【人生の意味】97歳の哲学者、自分の死が近付くのを目の前にして。。。
A 97-Year-Old Philosopher Faces His Own Death
Herbert Fingarette once argued that there was no reason to fear death....
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動画を簡単に訳してみました。
2:00~
97歳というような高齢に達してない人には、高齢者の心理状態がどんなものであるのか理解するのは難しいだろう。
年を取ると、今までふつうに出来ていたことが出来なくなる。
自分では未だ出来ると思ってやってみるが出来ない。失敗して恥をかく。
以前で来てたことは今はもう出来ないという現実を受け入れるべきなのだが・・・
現実を素直に受け入れればよいのだが、高齢者たちは簡単には受け入れない。
それでも、僕は(他の高齢者と比べみて)たいていのことは未だ出来るほうだ。
でも、それは努力と特別な注意があるからこそであって、たやすいことではない。
手伝ってくれる人が必ず必要なのは言うまでもない。
誰かに補助してもらわなければ何も出来ないという妥協。それも試練に感じる。
4:40~
僕は、1921年、NYのブルックリンで生まれた。
97歳の今、未だ生きているということ自体、自分でも驚いている。
この年になると、死が訪れることを常に考える。
昔、僕はカリフォルニア大学で約40年間、哲学を教えていた。
若い頃、まず一番興味を抱いたのは精神分析学だった。
自己欺瞞や中国の儒教思想について本を出版した。倫理や法律、アルコールや薬物中毒に関するモラル的責任について、
また“死”についての本も書いたこともある。
死について書いたのは、今から20年前のこと。
死について何と書いたのか一言で説明するなら、こんな内容だった:
「死について何も恐れなくて良い。何も思い煩わなくて良い。死んだ後は、もう何も起こらないし、君自身が存在しないのだから。
苦しむことはなく、不幸に思う事もない。だって、君は、もう存在しないのだから。」
当時、“死を恐れないことは合理的だ”と断定したが、今ではそんな事を書くべきではなかったと後悔している。
死に直面する状況にいる人や死を怯えている人たちの気持ちを、もっと繊細に理解すべきだったと思う。
8:05~
僕は、頻繁に家の周りを歩き回る。そして、声を出して自問する。
「あの本の中で、いったいどういう結論を書くべきだったのか?」って。
私は何かを見逃していた。それが何だったのか、答えを見つけることが出来ていたら・・・と思う。
8:44~
僕は、自分が今、人生でどの地点にいるのか探している。
まだまだ、パズルと同じで人生の答えが埋まってない。その答えを探す事に、今でも、とても関心を持ってる。
その答えを求めるためにアレコレ考えるのだけど、その答えを見つけるのはとても難しい。
難し過ぎて、質問に蓋をしてしまうことも多々ある。
生きること・死ぬこと って一体何なんだろう?
そう自問しながら、これだ!と言える答えなんてあるわけない! と、既に決めつけている。
確かに、この質問自体が厄介だ。 だから、きっと答えはない。 この質問自体が馬鹿げている。
10:52~
僕自身、ハッキリ断定して言えることは・・・
孤独と不在が、僕の人生の多くを占めているということ。
僕にはとても心の通じた妻がいた。結婚して70年一緒にいた。彼女の存在は、僕の人生のほとんどを占めていた。
でも、彼女は逝ってしまった・・・もう何年も前の事ではあるけれど。
彼女が亡くなった後、自分の一部も亡くなってしまった。
僕たちは、一緒に仕事をし、旅をし、子供を育て、共に人生を過ごし・・・とても充実していた。
とても幸せな良い人生だった。
でも、彼女がいなくなった今、僕の半分も 一緒にいなくなった。
自分の半分が不在の人生。 そういう人生を過ごし始めてから既に何年か経った。
自分の半分がいない状態が、もう普通になっている。そういう状態に慣れてきた。
この状態を、空っぽ、空虚と呼ぶべきなのだろうか?
何かが欠けている状態だ。 もちろん、まず、妻がいない事が原因で起きた事だ。とても寂しい。
彼女の死の床で、彼女を看取った。とても辛い経験だった。
その時は、仕方なく、お互いが現実を受け入れた。
この部屋のこの場所で、よく妻のレスリーと一緒に音楽を聴いたんだよ・・・お互いの手を繋ぎながら。
14:02
“死”について考えると恐ろしい。死は起こって欲しくない。出来れば避けたいものである。
この世に生きていると多くの問題にぶち当たる。 でも、出来ればまだまだ生きていたい。
なぜ生きていたいかの根本理由は判らない。なぜ死を恐ろしく感じているかの根本理由も判らない。
自分が逝ってしまうというのは、どういう事なんだろうか?
14:55~
今、僕は庭のデッキチェアーに座っている。
そよ風で揺れてる木々を見ている。今までも、木々が風で揺れるのを見てきたけど、今日は特別な感覚だ。
とても美しく感じる。 長年、見てきたけれど、これら自然の美しさに気付いて、それを感謝して生きて来ただろうか?
いいや、感謝なんかしてこなかった・・・ 少なくとも、今日までは。
自然の美しさに気付いた今、死を受け入れるのがもっと嫌になった。涙が出て来るよ。
16:00~
色んな題材の本を書いたけれど、それぞれの分野のテーマについて、結論を述べ、問題解決したつもりだった。
でも、死については、単なる思想的なテーマではなかった。
自分の存在理由、人生の意味について探求したが、僕は答えが見出せなかった。
だから、今日も、単に存在するだけの生活、ただ生きるだけの活動。
そして、同時に待っている・・・この世にグッバイと別れを言わざる日が来るのを待っている。
*動画は、彼の死去する数か月前に撮影されたドキュメンタリー・フィルムです。
2018年に11月2日に既に亡くなっておられます。
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