処感

日々、想うままに綴る言の葉の置き場
My dear Life!

*我が子へ

2004-10-19 05:22:41 | エッセイ
大切なあなたへ…。

人は日々、自分の価値観で物事を判断し決定しながら時間経過と共に
変化しながら歩んでいる。また、そういうことすら殊更意識せずとも
一日、一日過ぎる時間を生活していることとなる。

小さな判断・選択・決定を繰り返しているウチに、己の歩いて来た跡が残るが
時間経過が重なってくるとそれを人生とも呼び過ぎた時間は
「自分で選択し決断して歩んで来た痕跡」となり、「私自身」もそこで確立してゆく。

小は今日、何を着て、何をするのかを決めることから 大は進路の選択まで
人は流れる時間の節目で小さくとも大きくとも判断と選択と決定を迫られる。
その流れは同じ流れはなく、絶えず違うものとなる。

ここでは、進路決定についてスポットを当て考えてみようか…。

子供の頃の、幼稚園・小中校などの選択はその子の両親の判断が幅を聞かせる。
子供自身には決定的判断能力がまだないからである。
親の個性と好み(笑)がかなり入るので受身の決定になる場合が多い。
それなので、私立小・中受験の場合は慎重さが要求されるのは言うまでもない。
受験し、そこに通学するのはその子自身だから本人が納得できるよう、
余地を持つことも重要となってくる。判断材料として一番望ましいのは、
受験する学校へ子供と一緒に出掛け、実際に交通手段・通学路、学校周囲の環境・勿論
学校そのものを自分の目で実際に見てみることが挙げられる。イメージが
具体的になり目標にもなってくるオマケまでついてくるかもしれないのだから
やってみる価値はあるのではないかな。

高校受験の頃は、これはもう本人の意志が9割・以上となるだろう。
中高一貫校に進学した者の中にも、中3で他校受験する子も若干名は出る。
理由はそれぞれだろうが、これもまた選択になる。

大学受験の季節になると親は子供の判断に任せ見守る存在となりアドバイスは
するけれど、子供の進路については本人の意思が何より大切な要素となる。
それぞれの子の力・適正・個性・将来の夢に併せ、細分化され分別されてゆく。
文系・理系に大きく分かれるけれど、この選択が早い時期に為される事については
ちょっと引っ掛かるが大学受験そのものが毎年のように方針が変化することが
原因だとは思うが高2生の時点で選択が決定されているので、特に高・3生に
なってからの文転はきついなと長男で実際に経験した親とすると痛感する(苦笑) 
これは、また大きな判断と選択となる。

受験が終ると大学、大学に入ったと思うと今度は独り立ちできる社会人になるべく
職業の選択、また進学の選択が待ち受けている。

・・・次から次へと大きな判断が求められその都度人は、その選択に沿って
歩く道筋の軌道修正求をめられる。

節目と節目の間に、人間関係も彩り鮮やかに描かれる。友人関係・師弟関係・先輩と
後輩関係などその子の活動により濃かったり薄かったりするけれど沢山揉まれ悩み、
笑い、泣き、喜び、怒りとにかく豊かな経験がそこにそれぞれ存在している。
人として独立するために長い準備期間が必要なのだと、つくづく思う。

疎かにしてはいけない大切な「自分の人生」。どのように歩くかは勿論自由なのだが
努力を嫌い好き勝手、遣りたい放題に過ごして来た者と、真摯に自分の進路・
将来を見据え準備しコツコツと己を律し学習してきた者と同じ時間経過と流れは
あるが、中身がではどうで行き先が何処になるのかは誰にも分からない。

何故、そうなるのか…自分の頭で想像力をおおいに働かせ思考して欲しいものだ。

一度しかない人生をどう生きるのか?考える時があってもいいと思う。
漫然と生きるのではなく、問題意識をもって積極的な思考回路を働かせたい。
後に必ずと言って良いほど自らが己に問う時が来るからである。
その時に後悔だけはしたくない。後悔だけはあなたにはさせたくはない。
「あの時、こうしておけば良かった」…の、「~たら・れば…」を云うのは残念。
現在進行形でいる今がとても大切な時だということをもっと自覚して欲しい。
順調であっても後悔はつきものなのだから、せめて選択に対しては納得・意的な
決定であってもらいたい。

いつも見守り、応援している母より

My dear Life


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MS明朝

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