2022年11月16日に「小浜(こはま)宿」を探訪してきた。以前から、「小浜」という地名が気になっていた。宝塚市は海(瀬戸内海)から少し遠い位置にある。しかし、小浜という地名は、どういう根拠があってついているのだろうか? と疑問だった。
訪れてみて、疑問が解けました。「小浜宿資料館」で担当の方の説明ですぐに理解できました。昔、小浜の地は海(瀬戸内海)に面していたとのことでした。「宝塚」という地名が広くいきわたっている現在、「宝塚」という地名の方が古いように思っておられる方が多いようですが、「宝塚」という名が有名になり、いきわたっていったのは、新しい時代なってからだそうです。たぶん、明治時代以後のようです。鉄道が引かれ、鉄道沿線に住宅地が広がっていったのは、明治以降のようです。
宝塚市の小浜(こはま)は、15世紀末(戦国時代)に毫摂寺(ごうしょうじ)の寺内町として栄えているのです。京都や西宮、有馬などに通じる交通の要衝でもありました。江戸時代になってからは、京伏見街道、有馬街道、西宮街道(馬街道)が交わる宿場として賑わっていました。小浜宿は高台に栄えていて、周りは川や大きな池で囲まれている。(戦国時代の)旧堺市内が堀と海で囲まれた町であるように、小浜宿も防御しやすいように川や大きな池などで宿全体を守っている地形になっている。宿の周りはちょっとした「それなりの崖」で、侵入しにくい地形になっていました。実際に訪れて、歩いてみて分かったことでした。
浄土真宗の毫摂寺(ごうしょうじ)を中心に、寺内町として発展した小浜。この寺で、有馬温泉での湯治の折に、豊臣秀吉が千利休と茶を楽しんだとのことである。有馬温泉へむかうとき、まさしく「有馬街道」を利用したようである。また、この寺の次女は大変美しい方だったようで、豊臣秀次が側室(小浜の局)にしたとのことである。豊臣家と毫摂寺との関係の深さが推測できる逸話である。現在も立派な建物が残っている。
江戸時代、京伏見街道・西宮街道(馬街道)・有馬街道など、人の往来が多い宿場町だったようです。現在、古い建物が一部ですが、現存している「歴史を感じさせる町」として、静かな雰囲気の宝塚市の一区画である。阪急宝塚線の「売布駅」や「清荒神駅」に近い位置にある。阪急今津線では、逆瀬川駅からも近い。
今回私が歩いたコースは、阪急今津線の小林(おばやし)駅からスタートし、逆瀬川駅方面へ向かい、右折して武庫川を渡り、小浜宿(南の入り口)へ。小浜宿内をゆっくりと探索し、小浜宿資料館で説明を聞き、ビデオを視聴し、理解を深めることができました。小浜宿北の出入り口=国府橋をわたり、清荒神駅へ向かった。電車利用で帰宅しました。
小浜宿資料館では、展示の「江戸時代の小浜宿ジオラマ」を立体的にみることによって、把握しやすかったですね。
西国街道も機会を見つけて「歩き旅したいなあ・・・」と思いました。山陽道も歩く機会があればなあ・・・と、思った次第です。
以上、まとめと感想です。
(小浜交差点近くの)小浜宿入口の坂を登り、最初の4つ辻を左に入ったところに「首地蔵」があった。大きな頭部が2体並んだ少し不気味な地蔵さま。頭部だけの像を他でも見たことはあったが、ここのは大きかった。びっくりしましたね。説明板によると、「首から上の病気を治してもらえるお地蔵様」とのこと。脳梗塞再発防止もあって、手を合わせてお参りさせていただいた。
このすぐ近くに明治時代の名大関「谷風岩五郎」の墓があった。「谷風」なる力士は、この地の出身らしかった。名前と評判は(私が)子どものころに聞いたことのある力士でした。現在、その名を聞くことはなくなったが・・・。
(寺内町)小浜の中心となった寺=毫摂寺
宝塚市立 小浜宿資料館
江戸時代の建物が残っていました。現在もお住まいとのこと。
小浜宿の北出口にかかっている「国府橋」から橋の下を流れる川を写した。川の水面まで落差があった。小浜宿が高台にあることが認識できた。この川に降りていく坂が、「いわし坂」という名がつけられている。瀬戸内海でとれたイワシを運ぶルートの坂だったことから、坂の名がつけられたようです。「小浜」や「いわし坂」、 やはり、この地は海に近かったことが理解できました。