内はガラガラになった。やはり八重山諸島で一番人気は、(西表島から浅瀬の海を水牛で渡る)由布(ゆぶ)島らしい。あの海の中を水牛が行く風景は八重山諸島めぐりの中では、断トツ。
波照間島には(経由便になったために)80分ほどかかったが、到着して空を見上げたら、真っ青な空に変わっていた。雲がなくなっていたのだ。晴天になった。
港近くでレンタル自転車店を見つけたので、(電動ではなく乗り慣れている)普通の自転車を借りた。
旅行地図を片手に自転車をこぎだした。交差点に来たら、(全国どこでも)標識があるだろうと気楽に考えて(予想して)いたのだが、この島の交差点にはほとんどなかったのだ。(さて、ここで、曲がるのかな? まっすぐ行くのかな? 標識がない! どっちだ、どっちだ?)
そうこうしているうちに、今自分がどこを走っているのか、さっぱりわからなくなってしまった。
ほとんど人にも会わない。(観光案内の本を読んで、人が少ない島だと予想をしていた。)自転車を借りて走りだしたまでは一応順調(?)であったが・・・・。
道路の交差点に(ほとんど)標識がない島なのだ。交差している道路が意外に多いのに、標識がない! 標識があって当然の生活をしてきた者にとっては、不安だった。地図を持っていても、自分のいる場所が不明になってしまう不安。(狭い島とはいえ、自分の現在地がわからなくなってしまうと不安なものである。)
(約3時間後には波照間港へ戻らねばならないのに・・・、今、自分はどこを走っているのだろうか?)
自分のいる位置が不明になってしまうと、精神的にあせるものである。
やはり、(次の船が出航する時刻までに)日本最南端の岬(崎)へ行きたい!
(あせりながら)そうこうしているうちに灯台が目に入ってきた。地図で波照間島灯台の位置を確認した。灯台は島のほぼ真ん中であった。
(「高那崎」は海辺のはずだ。さて? どっちの方角かな? 太陽はほぼ真上の時間帯だ、太陽をたよりに方角をきめられないし・・・磁石も持っていないし・・・困ったなあ・・・)
迷った挙句、「勘」で方向を決めて自転車を走らせた。
汗がたらたらと流れてきた。真夏のような天気になっていたのだった。妻は疲れて、坂道になるとどんどん遅れ始めていた。(疲れているのだろう…)
人生で、初めての岬(崎)を見ることに無上の喜びを感じる私。だが、妻にとっては感動をよぶ場所ではない。それでも、よくつきあってくれている。今回は、(波照間島内)自転車利用による高那崎(日本最南端の地)行きにつきあってくれたのだ。
(レンタカー利用ではなく)自転車利用をしたために、目的地への方角を失って焦っているうえに、妻にも申し訳ないという気持ちもあって、よけいに焦っていた。
24度(その時はわからなかったが、石垣港到着で知った)の夏日に近い気温の中、自転車利用でくたくた。二人とも汗がたらたら・・・。
二人が疲れ切ったころ、「あった!」。
波照間空港があったのだ。
現在使われていない空港であったが、滑走路が「あった!」のだ。波照間空港を地図で確認できたので、自分のいる位置が分かった。ほっとした。
「もうすぐ目的地にちがいない! 先に行って道を確認しておくから、ゆっくりついてきて」と、遅れる妻に声をかけてから、「日本最南端の碑」への道を探した。見つかった。
標識のない交差点に何度も苦労したが、なんとか目的地に着くことができた。疲れ切っていた妻も遅れながらも到着した。
断崖絶壁に打ち寄せる波、波、波。酒が飲めない私であるが、日本最南端の断崖絶壁に立ち、心の中で「一献」。人生に乾杯した。
日本最南端の岬よ、ありがとう!
妻にも感謝。
今日、「死ぬまでに一度は行きたい岬」に行くことができた。
実質、今回の旅は終わった。
明日は午前の便で(那覇乗継)関空へ。
人口4万8千人の石垣市。中心部にも昔ながらの瓦屋根の家がかなり点在していた。
桜の花(写真右手の木)が満開。門から先の正面の壁は魔よけ(悪魔はまっすぐにしか進めないらしい。)のためのもの。人間なら壁にぶつかりそうになれば、左右どちらかに曲がって家に入れるのに、悪魔はそういうことが出来ないらしい。(ふーん、と思って説明を聞いた私。) つまり、泥棒除けではない壁とのことである。地元に人に説明を聞く機会があって、教えていただいた。
(日本各地の建造物にも、それぞれにいろいろ意味があるんだろうなあ・・・。いい勉強になりました。聞いてみないとわからないことが、世の中にはいっぱいあるものですね。)
道(の交差点)にほとんど標識はない。どこまでも道が続いている。
岬に立っているのではなく、島の中央部(写真手前は幼いサトウキビの畑)に波照間島灯台があった。
高那崎(たかなざき)の近くに「日本最南端の碑」があった。
日本最南端の岬=高那崎
風景の迫力に圧倒されて緊張しながら見つめていた、断崖絶壁の「波・海・空」
高那崎付近は1km近く断崖絶壁が続いている。その先に太平洋の大海原。
ここが日本の南の果てである。
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2012/2/10
「石垣島旅行 その2」 旅行記録
旅行3日目(2月10日)
予定通り、石垣島の乗り合いバス(東バス)利用で、川平公園(川平湾)へ行ってきた。片道700円のところ、5日間乗り放題1000円というチケットを購入して往復した。往復1400円かかるところだが、1000円。不思議な切符だなあ・・・と思った。5日間も使えるのが、不思議だ。普通は「一日乗り放題または二日間乗り放題」だろう。乗り合いバスチケットで「5日間乗り放題」は珍しい。それも、たったの1000円。
ほとんどの観光客は団体ツアーバスかレンタカー利用で川平湾へ行く。乗り合いバス利用で川平湾へ行く人は少ないのだろう。それで、川平湾コース・石垣空港コース利用の観光客向きに大幅格安チケットを販売するようになったらしい。
今日、乗り合いバス利用で川平湾まで行くバス(8時55分発)に乗っていたのは(私たちを含めて)4人だけであった。ガラガラ。川平湾(川平公園)に到着したら、ツアーバスやレンタカーなどはたくさん駐車してあった。流石、シーズンオフとはいえ、「川平湾」は石垣島で一番人気のある観光スポットであった。観光客の9割以上はここでグラスボートに乗るようである。それがメインの観光地でもある。
しかし、私たちは(前回グラスボートに乗ったので、今回は)川平湾周辺(海辺と川平公園)を散歩だけして帰ってきた。ゆっくりできた。
昨日の天気予報では「曇天」のはずであったが、昼が近づくにつれて、予報が外れて「晴天」になっていった。川平公園から見下ろす川平湾の海は透き通ったコバルトブルーになっていた。曇天では、この色は味わえないだろう。雲のない青空とマッチして、絵葉書などでよく見かける「川平湾」になった。
なんとまあ、天気運のいいことだろう!
天気が悪いだろうと思って、川平湾に来たのだが…。ラッキーだった。
晴天の川平(かびら)湾。グラスボートが並んでいる。海の色は(日によって)7色に変化するとのこと。海中のサンゴ礁や砂浜の美しさは抜群。川平公園からでも海が透けて見える。石垣島での人気観光スポット。(団体ツアーでは100パーセントここへ来る。)
予定通り、石垣島の乗り合いバス(東バス)利用で、川平公園(川平湾)へ行ってきた。片道700円のところ、5日間乗り放題1000円というチケットを購入して往復した。往復1400円かかるところだが、1000円。不思議な切符だなあ・・・と思った。5日間も使えるのが、不思議だ。普通は「一日乗り放題または二日間乗り放題」だろう。乗り合いバスチケットで「5日間乗り放題」は珍しい。それも、たったの1000円。
ほとんどの観光客は団体ツアーバスかレンタカー利用で川平湾へ行く。乗り合いバス利用で川平湾へ行く人は少ないのだろう。それで、川平湾コース・石垣空港コース利用の観光客向きに大幅格安チケットを販売するようになったらしい。
今日、乗り合いバス利用で川平湾まで行くバス(8時55分発)に乗っていたのは(私たちを含めて)4人だけであった。ガラガラ。川平湾(川平公園)に到着したら、ツアーバスやレンタカーなどはたくさん駐車してあった。流石、シーズンオフとはいえ、「川平湾」は石垣島で一番人気のある観光スポットであった。観光客の9割以上はここでグラスボートに乗るようである。それがメインの観光地でもある。
しかし、私たちは(前回グラスボートに乗ったので、今回は)川平湾周辺(海辺と川平公園)を散歩だけして帰ってきた。ゆっくりできた。
昨日の天気予報では「曇天」のはずであったが、昼が近づくにつれて、予報が外れて「晴天」になっていった。川平公園から見下ろす川平湾の海は透き通ったコバルトブルーになっていた。曇天では、この色は味わえないだろう。雲のない青空とマッチして、絵葉書などでよく見かける「川平湾」になった。
なんとまあ、天気運のいいことだろう!
天気が悪いだろうと思って、川平湾に来たのだが…。ラッキーだった。
晴天の川平(かびら)湾。グラスボートが並んでいる。海の色は(日によって)7色に変化するとのこと。海中のサンゴ礁や砂浜の美しさは抜群。川平公園からでも海が透けて見える。石垣島での人気観光スポット。(団体ツアーでは100パーセントここへ来る。)
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2012/2/9
「石垣島旅行」 旅行記録
昨日(2月8日)石垣島に。関空より那覇乗継で石垣空港に着いた。関空発の航空機の出発が遅れた。原因は利用飛行機(東京から来た飛行機。関空での掃除・燃料補給を済ませたら、すぐに那覇便として使用する。)が関空に遅れて到着したためである。
ちなみに、この日は天候の影響からか、全国的に航空ダイヤが乱れていたようである。私たちが利用する便だけではなかったようである。きっと天候不順の影響だったのだろう。飛行機はあっちこっちへ使いまわしているので、こういう場合はいろいろと全国的にダイヤに影響が出るようである。航空管制官も大変だろう。
というわけで、那覇での乗り継ぎがぎりぎりであった。もともと那覇での乗り継ぎ時間に余裕があったはずなのに、那覇到着遅れにより、「乗り継ぎ時間なし」の乗継になった。
関空から那覇、那覇から石垣へ。そういう乗客が何人もいるだろうと(関空では)思っていた。しかし、意外や意外、私の乗った便での石垣行への乗り継ぎ客は私たち二人だけだったのだ。(石垣行の飛行機に乗り込んでみて、やっとわかったことでしたが。)
那覇空港に到着した途端、空港アナウンスで私たちの名前が流れた。「○○様(私と妻のの実名)、26番ゲート(石垣空港行)へお急ぎください!」。私たちはあせった。空港で私たちの名前がアナウンスされたのは、初めてのこと。それも、「お急ぎください!」のアナウンス。
私たちに非があって那覇到着が遅れたわけではない。それなのに、「今到着した飛行機で石垣行の便に乗り継ぐ人は私たち以外にもいるはずなのに、なぜ私たちの名前だけがアナウンスされるのだろう?」とアナウンスが流れたこと自体を(その時点では)疑問に思っていたのだ。
私たち夫婦は26番ゲートへ走った、走った。同じ航空会社だったので、石垣行の26番ゲートまでは近かった。(違う航空会社で乗り継ぐ場合はゲートが遠い場合があるらしい。)
急いで飛行機に乗り込み、席に着いたら、飛行機の入り口が閉まった。
「あれ? 乗り継ぐ人は私たちだけだったのかな? なるほど、飛行機は私たち2名の搭乗を待っていてくれたのだ! それでアナウンスが流れたのだ。」と、やっと気づいた。
私たちが席に着くと、すぐに飛行機は動き始めた。「乗り継ぎ時間0分」の乗継であったようである。
本日(9日)の午前中に、竹富島へ渡って島内をゆっくりとしたペースで散策した。3年前は水牛車に乗っての散策であったが、今回は徒歩で回った。自転車利用の観光客をたくさん見かけた。若い人たちは水牛車と自転車の両方を利用して島全体を観光しているようであった。意外に思ったことは、「若い女性の一人旅」がちらほらと見かけたことである。女一人旅の地として、日本最果ての石垣島周辺(八重山諸島)の島々が人気らしいのかな、と勝手に想像したしだいである。失恋を癒すための旅かな? それとも退職した区切りの旅かな? いろいろ想像してしまった。定年退職後の老齢グループが旅行しているのなら、まったく気にならないが、「若い女性の一人旅」は気になるものである。
「人生で何かあったのだろうか・・・今は、春休み・ゴールデンウイーク・夏休みなどではないのに・・・こんな気候の悪いシーズンに・・・」などなど、詮索しなくてもいい(大きなお世話)ことなのだが、つい一人旅の女性に目が止まってしまった。皆さん仕事などで忙しいこの時期、竹富島に若い女性が何人もいたんだから、(ある意味で)びっくりしましたよ。(笑)
私たちは自転車を借りないで、島の中心部を徒歩だけで見て回った。風景を味わい、亜熱帯の花の美しさや風を感じながら歩いた。「歩く速度」で(二度目の)竹富島を見て回った。
散策に満足したので、適当な便で石垣港へ戻ることにした。団体ツアー客は時間に追われるがごとく、竹富島からはすぐにいなくなっていた。きっと次の島へ行ったのだろう。八重山8島めぐりなどの場合、一つの島にいる時間はわずかである。ツアーは忙しい旅になるので、ほとんど参加しなくなった。お金がかかっても、個人旅がゆっくりできるものである。
(話が前後するが)
今回の旅行で知り合った旅行者のAさんの話によると、福岡を利用し飛行機の那覇到着が遅れ、予定の便に乗り継げず、次の便に回されたとのことである。旅行予定が狂ったようである。予定の乗継便に乗れないことって、ときどきある話なんだなあ・・・と思った。(私は今まで乗継便に乗り遅れたことはなかったが。)
団体客なら待っていてくれるケースが多いのだろうが、個人客であっても(今回の私の場合は)待っていてくれたようである。予定通りに石垣空港に到着できてよかった。感謝。
昨日、本日ともに(天気予報から)覚悟していた通り、晴れではなく曇天であった。雨は降ってこなかったので、傘を使うことはなかった。雨が降っていないのでラッキーかな?
「晴れの日に波照間島へ行きたい!」これが、今回の旅の主たる目的である。天気予報によると、12日(日)は少し晴れるらしい。(天気予報が当たることを信じて)その日まで波照間島行を延ばそうと思った。
今日(9日)も天気予報通り曇天であった。そこで、石垣港からは一番近い竹富島へ渡り、島中心部の伝統的建造物集落群周辺を散策してきた。
午後2時ごろ石垣島に戻った。
まだ時間があったので、プロ野球(やはりロッテであった)キャンプ中の練習風景を見てきた。
「これがプロ野球球団のキャンプなんだ!」と実際の様子を見て感激した。
明日も曇天らしいなので、川平湾(石垣中心部から約18キロある)へレンタカー利用ではなく、乗り合いバスで出かける予定。
今回の旅はレンタカーを使わないで、乗り合いバスや自転車・徒歩が中心になる旅だから。
(本日のブログ内容、時間の順が無茶苦茶になってしまいました。重複記述もあり、読みにくくて申し訳ありません。)
ちなみに、この日は天候の影響からか、全国的に航空ダイヤが乱れていたようである。私たちが利用する便だけではなかったようである。きっと天候不順の影響だったのだろう。飛行機はあっちこっちへ使いまわしているので、こういう場合はいろいろと全国的にダイヤに影響が出るようである。航空管制官も大変だろう。
というわけで、那覇での乗り継ぎがぎりぎりであった。もともと那覇での乗り継ぎ時間に余裕があったはずなのに、那覇到着遅れにより、「乗り継ぎ時間なし」の乗継になった。
関空から那覇、那覇から石垣へ。そういう乗客が何人もいるだろうと(関空では)思っていた。しかし、意外や意外、私の乗った便での石垣行への乗り継ぎ客は私たち二人だけだったのだ。(石垣行の飛行機に乗り込んでみて、やっとわかったことでしたが。)
那覇空港に到着した途端、空港アナウンスで私たちの名前が流れた。「○○様(私と妻のの実名)、26番ゲート(石垣空港行)へお急ぎください!」。私たちはあせった。空港で私たちの名前がアナウンスされたのは、初めてのこと。それも、「お急ぎください!」のアナウンス。
私たちに非があって那覇到着が遅れたわけではない。それなのに、「今到着した飛行機で石垣行の便に乗り継ぐ人は私たち以外にもいるはずなのに、なぜ私たちの名前だけがアナウンスされるのだろう?」とアナウンスが流れたこと自体を(その時点では)疑問に思っていたのだ。
私たち夫婦は26番ゲートへ走った、走った。同じ航空会社だったので、石垣行の26番ゲートまでは近かった。(違う航空会社で乗り継ぐ場合はゲートが遠い場合があるらしい。)
急いで飛行機に乗り込み、席に着いたら、飛行機の入り口が閉まった。
「あれ? 乗り継ぐ人は私たちだけだったのかな? なるほど、飛行機は私たち2名の搭乗を待っていてくれたのだ! それでアナウンスが流れたのだ。」と、やっと気づいた。
私たちが席に着くと、すぐに飛行機は動き始めた。「乗り継ぎ時間0分」の乗継であったようである。
本日(9日)の午前中に、竹富島へ渡って島内をゆっくりとしたペースで散策した。3年前は水牛車に乗っての散策であったが、今回は徒歩で回った。自転車利用の観光客をたくさん見かけた。若い人たちは水牛車と自転車の両方を利用して島全体を観光しているようであった。意外に思ったことは、「若い女性の一人旅」がちらほらと見かけたことである。女一人旅の地として、日本最果ての石垣島周辺(八重山諸島)の島々が人気らしいのかな、と勝手に想像したしだいである。失恋を癒すための旅かな? それとも退職した区切りの旅かな? いろいろ想像してしまった。定年退職後の老齢グループが旅行しているのなら、まったく気にならないが、「若い女性の一人旅」は気になるものである。
「人生で何かあったのだろうか・・・今は、春休み・ゴールデンウイーク・夏休みなどではないのに・・・こんな気候の悪いシーズンに・・・」などなど、詮索しなくてもいい(大きなお世話)ことなのだが、つい一人旅の女性に目が止まってしまった。皆さん仕事などで忙しいこの時期、竹富島に若い女性が何人もいたんだから、(ある意味で)びっくりしましたよ。(笑)
私たちは自転車を借りないで、島の中心部を徒歩だけで見て回った。風景を味わい、亜熱帯の花の美しさや風を感じながら歩いた。「歩く速度」で(二度目の)竹富島を見て回った。
散策に満足したので、適当な便で石垣港へ戻ることにした。団体ツアー客は時間に追われるがごとく、竹富島からはすぐにいなくなっていた。きっと次の島へ行ったのだろう。八重山8島めぐりなどの場合、一つの島にいる時間はわずかである。ツアーは忙しい旅になるので、ほとんど参加しなくなった。お金がかかっても、個人旅がゆっくりできるものである。
(話が前後するが)
今回の旅行で知り合った旅行者のAさんの話によると、福岡を利用し飛行機の那覇到着が遅れ、予定の便に乗り継げず、次の便に回されたとのことである。旅行予定が狂ったようである。予定の乗継便に乗れないことって、ときどきある話なんだなあ・・・と思った。(私は今まで乗継便に乗り遅れたことはなかったが。)
団体客なら待っていてくれるケースが多いのだろうが、個人客であっても(今回の私の場合は)待っていてくれたようである。予定通りに石垣空港に到着できてよかった。感謝。
昨日、本日ともに(天気予報から)覚悟していた通り、晴れではなく曇天であった。雨は降ってこなかったので、傘を使うことはなかった。雨が降っていないのでラッキーかな?
「晴れの日に波照間島へ行きたい!」これが、今回の旅の主たる目的である。天気予報によると、12日(日)は少し晴れるらしい。(天気予報が当たることを信じて)その日まで波照間島行を延ばそうと思った。
今日(9日)も天気予報通り曇天であった。そこで、石垣港からは一番近い竹富島へ渡り、島中心部の伝統的建造物集落群周辺を散策してきた。
午後2時ごろ石垣島に戻った。
まだ時間があったので、プロ野球(やはりロッテであった)キャンプ中の練習風景を見てきた。
「これがプロ野球球団のキャンプなんだ!」と実際の様子を見て感激した。
明日も曇天らしいなので、川平湾(石垣中心部から約18キロある)へレンタカー利用ではなく、乗り合いバスで出かける予定。
今回の旅はレンタカーを使わないで、乗り合いバスや自転車・徒歩が中心になる旅だから。
(本日のブログ内容、時間の順が無茶苦茶になってしまいました。重複記述もあり、読みにくくて申し訳ありません。)